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後日談
陽のあたる坂道 3
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縁側においてあった手拭いで手と足の汚れを落として、水差しの水で喉を潤していると、彼の妻と娘は大根をより分けて洗いながら、楽しそうに囀り始めた。
「大きな大根が、三本も折れてしまいました」
「あら、まあ、立派なお大根。そうね、一本はほろふき大根にして……残りの二本は鳥の肉と一緒に煮込みましょうか。ゆいも手伝ってね」
「はーい」
「何度も言ってるでしょう。『は』と『い』の間は伸ばさないの」
母親のお小言にちらりと舌を出して笑って、ゆいは正しく「はい」と言い直した。利発で口が達者で、時折、親でさえも手を焼いてしまう娘だが、性根は真っ直ぐで何より明るい。きっとこのまま妻のような佳い女子に育って、良き妻、良き母になってくれることだろう。
今日は天気が良いので明るいうちに、近所の家から頼まれていた踏み台の修理を終わらせようと立ち上がりかけた時、縁側に置かれた籠の中で、布の固まりがもごもごと動き出した。この籠はこの辺りの山にいくらでも生えている竹を使って、雅勝が編んだものだ。完全な自己流だが元々こういうことが好きなので、妻や周囲の人に乞われるまま、半分趣味のように作っていたら、いつしか義父が薬草と一緒に町で売ってくるようになった。今ではそれなりの売り上げがあるのだから、人生、何が幸いするか知れたものではない。
今、竹籠の中で肌触りのよい優しい感触の布に包まれた赤ん坊が、小さな手足をばたつかせ、全身を目いっぱいに使って泣いている。
「――あら?どうしたの?お腹が空いたの?」
我が子を抱き上げたるいが惜しげもなく襟をくつろげると、現れた白く張りのある膨らみに赤ん坊は一心不乱に貪りついた。
今年生まれた二人目の娘には、雅勝が「けい」と名付けた。
上の娘が生まれた時は側にいられなかったが、妻は乳の出がよい体質らしい。お陰で娘達は二人ともたっぷり乳を飲んで、大きな病もなくすくすくと成長している。腹が空いても乳を飲めず、頬に老人のような皺のある赤子の顔など、見ている方が切ないものだ。母親の乳が出ず、面子と体面第一の武家ではもらい乳もできず、弱弱しく泣くばかりだった妹に、近隣の農家の女房は快く乳を与えてくれた。武家とはいえ赤子の妹を背負って毎日頭を下げにやってくる少年を憐れんでくれたのだろう。ふかした芋や稗や粟の混ざった握り飯を食わせてもらったこともある。今思い返しても感謝しかない。
「――お母様、けい、お乳飲んでる?」
興味津々といった感じで母と妹を覗き込んでいるゆいは、とても赤ん坊を可愛がっていて、近所の人達に「あの家には母親が二人いる」と笑われるくらいに世話を焼いている。最近、大人びてきた一番の要因はこれだろう。まったくの偶然だが、ゆいとけいの年齢差は雅勝と妹のそれに等しい。彼女が――いや、彼女達が今頃どうしているかと気にならないわけではないのだが、正直、そこまで器用に生きられる自信がなかった。彼女達の息子と兄は十五年も昔に死んでいる。だが父として夫として二度も死ぬわけにはいかないから、その件についてはもう割り切ったつもりでいる。
「ゆいもよくお乳を飲む子だったけど、この子も本当によい飲みっぷりね」
「ゆいもこんな風だったの?」
「そうよ。ゆいも赤ちゃんの時、こんな風にお母様のお乳を飲んで大きくなったのよ」
武家の世において、己の命を惜しむことは恥とされる。
忠義の為、大義の為、ひとたび命じられれば黙って腹を切るのが美徳とされていて、十歳までしか生家にいなかった雅勝にもその考えは染み込んでいる。武家の常識に照らし合わせたなら、過去に己がしでかしたことは、忠義もへったくれもない、愚かで恥ずべき振る舞いである。
