茜さす

横山美香

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第二部5

5-6

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「しかしそれは……相手の男の行動が問題だろう」
 互いに想い合っているのならばともかく、まだ三度しか顔を合わせていないのに、いきなり手を握るのは早まり過ぎだと忠雅は思う。周囲がお膳立てした見合いであるのなら、身体に直接触れるのは、祝言の後の初夜であっても遅くはないくらいだ。
 忠雅の発言を聞いて、菊乃は歩みを止めた。こちらを見上げる両の目に白い月の影が映っている。こんな時だというのに一瞬、見惚れてしまった。
「ええ。わたくしもそう思ってそう言ったのですけど……」
 菊乃が忠雅とまったく同じことを告げた時、おるいはまともに噴き出して、目に涙が浮くほど笑い続けた。
 ――え、でも菊乃様。そんなこと言ったら初めて会った時に、雅勝殿なんて……。
「ああ、そういえば……」
 確かに、初対面の男が道の真ん中で、いきなり着物を掴んで引き剥がしたのだから、手を握るどころの話ではない。騒ぎになりかけたのを収めたのは忠雅なので、その話はとてもよく覚えている。そんな出会い方をした相手と、よくぞまあ、子どもをこさえるような間柄になったものだ。
 それでも男と女は、惹かれ合う時には惹かれ合う。地位も身分も――時に当人の感情さえも超越する。恋心が人の思う通りにならないことは、忠雅自身が痛いほど実感している。正式な許嫁で、周囲にさっさと祝言を挙げろとせっつかれている時には何も感じなかったのに、手が届かなくなった今になって、これほどまでに恋い焦がれているのだから。
「おるいさんは今も、雅勝様のことを想っていらっしゃるんですね」
「ああ、そうだな」
 おるいが明野領を去ったのはおゆいの――雅勝の娘の為だ。それもまた一つの想いの形であろう。
 男と女、相手が生きているか死んでいるかの違いはあるものの、この三年間、手の届かない相手を想い続けて来たという点において、忠雅もまたおるいと同じである。勝手に同士めいた感覚を抱いてしまう。
「残念です。おるいさんなら十分、清水家の奥方が務まったでしょうに」
「はあっ?」
 とてつもなく、素っ頓狂な声が出た。過去に菊乃がそんなことを言っていたことは、抹茶に殺されかけた記憶と一緒に、綺麗さっぱりと忘れていたのだが、菊乃はおるいから雅勝以外の男と抱き合うのは無理だと聞くまで、諦めていなかったとでもいうのか。
 しかしいくらなんでも、これはあまりに酷過ぎる。どうしてよりにもよって想う女の口から、こうも他の女を――しかも相手は無二の友の妻だ――を勧められなければならないのか。
「……いい加減にしてくれ!」
「忠雅様?」
「俺は、あなた以外の女性を妻にする気はない!」
 大きく震えて身を竦ませた墨染の背中が、土塀に押し当てられている。もうここは保月庵のすぐ近くであり、この塀は佐竹家の菩提寺の塀だ。すぐ間近から菊乃に見上げられ、忠雅は彼女を壁に押し付けて、自分の腕の中に閉じ込めていることに気が付いた。
 これでは同意を得ず、おるいの手を握って汁物をぶっかけられた男を責められない。許されざる無体であり、武士どころか男の風上にもおけぬ振る舞いである。――わかっている。わかっているのに手を離せない。どうしても手離す気になれない。
 許嫁を三年、茶飲み友達を三年、計六年も付き合ってきて、これほど身体的に近づいたことはない。御仏に仕える墨染の着物からは抹香の匂いが漂っていて、それでいてその奥から、彼女本来の花のような芳香がしている。質素な黒い着物の下に成熟した女の柔らかな肢体を感じ、まともに欲望が刺激された。一緒に行く人間がいないとつまらないので、ここ最近は妓楼で女を抱くこともなかった。このままどこか連れ込んで、もう二度と馬鹿げたことを言い出さないようにこの口を塞いでやろうか――
