茜さす

横山美香

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第二部6

6-3

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 菊乃が立てた茶を忠雅はとても美味しそうに飲み干した。
 武家の女の嗜みとして一通りの作法を身に着けてはいるけれど、菊乃は格段に茶の湯が得意なわけではなない。だがあまり親密でない許嫁だった頃から、忠雅は菊乃が立てた茶が一番美味しいと言ってくれていた。
「雅勝様と決着をつけられる……のですか」
 保月庵にやってくると、忠雅は茶を呑みながらいつも色々な話をする。明野領内の噂話や、陣屋の床下で野良猫が生んだ子猫のことや――時にそんなことを話していいのだろうか、と思ってしまう政の話まで、割と明け透けに色々な事を聞いてきたように思う。
 今日の話題は、記憶を奪われ、敵方にいる忠雅の幼馴染のことだった。法勝寺には菊乃も手習いの師匠として定期的に通っているので、玄徳医師が忍びの秘薬についての研究をしている話は聞いていたが、完全に敵方にいる飯野成之に、玄徳医師の診察を受けさせる方法はまだ見つかっていないようだった。
「ああ。先にその件について解決しておかないと……影衆の連中に今以上の犠牲が出てしまうからな」
 忠雅にその決意をさせたのは、行春という少年の死がきっかけらしい。親のように慕っていた存在に殺されてしまった少年は確かに哀れだと思う。ただ菊乃は以前、他でもない忠雅本人の口から聞いたことがある。剣の鍛錬において、忠雅は過去に雅勝から一本も取ったことがない、と。
 記憶を失くし、かつて可愛がっていた少年にさえ刃を向けるようになった親友と、忠雅はどのように決着をつけるつもりなのだろうか。
「一応、考えてることはあるんだ。ただ、向こうの出方次第では……はっきり言って命懸けになる。だけどこれは、俺以外の人間に任せる訳にはいかない――これが俺の明野領での最後の仕事だ」
 どうも先ほどから、話がやけに不吉な気がしてならない。大体、最後の仕事とは何なのだろうか。忠雅は明野領の次席家老だ。筆頭家老がなく、領主が政務を執り行えない今、最後どころか、やらなければならないことは山のようにあるはずなのに。
「正式に本領に呼ばれてる。雅勝の件の片が付いたら、すぐに出立するつもりだ」
「本領に……ですか?」
「うん。行ったら恐らく、戻って来られない」
 明日の予定を告げるようにあっさりと告げられて、一瞬、二の句が継げなかった。
 これでも一応、五大家老の末席・佐竹家の娘なので――そして三年前まで、次席家老の妻になるつもりだったので、君水藩と明野領の政争については完全に理解している。今、君水藩本領は完全に反明野領派に支配されている。そこに明野領の次席家老が呼ばれて行くということは――
「あなたに会えてよかった。これまで本当にありがとう。最後にどうしてもそれだけは伝えたかったんだ」
 空になった椀を置き、どうやら帰るつもりでいるらしい。刀架けに向かって手を伸ばしている。
 ――最後に一度だけと、この人は言った。
 それはもう保月庵に来ないという意味ではなくて。出家した菊乃ではない、身分の釣り合う女性を妻に迎えるという意味でもなくて。
 この世そのものから、消えていなくなってしまうという意味だったのか。
 どうして……と胸の奥で誰かが叫んでいる。あなた達はどうしてそうも死に急ぐの。女の気持ちを置き去りにして、平気な顔をして散って行こうとするの。
 叫んでいるのは別の誰かだと思ったのに、耳奥に聞こえる声は他の誰でもない、菊乃自身の声をしていた。
「死なないで」
「……え、き、菊乃殿?」
 気づいた時には腕を伸ばして、去って行こうとする背中に抱き付いていた。こないだ自分も同じようなことをしたのに、菊乃から抱き締められるとはまったく考えていなかったらしい。刀を取ろうとした体勢のまま、忠雅は完全に凍り付いて固まっている。
「死んでは嫌。――お願いです。死なないで、生きて帰ってきて」
