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第二部6
6-6
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「お願いです。道久候の……明野領の恨みを晴らして。お前が藩主になるその日を、母は冥途でずっと待っておりますからね」
臨終の際、わずか十歳の息子を枕頭に呼び、母は掠れた声でそう言った。彼女自身、まだ三十路前の若さだった。
君水藩主・武智雅久の生母は明野領飯野家の息女である。十六で婚姻し、十八で跡取りを生み、正室の資格は充分にあったが、夫である明野領主・武智広久が藩主になった場合、しかるべき大名家との婚姻が必要となる。正室の座は空けておかなければならないと言って、自ら望んで側室のままでいた。
それからしばらくたって弟が元服した年に、元々身体が強くなかった父は擦り切れるように死んでいった。父もまた、苦しい息の下で息子の手を握って、この恨みを晴らしてくれと言い残した。
――それしか言い残すことがないのか。ずっとそう思っていた。
一般的に、親の心は自分が親になった時にはじめて理解できると言われている。だが実際に息子――千代丸が生まれて親となっても、まったく雅久は両親の心がわからなかった。達者で暮らせでも、体に気を付けよでも、家臣や領民を大事にするようにでも、何でもいいのに。どうしてあの人達は、我が子に自分の恨みを押し付け死んで行けたのだろうか。
大平の世において、親とは子より先に死ぬ生き物だ。だから自分が死ぬ時には、子どもに「達者で暮せ」と言い残すのが長年の雅久の夢だった。その頃には千代丸はきっと立派な男になっているだろうから「妻を大事にせよ」とも付け加えたい。雅久の人生は妻を得て初めて色づいた。妻と子を幸せにできない人間が家臣や領民を幸せにできるはずもない。
妻は――紫乃はそんな雅久の夢を笑って受け入れてくれた。彼女の膝の上には幼い息子がいて、お気に入りのでんでん太鼓を振り回して笑っている。幸せ過ぎて心が溶けて行きそうだ。今日は一緒に夕餉を摂って、その後は三人で布団を敷いて、家族で仲良く川の字になって眠るのだ。
「俺は……お前たちさえいてくれれば、それでよかったんだ」
「――阿呆、今さらそんなことに気が付いたのか。雅久」
懐かしく慕わしい夢が遠ざかり、辛しく苦しいばかりの現実が押し寄せてくる。褥の上で、武智雅久は目を開く。他に誰もいない広い部屋の中、横たわった雅久の枕頭に尼姿の元妻が座っていた。
紫妙尼――紫乃にとって、武智雅久は三人目の夫だった。
一人目の夫とは、若く情熱的な恋の果てに引き裂かれた。二人目の夫とはそれなりに長く連れ添ったが、最後まで心を分かち合うことはできなかった。
二人目の夫であった清水家の嫡男が亡くなった後、出家を考えていた紫乃を娶ったのが、既に明野領主となっていた雅久である。二つ年下の幼馴染で、幼い頃から顔見知りだった。燃え上がるような恋情があったわけではない。だが三度目の婚姻にして初めて、暖かな陽だまりのような幸福を得ることができた。自分が死ぬ時に、千代丸に達者で暮せと言い残すのが夢だと言う雅久の口癖を聞きながら、自分はその光景を間近で見守るか――あるいは先に三途の川を渡って、夢をかなえたと笑ってやってくる夫を迎えるのだと、本気で思っていた。
千代丸は親より先に逝ってしまい、紫乃と雅久の縁も切れてしまった。そして今、明野領の陣屋とは比べ物にならないほど広くて豪奢な部屋の中で再会した元夫は、肌の色がどす黒く変色し、髪に白いものが多く混ざっている。落ちくぼんだ眼窩や乾いた唇が、死期の迫った老人のように見えた。――彼は紫乃より年下だ。まだ三十代半ばのはずなのに。
明野領主の正室だった頃、紫乃は忍びの血を引く娘を積極的に側に召し上げ、独自の隠密組織を作り上げていた。雅久が藩主となって本領に向かう時、そんな女子衆の何人かが、雅久と一緒に本領入りしている。彼女達の手引きがなければ、本領が反明野領派に支配された今、紫乃が雅久に再会することはなかっただろう。いや、さすがに藩主の元正室が城に入ったことは、現在城を支配している人間達も気づいているはずだ。武智雅久は藩主となった後も正室を娶らず、国元で寵愛を受ける側室――いわゆるお国様も設けなかった。彼の最後の女である紫乃と、今生の別れをさせてやろうという程度には、彼らにも人の心があるのかもしれない。