生と死の狭間にあって、己の命を惜しんだ。死にたくないと望んで敵の手を取った。誰に後ろ指を指されても仕方のない、愚かで恥ずべき振る舞いの結果が今のこの生活なのだから、悔いはない。そもそも武士の忠義とは御恩と奉公――主君から受けた恩に対して臣下が奉公という形で恩を返すものだ。だが雅勝はただの一度たりとも、明野領武智家から扶持を受けことはない。何の恩も与えずただ命だけ捧げよと命じるのは、忠義でもなんでもない、ただの搾取だ。
一心不乱に乳を飲んでいる妹を見つめていたゆいが、不意に顔をあげてこちらを向いた。赤ん坊と父親の顔をまじまじと見比べて、何を言い出すかと思ったら――
「お父様も?お父様もお母様のお乳を飲んだの?」
ちょうど湯呑に入った水を口に運んだ瞬間だったのがまずかった。飲みかけの水がまともに気管に入った。
突然、すぐ側で父親がむせ返ったりしたら泣き出すかと思ったら、よほど胆が座っているのか、それとも食欲が勝ったのか、赤ん坊は一瞬目をまん丸に見開いただけで、そのまま乳を飲み続けている。涙目になって咳込んでいる雅勝の背中をさすっている長女に、妻は優しく語り掛けている。
「そうよ、お父様も赤ちゃんの時、お父様のお母様の――おばあ様のお乳を飲んだの。赤ちゃんはみんな、お母様のお乳を飲んで大きくなるのよ」
そう。もちろん、この回答が正しいことくらいわかっている。妹の時、産後の肥立ちが悪くて乳が出なかった母も俺の時はそうではなかったと言っていたし。ただ最近、権謀術中とは縁遠い生活をしていたので、目の前の光景と娘の言葉をそのまま真っ直ぐに結びつけて、おかしな汗が出てしまった。
――あなた今、変なことを考えたでしょ。
――すまん……。
子どもが――乾いた布が水を吸い込むように、良いことも悪いことも何でも吸収してしまう年頃の子がいると、両親は迂闊な言葉を口に出せない。したがって目顔で会話をすることが増えた。まだ共に暮らしたのは三年あまりなので、完璧にわかるとは思っていないが、今この場での妻の何とも言えない視線の意味は完全に理解ができた。
「大きな大根が、三本も折れてしまいました」
「あら、まあ、立派なお大根。そうね、一本はほろふき大根にして……残りの二本は鳥の肉と一緒に煮込みましょうか。ゆいも手伝ってね」
「はーい」
「何度も言ってるでしょう。『は』と『い』の間は伸ばさないの」
母親のお小言にちらりと舌を出して笑って、ゆいは正しく「はい」と言い直した。利発で口が達者で、時折、親でさえも手を焼いてしまう娘だが、性根は真っ直ぐで何より明るい。きっとこのまま妻のような佳い女子に育って、良き妻、良き母になってくれることだろう。
今日は天気が良いので明るいうちに、近所の家から頼まれていた踏み台の修理を終わらせようと立ち上がりかけた時、縁側に置かれた籠の中で、布の固まりがもごもごと動き出した。この籠はこの辺りの山にいくらでも生えている竹を使って、雅勝が編んだものだ。完全な自己流だが元々こういうことが好きなので、妻や周囲の人に乞われるまま、半分趣味のように作っていたら、いつしか義父が薬草と一緒に町で売ってくるようになった。今ではそれなりの売り上げがあるのだから、人生、何が幸いするか知れたものではない。
今、竹籠の中で肌触りのよい優しい感触の布に包まれた赤ん坊が、小さな手足をばたつかせ、全身を目いっぱいに使って泣いている。
「――あら?どうしたの?お腹が空いたの?」
我が子を抱き上げたるいが惜しげもなく襟をくつろげると、現れた白く張りのある膨らみに赤ん坊は一心不乱に貪りついた。
今年生まれた二人目の娘には、雅勝が「けい」と名付けた。