「……すまない。頭に血が上った」
 激しい衝動が吹き荒れたのは、ほんの一瞬のことだった。腕の力を抜いて身を離した忠雅を、菊乃は黙って見上げてきた。彼女は女にしては背が高い方なので、ほんの少し見上げただけで視線が真正面からぶつかり合う。佐竹家の姫君が男にこんな乱暴をされたことなどなかったろうに、法衣姿の元許嫁はさほど怯えた風でもなく、静かに忠雅に向かって口を開いた。
「こないだ、志雲斎様が保月庵にいらっしゃいました」
「――あの人が?」
 志雲斎とは、忠雅の父の隠居後の呼び名である。若い頃から書を嗜む人で、その道では多少知られた人物であったらしい。隠居は明野領の南にある清水家の地所に移り住み、時に近隣の子ども達に手習いを教えたりしている。まさに悠々自適の隠居生活を送っている父に、忠雅はできる限り会わないように苦心していた。幼少期の忠雅が清水の邸でどんな目に合っていたか。知っていて放置しておきながら、子ども達に「先生」と呼ばれて慕われている男の顔を見てしまうと、殺してやりたい衝動を抑えるのが難しいからだ。
「……あの人が菊乃殿に?何用で?」
「志雲斎様はわたくしに頭を下げにいらっしゃったのです。もう忠雅様に会わないでやって欲しいと」
 忠雅がいつまでたっても妻帯せず、尼となった元許嫁のところに入り浸っていることは、父にも親戚にも知れ渡っている。これまでにも何度か、もう保月庵には行くなと忠告されたが、忠雅は忠告を綺麗さっぱり無視し続けてきた。
「清水家の為に、忠雅様にはわたくしではなく、正式な奥様が必要なのだと。ご自分の言葉が忠雅様に届かないのは、志雲斎様もわかっておられるのです。ですから、わたくしにすまない、と。親として頼む、どうかわたくしから忠雅様にもう来ないように言ってくれと、頭を下げられて……」
 震える菊乃の声を聞きながら、噛みしめた口の中に血の味が広がって行く。
 忠雅が物心ついた時、清水家には七人の息子がいた。長男から五男までが正室腹で、六男と七男の忠雅が妾腹だ。生まれた頃から身体の弱かった四男は寝たり起きたりの生活で、ほとんど顔も見たことがない。
 武家の相続は長男優先で、家督も財産もすべて長男がかっさらって行く。四男同様、跡取りの長男もまた蒲柳の質であった為、清水家では念の為、次男を養子に出さずに家に残していた。しかし長男は無事に成人して妻を――後に御見の方となる川口家の長女を娶った為、次男の存在は完全に浮かび上がってしまった。今更婿入りの口も見つからず、次男が部屋住みのままでいることで、三男と五男にも良い養子先は回ってこなかった。
 当時の彼らの中に相当な鬱屈があったのだろうことは、容易に想像がつく。特に次男はそれなりに優秀な人物であったようで、若い頃には婿養子の話もいくつかあったのに、長男の早世に備えて家を出ることができなかった。不遇をかこつ同母三兄弟の鬱憤と鬱屈はすべて、彼にとって虫けら以下の――最年少の弟である忠雅に向かった。
 殴られたことも蹴られたことも、木に吊るされたこともあれば井戸に沈められたこともある。使用人も家臣達も、見ていて知っていたのに誰も助けてくれなかった。何せ母親の身分があまりに低いので、忠雅を当主の子として扱うべきか、彼らの中に迷いがあったらしい。忠雅が父と似ていないことも災いした。これは本当に殿の子なのか……と周囲のささやきは、当時の忠雅の耳にも届いていた。
 そう、忠雅の顔は父に似ていない。成人した今でもどちらかといえば母親似である。男の子は幼い頃は母親に似るので、子どもの頃は今よりもっと母親に――下働きの身でありながらその美貌が次席家老の目に留まった女に――そっくりだった。その顔で、その口で、父上を誑かしたのだろう。だったら俺たちも試させろ。どうせ売女の子どもなんだから、構いやしないよな。まだ六歳だった忠雅に卑猥な言葉を浴びせかけ、兄達三人に物置小屋に連れ込まれた後の記憶は――玄徳が今も上杉の忍びの秘薬を持っているのなら、頼み込んで消してもらいたかった。
