茜さす

横山美香

文字の大きさ
上 下
87 / 102
第二部6

6-6

しおりを挟む
「お願いです。道久候の……明野領の恨みを晴らして。お前が藩主になるその日を、母は冥途でずっと待っておりますからね」
 臨終の際、わずか十歳の息子を枕頭に呼び、母は掠れた声でそう言った。彼女自身、まだ三十路前の若さだった。
 君水藩主・武智雅久の生母は明野領飯野家の息女である。十六で婚姻し、十八で跡取りを生み、正室の資格は充分にあったが、夫である明野領主・武智広久が藩主になった場合、しかるべき大名家との婚姻が必要となる。正室の座は空けておかなければならないと言って、自ら望んで側室のままでいた。
 それからしばらくたって弟が元服した年に、元々身体が強くなかった父は擦り切れるように死んでいった。父もまた、苦しい息の下で息子の手を握って、この恨みを晴らしてくれと言い残した。
 ――それしか言い残すことがないのか。ずっとそう思っていた。
 一般的に、親の心は自分が親になった時にはじめて理解できると言われている。だが実際に息子――千代丸が生まれて親となっても、まったく雅久は両親の心がわからなかった。達者で暮らせでも、体に気を付けよでも、家臣や領民を大事にするようにでも、何でもいいのに。どうしてあの人達は、我が子に自分の恨みを押し付け死んで行けたのだろうか。
 大平の世において、親とは子より先に死ぬ生き物だ。だから自分が死ぬ時には、子どもに「達者で暮せ」と言い残すのが長年の雅久の夢だった。その頃には千代丸はきっと立派な男になっているだろうから「妻を大事にせよ」とも付け加えたい。雅久の人生は妻を得て初めて色づいた。妻と子を幸せにできない人間が家臣や領民を幸せにできるはずもない。
 妻は――紫乃はそんな雅久の夢を笑って受け入れてくれた。彼女の膝の上には幼い息子がいて、お気に入りのでんでん太鼓を振り回して笑っている。幸せ過ぎて心が溶けて行きそうだ。今日は一緒に夕餉を摂って、その後は三人で布団を敷いて、家族で仲良く川の字になって眠るのだ。
「俺は……お前たちさえいてくれれば、それでよかったんだ」
「――阿呆、今さらそんなことに気が付いたのか。雅久」
 懐かしく慕わしい夢が遠ざかり、辛しく苦しいばかりの現実が押し寄せてくる。褥の上で、武智雅久は目を開く。他に誰もいない広い部屋の中、横たわった雅久の枕頭に尼姿の元妻が座っていた。


