茜さす

横山美香

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後日談

無明の鐘 4

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 菊乃が亡くなったのは、今からもう三十年前――五十八歳の時のことである。
 医者から余命を告げられた際、当の本人はあっさりと自らの定めを受け入れて、自分が亡くなった後のことをあれやこれやと算段してからあの世に旅立った。何とまあ母上らしいことで……と子ども達は素直に感嘆していたが、忠雅にとっては衝撃だった。五十八歳という享年は、世間一般の平均寿命から鑑みて決して早すぎることはない。それでも何故か彼女はもっとずっと長く生きていて、自分を看取ってくれるような気がしていたのだ。それがあまりに呆気なく逝かれてしまって、しばらくはまともに飯も食えず、布団に横たわっても眠る事ができなかった。
 忠雅は十の歳から十六歳まで、明野領の隠密である影衆として諜報活動や暗殺を行ってきた。まったく恨みのない人間をただ命じられるままに何人も殺しただけでなく、自分自身の望みの為に、承知で手を血で汚したこともある。
 影衆の死に極楽往生の四文字はない。生きている間も地獄なら、死んだ後に落ちる場所もまた地獄だ。この先忠雅の寿命が尽きたとしても、菊乃と再会することは決してない。自分一人のことならば、それもまた運命と諦められる。だが清水家の家長として、そんな過酷な宿命を影衆達に背負わせていたのだと今更ながらに愕然として――
 ――御仏に縋った。
 この時点で影衆は既に解散しており、生き残った影衆には生計の道を見つけて明野領を出て行った者も、どうしても市井に馴染めず身を持ち崩して死んだ者もいた。しかし既に死んだ者も今生きている者も、かつて影であった事実からは逃げられない。忠雅も含め、一度影となった者は永遠に罪人だ。だが親やそれに準ずる人間に金で売られてきた彼らに――本当に罪があるのだろうか。
 罪があると言うなら、彼らにその行為を命じた者こそが負うべきではないのか。出家した忠雅は以来ずっと、かつての仲間達の極楽往生だけを願い続けてきた。彼らの罪はすべて俺が負う。血の池地獄だろうが紅蓮地獄だろうが、どこにでもいかようにも落とすがいい。だからせめて明野領でこれまで使い捨てにされてきた無数の影達だけは、死後の世でくらい、安らかに過ごせてやってほしい。
 いつしか年が明けたらしい。先ほどまで聞こえていた鐘の音が聞こえなくなっていた。代わりに耳元で風が哭いている。月が出て仄かに明るかったはずの夜はまったくの無明で、己の鼻先さえも見ることができない。何もできずにただごうごうと唸る風の音を聞いていると、不意に自分の身体がふわりと浮き上がったような気がした。
 気づいた時、忠雅の両足は地を踏みしめていて、目の前によく見知った建物があった。
 あれは十歳で清水の邸を出て影子とされた頃、最初に暮らしていた明野領外れの廃寺だ。
 夏の暑い盛り、ほとんど朽ち果てかけて雨風もしのげないような建物内に大量の子どもが詰め込まれていた。まったく草刈りもされていない寺の周囲はやぶ蚊だらけで、井戸が壊れているので清潔な水を飲むことすらできない。売られてきた時には健康な子どもだってこれではすぐに病気になる。年長の影衆に掛け合って、忠雅はしばらく一人で建物の修繕にいそしんだ。
 腐っていた畳をすべて取っ払って板敷きにしたり、井戸の釣瓶を直して水を汲めるようにして敷布を洗濯したり――そんなことをしているうちにだんだんと周囲に人が集まってきた。特に大工の息子であった若い影衆と、どうしてこいつが武家に生まれたんだ……と呆れるくらい手先の器用な雅勝が協力してくれるようになってからは、影子達の住環境は見違える程よくなった。今思えばあの体験が、後に忠雅がこの世の仕組みを変えてやろうと思ったきっかけであったのかもしれない。
