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第二部6
終
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山の春は平地よりも遅れてやってくる。
麓の街では既に散り始めていた桜が、今まさに見ごろを迎えているらしい。一斉に開いた花弁が山肌全体を桜色に染めあげ、吹く風はあまやかな花の香を含んでいる。
この山里はかつて忍びの里だった。戦乱の世が終わったあともしばらくは忍びの業を生業としており、部外者の立ち入りは厳禁とされていた。
しかし太平の世が訪れ数十年が経過し、現実問題としてそれだけでは暮らして行けなくなった。このままでは里そのものの存続が危ぶまれると感じた里長は、忍びの業ではなく、この土地で取れる薬草を商うようになった。今では薬草を扱う行商人が時折やってきたり、眼病の湯を目当てにやってくる旅人もいる。きっともう何年かたてば、この地が忍びの里であったことも忘れられることだろう。
その日、猪助は里長の館のすぐ側にある一軒家に向かっていた。その家で暮らす里長の娘は、猪助にとって年の離れた妹のような存在であり、彼女が産んだ娘――おゆいのことは自分の三人の娘達と同じくらいに可愛がっている。街に売りに行った炭が思いの他よい値で売れたので、ちょっとした土産を持って訪ねて行く途中だった。
それほど歩くこともなく、藁ぶき屋根の小さな家に行き当った。庭先は薬草や野菜の畑になっていて、四歳になる幼子が野の花を摘んで遊んでいる。母親の姿が見当たらないが、家の中にいるだろうか。
生まれた時からほとんど我が子同然に可愛がってきたので、おゆいも猪助にとてもよく懐いてくれている。声をかけようとした時、その場に見慣れぬ人の姿があることに気が付いた。
大きな欅の木の影から現れたのは、二十代初めくらいの若い武士だった。月代のない浪人風の身なりをしていて、手甲脚絆の旅装束だが、編み笠は被らず手に持っている。一瞬、人さらいでも現れたのかと思って身構える。これまでには考えられなかったことだが、部外者がやってくるということは、それだけ、危険もはらんでいるということだ。
そうでなくとも、武士というのはいけすかない人種だ。武士以外の人間を常に下に見ていて、どんな理不尽も横柄も許されると思っている。猪助のこれまでの人生において、そうではない武士など、ただ一人しか会ったことがない。
それは今からおおよそ四年ほど前、里長の娘の許嫁としてやってきた武家の男だった。彼は猪助の飼っている猪のたまと戦って、たまは背中から胴にかけて傷を負った。誤解が解けた後で、彼はたまに謝った。飼い主の猪助とたまの一人と一匹に対し、すまなかったと頭を下げたのだ。
百歩譲って人間に謝るのならばともかく、あの誇り高い武士という人種が、獣に向かって頭を下げるなど前代未聞の出来事だ。その一件によって若い武士――おゆいの父親は猪助に「いけすかない奴」ではなく「変わった奴」として強烈に認識されている。
今、目の前に現れた武士は、あの時の若者にとてもよく似た風貌をしていた。
しかしそんなことがあるのだろうか。仔細を訪ねたことはないが、彼は死んだと伝え聞いている。だからこそ里長の娘――おるいは一人で里に帰ってきて、おゆいを産んだ。猪助がおゆいを可愛がったのは、生まれたおゆいが可愛かったという理由だけではなく、太平の世で、生まれる前に父を亡くした境遇を哀れに思ったからでもある。
幼子と武士の顔立ちは、他人とは思えないほど似通っている。しかしもし二人の顔が似ていなくとも、彼がおゆいに危害を加えることはないと判断しただろう。
幼子を見つめる男は、とてつもなく優しい目をしている。途方もなく、愛しいものを見つけた目だ。自分で見たことがないのでわからないが、三人の娘が生まれた時、猪助もきっと同じような目をしていたことだろう。――我が子を愛おしむ父親の目だった。
やがて家の入口から声がして、若い女が外に出て来た。自分が見ているものが信じられなかったらしい。一瞬、棒立ちになった後で、二、三言、言葉を交わし――その後に手放しで泣き出した。これまでずっと彼女のことを年の離れた妹のように思ってきたのだが、ここまで感情を露わにして憤懣をぶつける姿を見たことはない。男の胸を拳で叩いて、泣きながら必死に何かを訴えかけている。
やがて若者が二人を――自身の妻子を抱き締めたので、猪助は踵を返してその場を後にした。土産は明日にでも改めて持って行こう。
猪助が自分の家に帰ろうとした時、山の方角から風が吹いてきた。
吹き抜ける風に枝が揺れ、満開の花弁が散って行く。花の季節は短い。新たな季節が――緑と太陽の季節が始まろうとしていた。
四代藩主・武智雅久亡き後、君水藩の所領は、親藩である高濱藩の預かりとなった。その裏には君水藩筆頭家老・飯野泰之の暗躍があったと言われているが、詳細は明らかではない。
君水藩の飛び地領であった明野領は、雅久の遺言に従って弟の武智行久が一代相続の後、生野藩の所領となった。
明野領の次席家老であった清水忠雅は生野藩に仕え、行久亡き後、領主として明野領を治めた。彼の子孫は後の廃藩置県まで、代々、明野領主であり続けた。
生野藩清水氏系図には初代・忠雅の正室の記録がない。だが嫡男・忠清が尼寺である保月庵で佐竹氏の十七回忌法要を執り行っていることから、明野領佐竹氏ゆかりの女性であったと考えられている。
そして――