「何故、こんなことになった。――そなた、一体、何をしたのじゃ?雅久」
「……人聞きの悪いことを言うな。俺は何もしなかっただけだ」
元妻のあんまりな言いように、武智雅久は口元に笑みを刷く。
今年の春くらいから食が進まず、起き抜けに酷い眩暈を感じて座り込むことが多々あった。やがて腹に違和感を覚えて自分で身体を探って見た時、足の付け根に大きなしこりがあるのがわかった。初代領主であった祖父も先代領主の父も同じ病に侵されて亡くなったから、多分、血筋なのだろう。
それでも父は医師の診察を受け、生薬や鍼療法で症状を抑えながら、息子が元服するまでは何とか生き永らえた。だが今の雅久には、なんとしても守ってやらなければならない息子はいない。
だから何もしなかった。医者の診察を受けることも、政務を休むこともせず、むしろ好きでもない酒をあえて喰らったりして、寿命が早く尽きるように努めた。
「阿呆、それでも義父上は四十過ぎまで生きておられたではないか!何故、もっと早くに医者に診せなかった。……そなたが死ねば君水藩はどうなるのじゃ、明野領だって――」
「君水藩は……わざわざ俺を押し込めたんだ。あいつらだって馬鹿ではないから先の事は考えているさ。明野領の方は……、忠雅に……文を書いた」
「忠雅に?」
清水忠雅は、紫乃の二人目の夫の末弟だった。とても苦労性の若者であり、いつもこの世の不幸を一人で背負ったような顔をしている。そんなところが年長の女の庇護欲をそそるらしく、紫乃はつい色々と手を貸してやりたくなって世話を焼いた。彼もまた三年前の藩主交代劇で人生を狂わされた人間の一人である。
「戻ったら、忠雅に伝えてくれ。……あの時、お前の友を守ってやれなくてすまなかったと」
言って、荒い息を零し始めたので、枕もとにあった湯呑に白湯を注いで差し出した。指先が震えてうまく自分で掴めないらしい。白磁の湯呑に手を添えて口元に運んでやると、三年も離れていたとは思えないほど、自然に体と体が寄り添った。
「紫乃……お前も何かあるか」
「え?」
「……俺はもうすぐ千代丸に会いに行く。千代丸に伝えたいことがあるなら、聞いておくぞ」
――千代丸。
今も目を閉じれば鮮やかに、その姿が眼裏に浮かぶ。
二度の婚姻で子を授からなかったので、紫乃は自分は石女なのだろうと思っていた。それが三度目の婚姻で思いがけず懐妊し、玉のような男の子を授かった。親の欲目を抜きにしても利発で可愛らしい子どもだった。この世にこれほど愛しいものはない思っていたのに、思いがけず失ってしまった。
千代丸の死が、雅久の意図したものでないことも、夫が藩主の座を望んでいないことも承知していた。八つ当たりに等しい振る舞いであったと自覚している。だがあの頃の紫乃は我が子を失った衝撃に耐えきれず、夫と哀しみを共有することがどうしてもできなかった。
そのことをずっと悔やんでいたけれど、雅久もずっと千代丸を思っていたと知って、ようやく失った時間を取り戻すことができた気がする。例え身体の距離は離れていても、これからは夫婦として――千代丸の父と母として息子に語り掛けてやれる。
「……伝えることなどない」
「紫乃」
「千代丸は父が大好きだったから……わらわが行くまで、わらわの分まで抱いてやってくれればそれでよい」
頷いた雅久の顔に死相が見える。この男の命の灯は多分、もうさほど長くない。
さすがに髪を下ろした尼の身で、四度目の婚姻はありえない。今ここで命つきようとしているこの男が、紫乃の最後の夫であり、男だ。
「――御見の方様。いえ、紫妙尼様。もうそろそろ……」
枕に頭を戻した雅久が目を閉じた時、襖の奥から控えめに声がした。いくら目こぼししてもらっているとはいえ、藩主の元正室がいつまでも城に滞在してはいられない。席を立った紫乃が長い廊下に出た時、目を赤くした奥女中一人が密かに近寄ってきた。明野領の正室であった頃、紫乃の側に仕えていた女子衆の一人である。
「殿にお会い下さって、ありがとうございました。御見の方様」
妻が夫を看取るのは当然のことで、誰に礼を言われることでもない。この先、紫乃が三途の川を渡る時にはきっと、向こう岸で雅久と千代丸が迎えてくれることだろう。