 まったく可愛がられた覚えはないが、時折、邸で見かける男が父親であることは知っていた。だから最初の頃は、父が知ったら助けてくれるのではないかと期待していた。ただそれだけを支えに耐えていた時期もある。そしてやがて、父が自分の邸の中で起きていることを薄々勘付きながら放置しているのだとわかって、忠雅はその男を親と思うことをやめた。
 今更、親の顔をして菊乃に会いに行くぐらいなら、何故あの時、あの獣達を止めてくれなかったのか。泣いて叫んで助けを請う声が聞こえていたはずなのに、ただ一言「やめよ」と言ってくれなかったのか。――ああ、今すぐに飛んで行ってあの男を、八つ裂きにして殺してやりたい。
 今宵は月が明るいので、忠雅の顔色が変わったことに気づいただろう。いったん離れた距離が再び近づく。澄んだ瞳に映った忠雅の顔は、憤怒に歪んだ夜叉の面ではなく、泣き出す寸前の幼子の顔をしていた。
「……忠雅様。菊乃はお家の為にとは申しません」
「菊乃殿」
「これから君水藩と明野領は大変なことになるのでしょう?わたくしでは、この先、忠雅様のお役には立てません」
 先ほどの法勝寺での話だ。明野領派の藩主が押し込められ、反明野領派が権力を握った今、明野領がこのままで済まされるとは到底思えない。領主・武智行久がまったくあてにならない以上、明野領を守るのは次席家老である忠雅の役目だ。
 正直なところ、忠雅自身はその件についてはもう何もかもがどうでもいいような気分になっていた。これまでの権力争いで、明野領も本領も随分とたくさんの人の命を奪ってきた。この土地で暮らす民や末端の武士の今後の生活は何としても守らねばらないが、逆に言うならそれさえかなうのであれば、藩がなくなろうが明野領がなくなろうが知ったことか、と思うのは、さすがに投げやりに過ぎるだろうか。
「菊乃殿。一つ聞かせてくれ。この三年間、俺が訪ねて行ったことは、あなたにとっては迷惑だったのか?」
「いいえ。この三年間、忠雅様が保月庵にいらっしゃって、お茶を差し上げてお話をしたり、庭を歩いたり……、菊乃はとても楽しゅうございました」
「だったら!」
「――なりません、忠雅様」
 思わずこちらがはっとする程、きっぱりとした口調だった。迷惑でないのなら、これまで通り時折顔を合わせ、茶を飲みながら話をするだけでいい。妻になってくれなくともいい。子どもなんて大それたものは望まない。ただの茶飲み友達でいてくれるなら、それ以上を望んだりしないから。――そんなささやかな願いさえも許してくれないほどの。
 おるいといい、菊乃といい。どうして女という生き物は、男を置き去りにしてさっさと一人で覚悟を決めてしまうのか。
「どうかわたくしではなく、忠雅様を側でお助けし、支えてくださる方を奥様としてお迎えください」
 白くたおやかな手が、そっと忠雅の拳に重ねられる。ずっと触れてみたいと願っていた女の手は、想像していたよりはるかに柔らかく、暖かなものだった。だけど握り返すことができない。これは別れの場面なのだと唐突に悟る。三年前のあの日、城の地下牢で雅勝とおるいの今生の別れに立ち会った。そしてつい最近、おるいが成之に別れを告げるところを見届けた。そして三度目、月の綺麗な今宵は――忠雅と菊乃との別れの夜だ。
「もう保月庵には、お出でにならないで下さいませ」
 泣き出す寸前どころか、ほとんど泣き出している忠雅を残して、墨染の背中が木戸の内側に消えて行く。青白く光る道の真ん中で、忠雅はたった一人、いつまでもただ立ち竦んでいた。
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