 菊乃は女にしては背丈があり、忠雅は男性としてはやや小柄なので、二人の身の丈はそれほど大きく違わない。しかしやはり男の人だけあって、抱き締めた背中は見た目よりもずっと広くて厚みがあった。ずっと、ずっとこの人だけを慕っていた。髪を下ろした時、自分の女としての人生が終わる覚悟はしていたけれど、本当は一度でいい、この胸に抱かれてみたかった。
 ――などと菊乃が考えていると知ったなら、そんなふしだらな娘を持った覚えはないと、冥途の両親は悲嘆のあまり自害してしまうかもしれない。だけどそんなことは知ったことか。手を離せばこの人は行ってしまう。たった一人で、永遠に菊乃の手の届かないところへ旅立って行ってしまう。
 どのくらいそうしていただろうか。ようやく驚きから覚めたらしい忠雅が、胸の前で重ねられた菊乃の手を取った。そっと身体の向きを入れ替えられて、間近で見つめ合う体勢になる。
「……参ったな」
「え?」
「あなたが……こんなにも気が強い人だとは思わなかった」
 本当にそう思っていたのなら、いくらなんでも鈍すぎる。三年前の婚約破棄の後、通常の武家の娘であれば親の言う通り、さっさと別な男に嫁いでいただろう。自分の意志で髪を下ろし、この保月庵に落ち着いた段階で、菊乃は既に武家の女の常識を逸脱してしまっている。
 大きな手が頬に触れる。一瞬、口づけられるのかと思って身構えたが、男の指先は菊乃の唇の端をかすめて顎に触れ、そのまま肩の上に落ち着いた。
「気の強い女はお嫌いですか?」
「――いや、好きだ。すごく好きだ。大好きだ」
 そっと背中を引き寄せられて、今度は菊乃が抱き締められる側となる。もうすっかり陽が暮れたのだろう。薄暗い部屋の中で見つめる想い人の顔は、三歳の幼子のようではなかったが、十六、七歳くらいの少年のように見えた。
「俺もみすみす殺される気はないんだ。一応、出来る限りのことはしようと思ってる。……だからさ」
「忠雅様?」
「だからさ、もしも、俺が無事に帰って来られたら……」
「……はい」
「もう妻になって欲しいなんて我がままは言わないから。俺も頭を丸めるから、あなたの隣で一緒に出家してもいいかな?」
 一息に言い切って、返事も聞かずに菊乃の肩に顔を埋めてしまった。広い背中を添えると、小刻みに震えているのがわかる。一瞬、泣いているのかと思って、そうではないとすぐにわかった。怯えているのだ。返事を聞く勇気がなくて、顔を伏せてしまっている。
 立派な成人男性の言動とはとても思えなくて、笑ってしまった。許嫁になったばかりの十六歳の菊乃であったなら、なんとまあ子どもじみたお人だと呆れたことだろう。だが今、二十二歳の菊乃は目の前の人が愛おしくてたまらない。
 笑ってしまった理由は、忠雅の言動の他にもう一つある。
 忠雅の父・志雲斎の頭が、綺麗に照り輝いていたことを思い出したのだ。志雲斎は出家したわけではない。四十歳を過ぎた頃から急激に髪が薄くなって、髷を結うのも大変になったので、思い切って全部剃ってしまったのだと聞いている。
 今、間近で見つめる若者の髪は、豊かで黒々としている。男の髪質は父方に似るらしいので、そのうち志雲斎と同じ道をたどる可能性はかなり高いが、今はまだその気配は感じられない。――そう、多分まだあと二十年くらいは。
「いいえ」
 気の強い女は嫌いではないそうなので、きっぱりと断ると、忠雅は顔を上げて菊乃を見た。突き放されたと感じたのか、泣き出す寸前の幼子のようなくしゃくしゃの顔をしている。
 あの時、志雲斎は菊乃の口から忠雅に、もう保月庵に来ないでくれと言ってくれと頼み込んだ。その頼みを引き受けたのは他ならぬ菊乃自身だ。だが頼まれたのはそれだけだ。一度出家した女が、次席家老の妻にならないとは一言も約束していない。
「お待ちしております。清水のお邸で――あなた様の妻として」
 この先何があっても、わたしはこの人を待ち続けよう。――そう心に決めた。
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