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第二部6
6-2
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手習い所の子ども達が来るにはまだかなり早い。早朝の法勝寺には和尚と小坊主の勤行の気配しかないはずなのに、寺の方角から、濃い血の匂いと不穏なざわめきを感じる。
眉を寄せた忠雅が法勝寺に足を踏み入れた時、庭を走っていた若者が振り返った。手に山ほどの晒を抱えていて――そのほとんどがぐっしょりと血で濡れていた。
「おい、雅道、何があったんだ?」
「忠雅兄者……」
振り返った雅道の目が赤い。今にも泣き出しそうな……というより、完全に泣いていた。
ようやく夜も空け、昇り始めた太陽のおかげで早朝よりも大分暖かく感じられるようになった。どうやら今日はとてもよい天気らしい。秋晴れの空は青く高く澄んでいる。秋になるとこの辺りでよく見かける椋鳥の顔も、こころなしか穏やかで目を細めて笑っているようにも見える。
明野領にやって来て以来、玄徳と雅道は法勝寺に滞在し、敷地内にあった物置小屋を改装して怪我人や病人を診ながら暮らしている。影衆と葉隠衆は元々同じ組織なので、上杉の忍びに連なる資料は清水家の書庫にもある。忠雅では内容のよくわからない書付でも、医師である玄徳には理解できるものがあったらしい。資料と手に入る範囲の材料を元に、例の秘薬について調べを進めてくれていた。成之に玄徳の診察を受けさせるという目的はまだ果たせていないが、薬を抜いて記憶を戻す為に、微かではあるが希望が見え始めている。
「忠雅兄、昨夜、行春が……」
「行春が?おい、どうしたんだ、お前らしくないぞ。ちゃんと話せ、雅道」
行春は今年、影子から昇格したばかりの年若い影衆である。先日、忠雅は彼をおるいとおゆいの護衛を命じ、無事に母娘を送り届けて明野領に帰ってきた。その後は御役目を与えていないので、仲間たちと一緒に暮らしているねぐらで、鍛錬に励んでいるものだとばかり思っていた。
「――清水殿、ちょうどよい、今、遣いをやろうとしていたところだ」
気配を感じたのだろう。外に出て来た慈円和尚に導かれて寺に入ると、敷かれた夜具の上に少年が一人横たわっていた。蒼白い顔には血の気がなく、唇が紫色に変色している。夜具の側に積み上げられた布や晒も大量の血を吸い込んでいた。寺のそこここに染み込んでいる抹香の香より、血の匂いの方が強烈に感じられるほどに。――決して大きいとはいえない少年の身体から、どれだけの血が流れ落ちたのか。
患者のすぐ側に今ではすっかり見慣れた白い上っ張り姿の玄徳がいる。彼の両手も血で真っ赤に濡れていた。
「玄徳殿!何があったんだ?」
「……詳しくはわからん。夜更けに近所の子どもが斬り合う音を聞いたらしい。なかなか賢い子どもでな。火事だと叫んで人を呼んで、この寺まで患者を運んできた。出来る限りのことはしたのだが……」
「それで行春は……行春は助かるのか」
忠雅の問いに、玄徳医師は答えなかった。ただ黙って首を左右に振る。
不意に背後で悲鳴が上がった。悲鳴を上げて座り込んだ雅之の肩を雅道が抱いて慰めている。その声を聞いて、少年の瞼がうっすらと開いた。
「……忠雅兄」
「何があった行春、お前、一体誰にやられたんだ」
「どうして……」
「清水殿、あまり患者に喋らせるな」
玄徳の言葉は忠雅の耳を素通りした。まだ声変りを終えたばかりだというのに、老爺のようにしわがれてしまった声が紡いだ内容は、それだけの衝撃だった。
「どうして……雅勝兄が飯野の邸にいるんだ……?」
行春は明野領にやってきた時、まだ四歳の幼子だった為、しばらく雅勝が手許で面倒を見ていた。箸の持ち方や布団の上げ下ろしを教えたり――母を呼んで泣き続ける幼子を自分の布団に入れて抱いて寝ていたこともある。忠雅には、湯たんぽ代わりにちょうどいいんだ……などと言っていたが、雅勝自身だってあの頃はまだ少年だったというのに、ほとんど母親のようにかいがいしく世話を焼いて面倒を見ていた。
行春は雅勝にとてもよく懐いていたので、おゆいとおるいを守る人間としてふさわしいと思って選んだ。その人選自体は間違っていなかったと思う。だが忠雅は一つ重大なことを忘れていた。今の行春は稚い幼子ではない。当然、疑問に思ったことだろう。――何故、今のこの時期に、忠雅が雅勝の妻子を明野領に呼んだのかと。