「礼など及ばぬ。――あれは、わらわの雅久じゃ」
薄暗く長い廊下の片隅で、紫乃の頬を一筋、涙が伝って落ちた。
臨終の際、わずか十歳の息子を枕頭に呼び、母は掠れた声でそう言った。彼女自身、まだ三十路前の若さだった。
君水藩主・武智雅久の生母は明野領飯野家の息女である。十六で婚姻し、十八で跡取りを生み、正室の資格は充分にあったが、夫である明野領主・武智広久が藩主になった場合、しかるべき大名家との婚姻が必要となる。正室の座は空けておかなければならないと言って、自ら望んで側室のままでいた。
それからしばらくたって弟が元服した年に、元々身体が強くなかった父は擦り切れるように死んでいった。父もまた、苦しい息の下で息子の手を握って、この恨みを晴らしてくれと言い残した。
――それしか言い残すことがないのか。ずっとそう思っていた。
一般的に、親の心は自分が親になった時にはじめて理解できると言われている。だが実際に息子――千代丸が生まれて親となっても、まったく雅久は両親の心がわからなかった。達者で暮らせでも、体に気を付けよでも、家臣や領民を大事にするようにでも、何でもいいのに。どうしてあの人達は、我が子に自分の恨みを押し付け死んで行けたのだろうか。
大平の世において、親とは子より先に死ぬ生き物だ。だから自分が死ぬ時には、子どもに「達者で暮せ」と言い残すのが長年の雅久の夢だった。その頃には千代丸はきっと立派な男になっているだろうから「妻を大事にせよ」とも付け加えたい。雅久の人生は妻を得て初めて色づいた。妻と子を幸せにできない人間が家臣や領民を幸せにできるはずもない。
妻は――紫乃はそんな雅久の夢を笑って受け入れてくれた。彼女の膝の上には幼い息子がいて、お気に入りのでんでん太鼓を振り回して笑っている。幸せ過ぎて心が溶けて行きそうだ。今日は一緒に夕餉を摂って、その後は三人で布団を敷いて、家族で仲良く川の字になって眠るのだ。
「俺は……お前たちさえいてくれれば、それでよかったんだ」
「――阿呆、今さらそんなことに気が付いたのか。雅久」
懐かしく慕わしい夢が遠ざかり、辛しく苦しいばかりの現実が押し寄せてくる。褥の上で、武智雅久は目を開く。他に誰もいない広い部屋の中、横たわった雅久の枕頭に尼姿の元妻が座っていた。
紫妙尼――紫乃にとって、武智雅久は三人目の夫だった。
一人目の夫とは、若く情熱的な恋の果てに引き裂かれた。二人目の夫とはそれなりに長く連れ添ったが、最後まで心を分かち合うことはできなかった。
二人目の夫であった清水家の嫡男が亡くなった後、出家を考えていた紫乃を娶ったのが、既に明野領主となっていた雅久である。二つ年下の幼馴染で、幼い頃から顔見知りだった。燃え上がるような恋情があったわけではない。だが三度目の婚姻にして初めて、暖かな陽だまりのような幸福を得ることができた。自分が死ぬ時に、千代丸に達者で暮せと言い残すのが夢だと言う雅久の口癖を聞きながら、自分はその光景を間近で見守るか――あるいは先に三途の川を渡って、夢をかなえたと笑ってやってくる夫を迎えるのだと、本気で思っていた。
千代丸は親より先に逝ってしまい、紫乃と雅久の縁も切れてしまった。そして今、明野領の陣屋とは比べ物にならないほど広くて豪奢な部屋の中で再会した元夫は、肌の色がどす黒く変色し、髪に白いものが多く混ざっている。落ちくぼんだ眼窩や乾いた唇が、死期の迫った老人のように見えた。――彼は紫乃より年下だ。まだ三十代半ばのはずなのに。
明野領主の正室だった頃、紫乃は忍びの血を引く娘を積極的に側に召し上げ、独自の隠密組織を作り上げていた。雅久が藩主となって本領に向かう時、そんな女子衆の何人かが、雅久と一緒に本領入りしている。彼女達の手引きがなければ、本領が反明野領派に支配された今、紫乃が雅久に再会することはなかっただろう。いや、さすがに藩主の元正室が城に入ったことは、現在城を支配している人間達も気づいているはずだ。武智雅久は藩主となった後も正室を娶らず、国元で寵愛を受ける側室――いわゆるお国様も設けなかった。彼の最後の女である紫乃と、今生の別れをさせてやろうという程度には、彼らにも人の心があるのかもしれない。
「何故、こんなことになった。――そなた、一体、何をしたのじゃ?雅久」
「……人聞きの悪いことを言うな。俺は何もしなかっただけだ」