 今、人生の原風景ともいえるその場所に、見知った人達の姿がある。向こうでせっせと洗濯をしている小柄な少年は雅明で、あちらで木刀を振っているのは雅規だ。庭の盥で水浴びをして遊んでいるのは雅晴と行春だろう。そんな彼らのすぐ側の縁側で、とても懐かしい人物が、相変わらず器用に小刀で木を削って何かを作っている。
「雅勝……お前」
 忠雅の気配を感じたらしい。小刀を置いた幼馴染が顔を上げる。初めて会った十歳の時ではなく、完全に道を別った二十三の時と同じような顔をしていた。
「――よお、忠雅。お前、随分と遅かったな」
 今、自分がどこにいるのか。この時には朧ながらも理解ができていた。
 そうかお前はこちらにいたのか……と胸打たれた気分になったが、よく考えれば単に忠雅が長生きし過ぎたのであって、同じ年齢の雅勝が既に彼岸に渡っていても何ら不思議はない。しかし、こちらはよぼよぼの爺になったというのに、別れた時と同じ二十代の姿なのはどうしたことか。まさかそんなに早く逝ったわけではないよな……と眉根を寄せて、忠雅は今、自分もまた二十代の頃と変わらぬ姿に戻っていることに気が付いた。
 やはり今いる場所は現実ではない。あの頃、影衆・影子総出で草をむしって枝を落としただけだった寺の敷地には紅葉や楓の庭木が品よく植えられ、品のよい庭として整えられていた。白い小砂利を踏みしめて若い女性が二人、庭を歩いている。小柄で細身でどこか小動物を思い起こさせる若い娘は――ああ、懐かしい、雅勝の妻のおるいだ。
 おるいの背後の庭木から、もう一人の女性が顔を見せる。立ち竦んでいる忠雅を見て、柔らかく微笑んでいた。
「雪乃……?」
 思わず妻とよく似た娘の名を呟いてしまって、そうではないとすぐにわかった。いずれはやってくるにしろ、今ここに娘がいてもらっては困る。もう二度と会えないと思っていたけれど、どうやら出迎えに来てくれたらしい。今この場所で忠雅を迎えてくれるのは――忠雅の妻である菊乃だけだ。
 公的には、生野藩明野領初代領主・清水忠雅に正室はいない。菊乃がその人生で得られたのは、二代明野領主の生母という立場だけだった。
 だけどそれが何だと言うのだ。忠雅は生涯側室を持たず、もちろん邸に勤める侍女に手を付けたりもしなかった。菊乃が亡くなった後すぐに出家したので、後添えさえも迎えていない。誰に認めてもらわなくとも、この女だけが人生で唯一人の妻だ。
 三十年ぶりに再会した夫婦を水入らずにしてやろうと思ってくれたらしい。おるいが雅勝の腕に手を触れて、二人で目を見交わすとそっと踵を返してその場を立ち去った。忠雅自身にも経験があるが、長年連れ添っていると、何も言わなくとも相手の考えることがわかってしまう時がある。姿形はあの頃のままなのに、彼らの仕草や行動は、長い年月を共にした夫婦のそれだった。
 ――そうか。お前たちも添い遂げたんだな。
 近づいてきた菊乃と共におるいと雅勝の背を見送って、忠雅は生まれてはじめて、心の底から満たされた気持ちになった。
 前半生と比べると随分と幸福な後半生だったように思うが、元を正せば恥知らずの父親が母親を犯して出来た命である。生まれてこなければよかったと、この歳までずっと心の奥底で考えていた。だけど生まれてきてよかった。生きていて良かった。存分に生きて、生き切った。――この人生に一片の悔いもない。
 すぐ傍らに愛しい妻の気配を感じながら、忠雅は今、これまで自分を固く縛りつけきた何かが柔らかく解けて消えて行ったこと感じていた。
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