行春は成り立てとはいえ一人前の影衆なので、探索事の基本も実践も身に着けている。だからわかった。わかってしまった。検地を見届ける為に明野領にやってきた飯野成之が、死んだはずの雅勝本人であるということを。
――そうして斬られた。親のように慕っていたその人の手で。
行春が雅勝と本気で斬り合えたとは思えない。何故、雅勝が自分に刃を向けるのかと、それしか考えられなかったはずだ。雅明も――影衆一の遣い手である雅規でさえもそうだった。ただでさえ、影達は人の愛情に飢えている。人望の厚い影衆の最年長。この世でただ一人、自分たちを理解し、認めて、守ってくれた相手。死んだと思っていた雅勝が目の前に現れたなら、彼らは皆、危険よりも恐怖よりも慕わしさを感じずにいられない。
「……雅勝、お前、どうして……」
過去の記憶を失くしているといっても、かつてあれほど可愛がっていた相手だ。それに本人は知りようがなかったとしても――自分の妻子を守ってくれた人間に、どうしてこんな惨いことができる。
握り締めた少年の手に力はなく、温もりさえも失われつつあった。冷えた手を布団の中に戻してやった時、傍らにいた玄徳が行春の顔を覗き込んだ。呼吸と脈を見た後で、瞼を持ち上げて反応を確認し、温もりの消えた行春の両手を胸の上で重ね合わせた。
雅之と雅道が互いの肩を抱きながら泣いている。慈円和尚が数珠を手繰り寄せて手を合掌している。何しろここは寺だ。行春の供養は和尚に任せておいて問題はない。今、忠雅にできること――するべきことは一つだけだ。
「――雅道、雅之の手当てを頼む」
「清水殿、何をする気だ」
「決着をつける」
頼めることは頼み込み、書き記せることはすべて書き記した。ほんの数刻前まで、忠雅が取るべき道は、黙って本領に行って死ぬことだけだった。
だが今、他の誰でもない、自分にしかできないただ一つの使命が残されていたことを、忠雅は明確に悟っていた。
――あの時、あんなことを言うべきではなかった……のかもしれない。
手習いの子ども達が帰った後の保月庵で、墨や紙を片付けながら、菊松尼は薄雲が棚引く秋の空を見上げていた。別れを告げてから半月あまり、忠雅が保月庵にやってくることはなかった。覚悟していたこととはいえ、まるでずっと側にいた温もりが急に欠けてしまったようで酷く寂しい。夫婦のように同じ家で寝起きしていたわけではないけれど、この三年間はずっと、忠雅の気配が心の中にあった。許嫁として過ごした年月よりもはるかに、心の距離が近くなっていたのだと、離れてしまった今になって気が付いた。
――忠雅の親としてお願い申す。もう保月庵には来ないようにと、そなたからあれに言ってやってくれ。
隠居した忠雅の父――志雲斎が保月庵にやってきたのは、一月あまり前のことだった。許嫁であった頃は何度か顔を合わせたが、菊乃が出家してから志雲斎と顔を合わせるのは初めてのことだ。事前に連絡もよこさずにいきなり訪れて、何を言い出すのかと思えばいきなり頭を下げてそんなことをのたまった。いや、あれは本当に頭を下げたというのだろうか。考えすぎかもしれないが、隠居したとはいえ武家の男が尼に頭を下げたのだ、まさか嫌とは言うまいな……という無言の圧力を感じていた。
菊乃は幼少期の忠雅が、清水家において大切にされていなかったことを知っている。だから成長し家督を継いだ忠雅と父親の仲がしっくり行っていないことは、仕方のないことだと考えていたし、まだ許嫁だった頃も、清水の家に嫁入った後は志雲斎とは距離を置き、上辺だけの付き合いに止めておこうと考えていた。
そう、正直に言うならあの時、菊乃だってちらりと考えたのだ。何よりも庇護が必要な幼子の頃に放置しておきながら、今更、どの面を下げてそんなことを言いに来たのか……と。
しかし長年身に染み付いた武家の女としての習性が、男の言葉に抗うことを拒んだ。不埒を働いた見合い相手を引っ叩いて席を立つなんてことは、おるいが武家の女ではないからできることだ。武家の女は物心ついた時から、男に対して徹底服従を教え込まれる。いや、服従というより、従わないという選択肢がそもそも存在しない。自分の肌に触れる男を自分で選ぶ――武家に生まれた女でなければ当たり前のように許されている自由さえ存在しないのが、男たちが作ったこの武家の世の仕組みなのだ。