元妻のあんまりな言いように、武智雅久は口元に笑みを刷く。
今年の春くらいから食が進まず、起き抜けに酷い眩暈を感じて座り込むことが多々あった。やがて腹に違和感を覚えて自分で身体を探って見た時、足の付け根に大きなしこりがあるのがわかった。初代領主であった祖父も先代領主の父も同じ病に侵されて亡くなったから、多分、血筋なのだろう。
それでも父は医師の診察を受け、生薬や鍼療法で症状を抑えながら、息子が元服するまでは何とか生き永らえた。だが今の雅久には、なんとしても守ってやらなければならない息子はいない。
だから何もしなかった。医者の診察を受けることも、政務を休むこともせず、むしろ好きでもない酒をあえて喰らったりして、寿命が早く尽きるように努めた。
「阿呆、それでも義父上は四十過ぎまで生きておられたではないか!何故、もっと早くに医者に診せなかった。……そなたが死ねば君水藩はどうなるのじゃ、明野領だって――」
「君水藩は……わざわざ俺を押し込めたんだ。あいつらだって馬鹿ではないから先の事は考えているさ。明野領の方は……、忠雅に……文を書いた」
「忠雅に?」
清水忠雅は、紫乃の二人目の夫の末弟だった。とても苦労性の若者であり、いつもこの世の不幸を一人で背負ったような顔をしている。そんなところが年長の女の庇護欲をそそるらしく、紫乃はつい色々と手を貸してやりたくなって世話を焼いた。彼もまた三年前の藩主交代劇で人生を狂わされた人間の一人である。
「戻ったら、忠雅に伝えてくれ。……あの時、お前の友を守ってやれなくてすまなかったと」
言って、荒い息を零し始めたので、枕もとにあった湯呑に白湯を注いで差し出した。指先が震えてうまく自分で掴めないらしい。白磁の湯呑に手を添えて口元に運んでやると、三年も離れていたとは思えないほど、自然に体と体が寄り添った。
「紫乃……お前も何かあるか」
「え?」
「……俺はもうすぐ千代丸に会いに行く。千代丸に伝えたいことがあるなら、聞いておくぞ」
――千代丸。
今も目を閉じれば鮮やかに、その姿が眼裏に浮かぶ。
二度の婚姻で子を授からなかったので、紫乃は自分は石女なのだろうと思っていた。それが三度目の婚姻で思いがけず懐妊し、玉のような男の子を授かった。親の欲目を抜きにしても利発で可愛らしい子どもだった。この世にこれほど愛しいものはない思っていたのに、思いがけず失ってしまった。
千代丸の死が、雅久の意図したものでないことも、夫が藩主の座を望んでいないことも承知していた。八つ当たりに等しい振る舞いであったと自覚している。だがあの頃の紫乃は我が子を失った衝撃に耐えきれず、夫と哀しみを共有することがどうしてもできなかった。
そのことをずっと悔やんでいたけれど、雅久もずっと千代丸を思っていたと知って、ようやく失った時間を取り戻すことができた気がする。例え身体の距離は離れていても、これからは夫婦として――千代丸の父と母として息子に語り掛けてやれる。
「……伝えることなどない」
「紫乃」
「千代丸は父が大好きだったから……わらわが行くまで、わらわの分まで抱いてやってくれればそれでよい」
頷いた雅久の顔に死相が見える。この男の命の灯は多分、もうさほど長くない。
さすがに髪を下ろした尼の身で、四度目の婚姻はありえない。今ここで命つきようとしているこの男が、紫乃の最後の夫であり、男だ。
「――御見の方様。いえ、紫妙尼様。もうそろそろ……」
枕に頭を戻した雅久が目を閉じた時、襖の奥から控えめに声がした。いくら目こぼししてもらっているとはいえ、藩主の元正室がいつまでも城に滞在してはいられない。席を立った紫乃が長い廊下に出た時、目を赤くした奥女中一人が密かに近寄ってきた。明野領の正室であった頃、紫乃の側に仕えていた女子衆の一人である。
「殿にお会い下さって、ありがとうございました。御見の方様」
妻が夫を看取るのは当然のことで、誰に礼を言われることでもない。この先、紫乃が三途の川を渡る時にはきっと、向こう岸で雅久と千代丸が迎えてくれることだろう。
「礼など及ばぬ。――あれは、わらわの雅久じゃ」
薄暗く長い廊下の片隅で、紫乃の頬を一筋、涙が伝って落ちた。
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