 紫妙尼――紫乃にとって、武智雅久は三人目の夫だった。
 一人目の夫とは、若く情熱的な恋の果てに引き裂かれた。二人目の夫とはそれなりに長く連れ添ったが、最後まで心を分かち合うことはできなかった。
 二人目の夫であった清水家の嫡男が亡くなった後、出家を考えていた紫乃を娶ったのが、既に明野領主となっていた雅久である。二つ年下の幼馴染で、幼い頃から顔見知りだった。燃え上がるような恋情があったわけではない。だが三度目の婚姻にして初めて、暖かな陽だまりのような幸福を得ることができた。自分が死ぬ時に、千代丸に達者で暮せと言い残すのが夢だと言う雅久の口癖を聞きながら、自分はその光景を間近で見守るか――あるいは先に三途の川を渡って、夢をかなえたと笑ってやってくる夫を迎えるのだと、本気で思っていた。
 千代丸は親より先に逝ってしまい、紫乃と雅久の縁も切れてしまった。そして今、明野領の陣屋とは比べ物にならないほど広くて豪奢な部屋の中で再会した元夫は、肌の色がどす黒く変色し、髪に白いものが多く混ざっている。落ちくぼんだ眼窩や乾いた唇が、死期の迫った老人のように見えた。――彼は紫乃より年下だ。まだ三十代半ばのはずなのに。
 明野領主の正室だった頃、紫乃は忍びの血を引く娘を積極的に側に召し上げ、独自の隠密組織を作り上げていた。雅久が藩主となって本領に向かう時、そんな女子衆の何人かが、雅久と一緒に本領入りしている。彼女達の手引きがなければ、本領が反明野領派に支配された今、紫乃が雅久に再会することはなかっただろう。いや、さすがに藩主の元正室が城に入ったことは、現在城を支配している人間達も気づいているはずだ。武智雅久は藩主となった後も正室を娶らず、国元で寵愛を受ける側室――いわゆるお国様も設けなかった。彼の最後の女である紫乃と、今生の別れをさせてやろうという程度には、彼らにも人の心があるのかもしれない。
「何故、こんなことになった。――そなた、一体、何をしたのじゃ?雅久」
「……人聞きの悪いことを言うな。俺は何もしなかっただけだ」
 元妻のあんまりな言いように、武智雅久は口元に笑みを刷く。
 今年の春くらいから食が進まず、起き抜けに酷い眩暈を感じて座り込むことが多々あった。やがて腹に違和感を覚えて自分で身体を探って見た時、足の付け根に大きなしこりがあるのがわかった。初代領主であった祖父も先代領主の父も同じ病に侵されて亡くなったから、多分、血筋なのだろう。
 それでも父は医師の診察を受け、生薬や鍼療法で症状を抑えながら、息子が元服するまでは何とか生き永らえた。だが今の雅久には、なんとしても守ってやらなければならない息子はいない。
 だから何もしなかった。医者の診察を受けることも、政務を休むこともせず、むしろ好きでもない酒をあえて喰らったりして、寿命が早く尽きるように努めた。
「阿呆、それでも義父上は四十過ぎまで生きておられたではないか!何故、もっと早くに医者に診せなかった。……そなたが死ねば君水藩はどうなるのじゃ、明野領だって――」
「君水藩は……わざわざ俺を押し込めたんだ。あいつらだって馬鹿ではないから先の事は考えているさ。明野領の方は……、忠雅に……文を書いた」
「忠雅に?」
 清水忠雅は、紫乃の二人目の夫の末弟だった。とても苦労性の若者であり、いつもこの世の不幸を一人で背負ったような顔をしている。そんなところが年長の女の庇護欲をそそるらしく、紫乃はつい色々と手を貸してやりたくなって世話を焼いた。彼もまた三年前の藩主交代劇で人生を狂わされた人間の一人である。
「戻ったら、忠雅に伝えてくれ。……あの時、お前の友を守ってやれなくてすまなかったと」
 言って、荒い息を零し始めたので、枕もとにあった湯呑に白湯を注いで差し出した。指先が震えてうまく自分で掴めないらしい。白磁の湯呑に手を添えて口元に運んでやると、三年も離れていたとは思えないほど、自然に体と体が寄り添った。
「紫乃……お前も何かあるか」
「え?」
「……俺はもうすぐ千代丸に会いに行く。千代丸に伝えたいことがあるなら、聞いておくぞ」
 ――千代丸。
 今も目を閉じれば鮮やかに、その姿が眼裏に浮かぶ。
 二度の婚姻で子を授からなかったので、紫乃は自分は石女なのだろうと思っていた。それが三度目の婚姻で思いがけず懐妊し、玉のような男の子を授かった。親の欲目を抜きにしても利発で可愛らしい子どもだった。この世にこれほど愛しいものはない思っていたのに、思いがけず失ってしまった。
 千代丸の死が、雅久の意図したものでないことも、夫が藩主の座を望んでいないことも承知していた。八つ当たりに等しい振る舞いであったと自覚している。だがあの頃の紫乃は我が子を失った衝撃に耐えきれず、夫と哀しみを共有することがどうしてもできなかった。
 そのことをずっと悔やんでいたけれど、雅久もずっと千代丸を思っていたと知って、ようやく失った時間を取り戻すことができた気がする。例え身体の距離は離れていても、これからは夫婦として――千代丸の父と母として息子に語り掛けてやれる。
「……伝えることなどない」
「紫乃」
「千代丸は父が大好きだったから……わらわが行くまで、わらわの分まで抱いてやってくれればそれでよい」
 頷いた雅久の顔に死相が見える。この男の命の灯は多分、もうさほど長くない。
 さすがに髪を下ろした尼の身で、四度目の婚姻はありえない。今ここで命つきようとしているこの男が、紫乃の最後の夫であり、男だ。
「――御見の方様。いえ、紫妙尼様。もうそろそろ……」
 枕に頭を戻した雅久が目を閉じた時、襖の奥から控えめに声がした。いくら目こぼししてもらっているとはいえ、藩主の元正室がいつまでも城に滞在してはいられない。席を立った紫乃が長い廊下に出た時、目を赤くした奥女中一人が密かに近寄ってきた。明野領の正室であった頃、紫乃の側に仕えていた女子衆の一人である。
「殿にお会い下さって、ありがとうございました。御見の方様」
 妻が夫を看取るのは当然のことで、誰に礼を言われることでもない。この先、紫乃が三途の川を渡る時にはきっと、向こう岸で雅久と千代丸が迎えてくれることだろう。
「礼など及ばぬ。――あれは、わらわの雅久じゃ」
 薄暗く長い廊下の片隅で、紫乃の頬を一筋、涙が伝って落ちた。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