忠雅に菊乃以外の伴侶が必要なのは間違いない。だからいつか忠雅の心を揺るがす女性が現れたなら、きっちり身を引く覚悟はできていた。そしてそのことは忠雅だって承知の上だろうとも。だがあの夜、菊乃がもう保月庵に来ないでくれと告げた時、忠雅はまともに傷ついた目をして菊乃を見た。その顔があまりに心細くて寂しそうで、一瞬、おるいが清水の邸に行く為に、半日ほどおゆいを預かった時のことを思いだしてしまった。
最初のうちは手習いに来た女の子達に可愛がられて楽しく過ごしていたおゆいは、不意に母親がいつまで経っても戻ってこないことに気づいたらしい。幼いながらにも自分が置いて行かれたと思ったのだろう。見ているこちらが切なくなるような顔をして、それでもおるいが帰ってくるまで、泣かずに必死に堪えていた。
もちろん忠雅は立派な二十二歳の成人男性なのだから、三歳の幼子と同一に考えるのは間違っている。わかっていながら、どうしても考えてしまう。おゆいには全身全霊で守ってくれる人がいる。だけと雅勝がいなくなってしまってからずっと、忠雅には彼を理解し、寄り添い、支えてくれる相手がいないのだ。
それなのにあの時、菊乃は彼を突き放してしまった。無二の友を死なせてしまった後悔に苦しみながら、明野領で暮らす民と武士の暮らしを肩に負って必死で戦い続けている人を、果てのない孤独の中に置き去りにしてしまった。
――もしも菊乃が武家の女でなかったなら。
あの時、置いてきぼりにされた幼子のように頼りなげだった人を、突き放すのではなく、抱きしめてあげることができただろうか。
そんなことを考えていた所為で、いつしか片付けの手が止まっていた。秋の日は落ちるのが早いので、茜色の陽射しが保月庵の中に斜めに射し込めている。西の空に広がる黄昏はもう紫色だ。どうやら随分長い時間、呆けていたらしい。開けっ放しの障子を閉めようと菊乃が立ち上がった時、庭に人の気配がした。この場所にやってくる男性など一人しかいないので、足音を聞いただけですぐに誰かわかった――これまでに何度も、こうして彼を迎え入れたから。
「……よお」
「忠雅様」
「……これで最後にする。もう二度と来ないから、お願いだ、菊乃殿。――最後に一度だけ、中に入れてくれないか」
菊乃の想い人はそう言って、やはりどこか寂しそうに微笑った。
眉を寄せた忠雅が法勝寺に足を踏み入れた時、庭を走っていた若者が振り返った。手に山ほどの晒を抱えていて――そのほとんどがぐっしょりと血で濡れていた。
「おい、雅道、何があったんだ?」
「忠雅兄者……」
振り返った雅道の目が赤い。今にも泣き出しそうな……というより、完全に泣いていた。
ようやく夜も空け、昇り始めた太陽のおかげで早朝よりも大分暖かく感じられるようになった。どうやら今日はとてもよい天気らしい。秋晴れの空は青く高く澄んでいる。秋になるとこの辺りでよく見かける椋鳥の顔も、こころなしか穏やかで目を細めて笑っているようにも見える。
明野領にやって来て以来、玄徳と雅道は法勝寺に滞在し、敷地内にあった物置小屋を改装して怪我人や病人を診ながら暮らしている。影衆と葉隠衆は元々同じ組織なので、上杉の忍びに連なる資料は清水家の書庫にもある。忠雅では内容のよくわからない書付でも、医師である玄徳には理解できるものがあったらしい。資料と手に入る範囲の材料を元に、例の秘薬について調べを進めてくれていた。成之に玄徳の診察を受けさせるという目的はまだ果たせていないが、薬を抜いて記憶を戻す為に、微かではあるが希望が見え始めている。
「忠雅兄、昨夜、行春が……」
「行春が?おい、どうしたんだ、お前らしくないぞ。ちゃんと話せ、雅道」
行春は今年、影子から昇格したばかりの年若い影衆である。先日、忠雅は彼をおるいとおゆいの護衛を命じ、無事に母娘を送り届けて明野領に帰ってきた。その後は御役目を与えていないので、仲間たちと一緒に暮らしているねぐらで、鍛錬に励んでいるものだとばかり思っていた。
「――清水殿、ちょうどよい、今、遣いをやろうとしていたところだ」
気配を感じたのだろう。外に出て来た慈円和尚に導かれて寺に入ると、敷かれた夜具の上に少年が一人横たわっていた。蒼白い顔には血の気がなく、唇が紫色に変色している。夜具の側に積み上げられた布や晒も大量の血を吸い込んでいた。寺のそこここに染み込んでいる抹香の香より、血の匂いの方が強烈に感じられるほどに。――決して大きいとはいえない少年の身体から、どれだけの血が流れ落ちたのか。