かつて君水藩明野領に存在した影衆という名の隠密と、滅びゆく忍び里の娘のその後はどこにも記されていない。
麓の街では既に散り始めていた桜が、今まさに見ごろを迎えているらしい。一斉に開いた花弁が山肌全体を桜色に染めあげ、吹く風はあまやかな花の香を含んでいる。
この山里はかつて忍びの里だった。戦乱の世が終わったあともしばらくは忍びの業を生業としており、部外者の立ち入りは厳禁とされていた。
しかし太平の世が訪れ数十年が経過し、現実問題としてそれだけでは暮らして行けなくなった。このままでは里そのものの存続が危ぶまれると感じた里長は、忍びの業ではなく、この土地で取れる薬草を商うようになった。今では薬草を扱う行商人が時折やってきたり、眼病の湯を目当てにやってくる旅人もいる。きっともう何年かたてば、この地が忍びの里であったことも忘れられることだろう。
その日、猪助は里長の館のすぐ側にある一軒家に向かっていた。その家で暮らす里長の娘は、猪助にとって年の離れた妹のような存在であり、彼女が産んだ娘――おゆいのことは自分の三人の娘達と同じくらいに可愛がっている。街に売りに行った炭が思いの他よい値で売れたので、ちょっとした土産を持って訪ねて行く途中だった。
それほど歩くこともなく、藁ぶき屋根の小さな家に行き当った。庭先は薬草や野菜の畑になっていて、四歳になる幼子が野の花を摘んで遊んでいる。母親の姿が見当たらないが、家の中にいるだろうか。
生まれた時からほとんど我が子同然に可愛がってきたので、おゆいも猪助にとてもよく懐いてくれている。声をかけようとした時、その場に見慣れぬ人の姿があることに気が付いた。
大きな欅の木の影から現れたのは、二十代初めくらいの若い武士だった。月代のない浪人風の身なりをしていて、手甲脚絆の旅装束だが、編み笠は被らず手に持っている。一瞬、人さらいでも現れたのかと思って身構える。これまでには考えられなかったことだが、部外者がやってくるということは、それだけ、危険もはらんでいるということだ。
そうでなくとも、武士というのはいけすかない人種だ。武士以外の人間を常に下に見ていて、どんな理不尽も横柄も許されると思っている。猪助のこれまでの人生において、そうではない武士など、ただ一人しか会ったことがない。
それは今からおおよそ四年ほど前、里長の娘の許嫁としてやってきた武家の男だった。彼は猪助の飼っている猪のたまと戦って、たまは背中から胴にかけて傷を負った。誤解が解けた後で、彼はたまに謝った。飼い主の猪助とたまの一人と一匹に対し、すまなかったと頭を下げたのだ。
百歩譲って人間に謝るのならばともかく、あの誇り高い武士という人種が、獣に向かって頭を下げるなど前代未聞の出来事だ。その一件によって若い武士――おゆいの父親は猪助に「いけすかない奴」ではなく「変わった奴」として強烈に認識されている。
今、目の前に現れた武士は、あの時の若者にとてもよく似た風貌をしていた。
しかしそんなことがあるのだろうか。仔細を訪ねたことはないが、彼は死んだと伝え聞いている。だからこそ里長の娘――おるいは一人で里に帰ってきて、おゆいを産んだ。猪助がおゆいを可愛がったのは、生まれたおゆいが可愛かったという理由だけではなく、太平の世で、生まれる前に父を亡くした境遇を哀れに思ったからでもある。
幼子と武士の顔立ちは、他人とは思えないほど似通っている。しかしもし二人の顔が似ていなくとも、彼がおゆいに危害を加えることはないと判断しただろう。
幼子を見つめる男は、とてつもなく優しい目をしている。途方もなく、愛しいものを見つけた目だ。自分で見たことがないのでわからないが、三人の娘が生まれた時、猪助もきっと同じような目をしていたことだろう。――我が子を愛おしむ父親の目だった。
やがて家の入口から声がして、若い女が外に出て来た。自分が見ているものが信じられなかったらしい。一瞬、棒立ちになった後で、二、三言、言葉を交わし――その後に手放しで泣き出した。これまでずっと彼女のことを年の離れた妹のように思ってきたのだが、ここまで感情を露わにして憤懣をぶつける姿を見たことはない。男の胸を拳で叩いて、泣きながら必死に何かを訴えかけている。
やがて若者が二人を――自身の妻子を抱き締めたので、猪助は踵を返してその場を後にした。土産は明日にでも改めて持って行こう。
猪助が自分の家に帰ろうとした時、山の方角から風が吹いてきた。
吹き抜ける風に枝が揺れ、満開の花弁が散って行く。花の季節は短い。新たな季節が――緑と太陽の季節が始まろうとしていた。
四代藩主・武智雅久亡き後、君水藩の所領は、親藩である高濱藩の預かりとなった。その裏には君水藩筆頭家老・飯野泰之の暗躍があったと言われているが、詳細は明らかではない。
君水藩の飛び地領であった明野領は、雅久の遺言に従って弟の武智行久が一代相続の後、生野藩の所領となった。
明野領の次席家老であった清水忠雅は生野藩に仕え、行久亡き後、領主として明野領を治めた。彼の子孫は後の廃藩置県まで、代々、明野領主であり続けた。
生野藩清水氏系図には初代・忠雅の正室の記録がない。だが嫡男・忠清が尼寺である保月庵で佐竹氏の十七回忌法要を執り行っていることから、明野領佐竹氏ゆかりの女性であったと考えられている。
そして――
かつて君水藩明野領に存在した影衆という名の隠密と、滅びゆく忍び里の娘のその後はどこにも記されていない。
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