上の娘が生まれた時は側にいられなかったが、妻は乳の出がよい体質らしい。お陰で娘達は二人ともたっぷり乳を飲んで、大きな病もなくすくすくと成長している。腹が空いても乳を飲めず、頬に老人のような皺のある赤子の顔など、見ている方が切ないものだ。母親の乳が出ず、面子と体面第一の武家ではもらい乳もできず、弱弱しく泣くばかりだった妹に、近隣の農家の女房は快く乳を与えてくれた。武家とはいえ赤子の妹を背負って毎日頭を下げにやってくる少年を憐れんでくれたのだろう。ふかした芋や稗や粟の混ざった握り飯を食わせてもらったこともある。今思い返しても感謝しかない。
「――お母様、けい、お乳飲んでる?」
興味津々といった感じで母と妹を覗き込んでいるゆいは、とても赤ん坊を可愛がっていて、近所の人達に「あの家には母親が二人いる」と笑われるくらいに世話を焼いている。最近、大人びてきた一番の要因はこれだろう。まったくの偶然だが、ゆいとけいの年齢差は雅勝と妹のそれに等しい。彼女が――いや、彼女達が今頃どうしているかと気にならないわけではないのだが、正直、そこまで器用に生きられる自信がなかった。彼女達の息子と兄は十五年も昔に死んでいる。だが父として夫として二度も死ぬわけにはいかないから、その件についてはもう割り切ったつもりでいる。
「ゆいもよくお乳を飲む子だったけど、この子も本当によい飲みっぷりね」
「ゆいもこんな風だったの?」
「そうよ。ゆいも赤ちゃんの時、こんな風にお母様のお乳を飲んで大きくなったのよ」
武家の世において、己の命を惜しむことは恥とされる。
忠義の為、大義の為、ひとたび命じられれば黙って腹を切るのが美徳とされていて、十歳までしか生家にいなかった雅勝にもその考えは染み込んでいる。武家の常識に照らし合わせたなら、過去に己がしでかしたことは、忠義もへったくれもない、愚かで恥ずべき振る舞いである。
生と死の狭間にあって、己の命を惜しんだ。死にたくないと望んで敵の手を取った。誰に後ろ指を指されても仕方のない、愚かで恥ずべき振る舞いの結果が今のこの生活なのだから、悔いはない。そもそも武士の忠義とは御恩と奉公――主君から受けた恩に対して臣下が奉公という形で恩を返すものだ。だが雅勝はただの一度たりとも、明野領武智家から扶持を受けことはない。何の恩も与えずただ命だけ捧げよと命じるのは、忠義でもなんでもない、ただの搾取だ。
一心不乱に乳を飲んでいる妹を見つめていたゆいが、不意に顔をあげてこちらを向いた。赤ん坊と父親の顔をまじまじと見比べて、何を言い出すかと思ったら――
「お父様も?お父様もお母様のお乳を飲んだの?」
ちょうど湯呑に入った水を口に運んだ瞬間だったのがまずかった。飲みかけの水がまともに気管に入った。
突然、すぐ側で父親がむせ返ったりしたら泣き出すかと思ったら、よほど胆が座っているのか、それとも食欲が勝ったのか、赤ん坊は一瞬目をまん丸に見開いただけで、そのまま乳を飲み続けている。涙目になって咳込んでいる雅勝の背中をさすっている長女に、妻は優しく語り掛けている。
「そうよ、お父様も赤ちゃんの時、お父様のお母様の――おばあ様のお乳を飲んだの。赤ちゃんはみんな、お母様のお乳を飲んで大きくなるのよ」
そう。もちろん、この回答が正しいことくらいわかっている。妹の時、産後の肥立ちが悪くて乳が出なかった母も俺の時はそうではなかったと言っていたし。ただ最近、権謀術中とは縁遠い生活をしていたので、目の前の光景と娘の言葉をそのまま真っ直ぐに結びつけて、おかしな汗が出てしまった。
――あなた今、変なことを考えたでしょ。
――すまん……。
子どもが――乾いた布が水を吸い込むように、良いことも悪いことも何でも吸収してしまう年頃の子がいると、両親は迂闊な言葉を口に出せない。したがって目顔で会話をすることが増えた。まだ共に暮らしたのは三年あまりなので、完璧にわかるとは思っていないが、今この場での妻の何とも言えない視線の意味は完全に理解ができた。
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