患者のすぐ側に今ではすっかり見慣れた白い上っ張り姿の玄徳がいる。彼の両手も血で真っ赤に濡れていた。
「玄徳殿!何があったんだ?」
「……詳しくはわからん。夜更けに近所の子どもが斬り合う音を聞いたらしい。なかなか賢い子どもでな。火事だと叫んで人を呼んで、この寺まで患者を運んできた。出来る限りのことはしたのだが……」
「それで行春は……行春は助かるのか」
忠雅の問いに、玄徳医師は答えなかった。ただ黙って首を左右に振る。
不意に背後で悲鳴が上がった。悲鳴を上げて座り込んだ雅之の肩を雅道が抱いて慰めている。その声を聞いて、少年の瞼がうっすらと開いた。
「……忠雅兄」
「何があった行春、お前、一体誰にやられたんだ」
「どうして……」
「清水殿、あまり患者に喋らせるな」
玄徳の言葉は忠雅の耳を素通りした。まだ声変りを終えたばかりだというのに、老爺のようにしわがれてしまった声が紡いだ内容は、それだけの衝撃だった。
「どうして……雅勝兄が飯野の邸にいるんだ……?」
行春は明野領にやってきた時、まだ四歳の幼子だった為、しばらく雅勝が手許で面倒を見ていた。箸の持ち方や布団の上げ下ろしを教えたり――母を呼んで泣き続ける幼子を自分の布団に入れて抱いて寝ていたこともある。忠雅には、湯たんぽ代わりにちょうどいいんだ……などと言っていたが、雅勝自身だってあの頃はまだ少年だったというのに、ほとんど母親のようにかいがいしく世話を焼いて面倒を見ていた。
行春は雅勝にとてもよく懐いていたので、おゆいとおるいを守る人間としてふさわしいと思って選んだ。その人選自体は間違っていなかったと思う。だが忠雅は一つ重大なことを忘れていた。今の行春は稚い幼子ではない。当然、疑問に思ったことだろう。――何故、今のこの時期に、忠雅が雅勝の妻子を明野領に呼んだのかと。
行春は成り立てとはいえ一人前の影衆なので、探索事の基本も実践も身に着けている。だからわかった。わかってしまった。検地を見届ける為に明野領にやってきた飯野成之が、死んだはずの雅勝本人であるということを。
――そうして斬られた。親のように慕っていたその人の手で。
行春が雅勝と本気で斬り合えたとは思えない。何故、雅勝が自分に刃を向けるのかと、それしか考えられなかったはずだ。雅明も――影衆一の遣い手である雅規でさえもそうだった。ただでさえ、影達は人の愛情に飢えている。人望の厚い影衆の最年長。この世でただ一人、自分たちを理解し、認めて、守ってくれた相手。死んだと思っていた雅勝が目の前に現れたなら、彼らは皆、危険よりも恐怖よりも慕わしさを感じずにいられない。
「……雅勝、お前、どうして……」
過去の記憶を失くしているといっても、かつてあれほど可愛がっていた相手だ。それに本人は知りようがなかったとしても――自分の妻子を守ってくれた人間に、どうしてこんな惨いことができる。
握り締めた少年の手に力はなく、温もりさえも失われつつあった。冷えた手を布団の中に戻してやった時、傍らにいた玄徳が行春の顔を覗き込んだ。呼吸と脈を見た後で、瞼を持ち上げて反応を確認し、温もりの消えた行春の両手を胸の上で重ね合わせた。
雅之と雅道が互いの肩を抱きながら泣いている。慈円和尚が数珠を手繰り寄せて手を合掌している。何しろここは寺だ。行春の供養は和尚に任せておいて問題はない。今、忠雅にできること――するべきことは一つだけだ。
「――雅道、雅之の手当てを頼む」
「清水殿、何をする気だ」
「決着をつける」
頼めることは頼み込み、書き記せることはすべて書き記した。ほんの数刻前まで、忠雅が取るべき道は、黙って本領に行って死ぬことだけだった。
だが今、他の誰でもない、自分にしかできないただ一つの使命が残されていたことを、忠雅は明確に悟っていた。
――あの時、あんなことを言うべきではなかった……のかもしれない。
手習いの子ども達が帰った後の保月庵で、墨や紙を片付けながら、菊松尼は薄雲が棚引く秋の空を見上げていた。別れを告げてから半月あまり、忠雅が保月庵にやってくることはなかった。覚悟していたこととはいえ、まるでずっと側にいた温もりが急に欠けてしまったようで酷く寂しい。夫婦のように同じ家で寝起きしていたわけではないけれど、この三年間はずっと、忠雅の気配が心の中にあった。許嫁として過ごした年月よりもはるかに、心の距離が近くなっていたのだと、離れてしまった今になって気が付いた。