異世界日本軍と手を組んでアメリカ相手に奇跡の勝利❕

naosi
歴史・時代
大日本帝国海軍のほぼすべての戦力を出撃させ、挑んだレイテ沖海戦、それは日本最後の空母機動部隊を囮にアメリカ軍の輸送部隊を攻撃するというものだった。この海戦で主力艦艇のほぼすべてを失った。これにより、日本軍首脳部は本土決戦へと移っていく。日本艦隊を敗北させたアメリカ軍は本土攻撃の中継地点の為に硫黄島を攻略を開始した。しかし、アメリカ海兵隊が上陸を始めた時、支援と輸送船を護衛していたアメリカ第五艦隊が攻撃を受けった。それをしたのは、アメリカ軍が沈めたはずの艦艇ばかりの日本の連合艦隊だった。   この作品は個人的に日本がアメリカ軍に負けなかったらどうなっていたか、はたまた、別の世界から来た日本が敗北寸前の日本を救うと言う架空の戦記です。

暁のミッドウェー

三笠 陣
歴史・時代
 一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。  真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。  一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。  そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。  ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。  日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。  その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。 (※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

超克の艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
「合衆国海軍ハ 六〇〇〇〇トン級戦艦ノ建造ヲ計画セリ」 米国駐在武官からもたらされた一報は帝国海軍に激震をもたらす。 新型戦艦の質的アドバンテージを失ったと判断した帝国海軍上層部はその設計を大幅に変更することを決意。 六四〇〇〇トンで建造されるはずだった「大和」は、しかしさらなる巨艦として誕生する。 だがしかし、米海軍の六〇〇〇〇トン級戦艦は誤報だったことが後に判明。 情報におけるミスが組織に致命的な結果をもたらすことを悟った帝国海軍はこれまでの態度を一変、貪欲に情報を収集・分析するようになる。 そして、その情報重視への転換は、帝国海軍の戦備ならびに戦術に大いなる変化をもたらす。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

くぐり者

崎田毅駿
歴史・時代
黒船来航を機に天下太平の世が揺れ始めた日本。商人に身をやつしていた忍びの一流派である鵬鴻流の鳳一族は、本分たる諜報において再び活躍できることを夢見た。そのための海外の情報を収集をすべく、一族の者と西洋人とが交わって生まれた通称“赤鹿毛”を主要な諸外国に送り込むが、果たしてその結末やいかに。

竜頭

神光寺かをり
歴史・時代
幕末の信州上田藩。 藤井松平家の下級藩士・芦田家に、柔太郎と清次郎の兄弟が居た。 兄・柔太郎は儒学を学ぶため昌平黌《しょうへいこう》へ、弟・清次郎は数学を学ぶため瑪得瑪弟加塾《まてまてかじゅく》へ、それぞれ江戸遊学をした。 嘉永6年(1853年)、兄弟は十日の休暇をとって、浦賀まで「黒船の大きさを測定する」ための旅に向かう。 品川宿で待ち合わせをした兄弟であったが、弟・清次郎は約束の時間までにはやってこなかった。 時は経ち――。 兄・柔太郎は学問を終えて帰郷し、藩校で教鞭を執るようになった。 遅れて一時帰郷した清次郎だったが、藩命による出仕を拒み、遊学の延長を望んでいた。 ---------- 神童、数学者、翻訳家、兵学者、政治思想家、そして『人斬り半次郎』の犠牲者、赤松小三郎。 彼の懐にはある物が残されていた。 幕末期の兵学者・赤松小三郎先生と、その実兄で儒者の芦田柔太郎のお話。 ※この作品は史実を元にしたフィクションです。 ※時系列・人物の性格などは、史実と違う部分があります。 【ゆっくりのんびり更新中】

大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~

菱沼あゆ
キャラ文芸
華族の三条家の跡取り息子、三条行正と見合い結婚することになった咲子。 だが、軍人の行正は、整いすぎた美形な上に、あまりしゃべらない。 蝋人形みたいだ……と見合いの席で怯える咲子だったが。 実は、咲子には、人の心を読めるチカラがあって――。

処理中です...