――忠雅の親としてお願い申す。もう保月庵には来ないようにと、そなたからあれに言ってやってくれ。
隠居した忠雅の父――志雲斎が保月庵にやってきたのは、一月あまり前のことだった。許嫁であった頃は何度か顔を合わせたが、菊乃が出家してから志雲斎と顔を合わせるのは初めてのことだ。事前に連絡もよこさずにいきなり訪れて、何を言い出すのかと思えばいきなり頭を下げてそんなことをのたまった。いや、あれは本当に頭を下げたというのだろうか。考えすぎかもしれないが、隠居したとはいえ武家の男が尼に頭を下げたのだ、まさか嫌とは言うまいな……という無言の圧力を感じていた。
菊乃は幼少期の忠雅が、清水家において大切にされていなかったことを知っている。だから成長し家督を継いだ忠雅と父親の仲がしっくり行っていないことは、仕方のないことだと考えていたし、まだ許嫁だった頃も、清水の家に嫁入った後は志雲斎とは距離を置き、上辺だけの付き合いに止めておこうと考えていた。
そう、正直に言うならあの時、菊乃だってちらりと考えたのだ。何よりも庇護が必要な幼子の頃に放置しておきながら、今更、どの面を下げてそんなことを言いに来たのか……と。
しかし長年身に染み付いた武家の女としての習性が、男の言葉に抗うことを拒んだ。不埒を働いた見合い相手を引っ叩いて席を立つなんてことは、おるいが武家の女ではないからできることだ。武家の女は物心ついた時から、男に対して徹底服従を教え込まれる。いや、服従というより、従わないという選択肢がそもそも存在しない。自分の肌に触れる男を自分で選ぶ――武家に生まれた女でなければ当たり前のように許されている自由さえ存在しないのが、男たちが作ったこの武家の世の仕組みなのだ。
忠雅に菊乃以外の伴侶が必要なのは間違いない。だからいつか忠雅の心を揺るがす女性が現れたなら、きっちり身を引く覚悟はできていた。そしてそのことは忠雅だって承知の上だろうとも。だがあの夜、菊乃がもう保月庵に来ないでくれと告げた時、忠雅はまともに傷ついた目をして菊乃を見た。その顔があまりに心細くて寂しそうで、一瞬、おるいが清水の邸に行く為に、半日ほどおゆいを預かった時のことを思いだしてしまった。
最初のうちは手習いに来た女の子達に可愛がられて楽しく過ごしていたおゆいは、不意に母親がいつまで経っても戻ってこないことに気づいたらしい。幼いながらにも自分が置いて行かれたと思ったのだろう。見ているこちらが切なくなるような顔をして、それでもおるいが帰ってくるまで、泣かずに必死に堪えていた。
もちろん忠雅は立派な二十二歳の成人男性なのだから、三歳の幼子と同一に考えるのは間違っている。わかっていながら、どうしても考えてしまう。おゆいには全身全霊で守ってくれる人がいる。だけと雅勝がいなくなってしまってからずっと、忠雅には彼を理解し、寄り添い、支えてくれる相手がいないのだ。
それなのにあの時、菊乃は彼を突き放してしまった。無二の友を死なせてしまった後悔に苦しみながら、明野領で暮らす民と武士の暮らしを肩に負って必死で戦い続けている人を、果てのない孤独の中に置き去りにしてしまった。
――もしも菊乃が武家の女でなかったなら。
あの時、置いてきぼりにされた幼子のように頼りなげだった人を、突き放すのではなく、抱きしめてあげることができただろうか。
そんなことを考えていた所為で、いつしか片付けの手が止まっていた。秋の日は落ちるのが早いので、茜色の陽射しが保月庵の中に斜めに射し込めている。西の空に広がる黄昏はもう紫色だ。どうやら随分長い時間、呆けていたらしい。開けっ放しの障子を閉めようと菊乃が立ち上がった時、庭に人の気配がした。この場所にやってくる男性など一人しかいないので、足音を聞いただけですぐに誰かわかった――これまでに何度も、こうして彼を迎え入れたから。
「……よお」
「忠雅様」
「……これで最後にする。もう二度と来ないから、お願いだ、菊乃殿。――最後に一度だけ、中に入れてくれないか」
菊乃の想い人はそう言って、やはりどこか寂しそうに微笑った。
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