茜さす

横山美香

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第二部5

5-5

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 菊乃と一緒に法勝寺を出た時には、すっかり夜が更けていた。
 もともと、手習いの後片付けを終えて帰ろうとしていた菊乃を、送って行くから待ってくれと引き留めたのは忠雅である。その所為でこんな遅い時間まで足止めして、とても後味の悪い話を聞かせてしまった。
 中秋の名月は既に終わったはずだが、まるで今宵が中秋の名月であるかのように、白くて大きな月がぽっかりと浮かび上がっている。夜空は綺麗に晴れ渡り、満月から離れた夜の端っこで、いくつかの星が控えめに瞬いているのがわかる。暖かくさえしていれば、そぞろ歩きには最適な環境だった。
「すまなかったな、菊乃殿。随分時間を取らせてしまった」
「いえ、わたくしも忠雅様にお伝えしたいことがありましたから」
 色々頭の痛いことがてんこ盛りの状況ではあるのだが、忠雅にとって、菊乃と二人で歩くのは純粋に楽しく嬉しい時間だ。彼女がまだ許嫁であった頃、何度か二人で肩を並べて歩いた時にはそんなことはまったく感じなかったので、我ながら現金なものだとしみじみと思う。
「伝えたいこと?」
「ええ。おるいさんからの言伝です」
 忠雅がおるいと飯野成之を対面させたあの日、倒れた成之を迎えに清水の邸にやってきた恰幅のよい男に、おるいは見覚えがあった。見覚えはあったがずっとどこで見たのか思い出せないでいたのだが、明野領を出立する直前になって思い出した。今から三年と数カ月ほど前、加賀谷の街でのことだ。おるいと雅勝が二人で滞在していた宿屋にやって来て、遊郭に売られたおるいの幼馴染の居場所を教えてくれた。彼女は直接言葉を交わしていないが、雅勝はその男を加賀谷の妓楼の用心棒だと言っていた。
「加賀谷の妓楼の用心棒か……」
 間違いない。その男は葉隠衆の人間だ。そんなに早くから雅勝に――影衆の最年長に目をつけていたのかと思う。そして同時に、先ほど玄徳医師や慈円和尚の前では顔に出すことさえできなかった問いかけが、重たく頭をもたげてきた。
 ――お前、俺たちを……影衆を裏切ったのか。
 明野領に土地勘があり、影衆達の特徴をすべて把握していて、そして忠雅の考えることが読める人間。葉隠衆にしてみれば、これ以上重宝な人材はない。玄徳は三年以上もの長きに渡ってと言っていたが、実際のところ、雅勝がいつ過去の記憶をなくしたのかは定かではない。だが恐らく最初の段階では――三年前、殺されずに生き延びた段階では――本人の意志と記憶があったはずなのだ。そうでなければ葉隠衆にとって、雅勝を手に入れる価値は半減する。
 あの時、雅勝に命じられた御役目は藩主を暗殺して死ぬことだった。生き延びたこと自体が不忠であり、れっきとした命令違反である。だが忠雅はその件について、友を責める気にはなれそうもない。あいつはただ生きたかっただけだ。どうしても生きて――おるいと添い遂げたかった。
「あともう一つ……これは言伝なのかわからないのですけど」 
 明野領を去る直前、おるいはおゆいを腕に抱き、真っ直ぐに菊松尼の目を見据えた。その目に涙が浮いているように見えたのは、気の所為ではなかったと菊乃は言った。
 ――今、わたしは一人ではありませんから。……清水様に、どうかよろしくお伝えください。
 おるいの故郷は本領にある忍び里だ。雅勝と会ってその症状を間近で見て、何が使われたのか、奴の身に何が起こったのか、薄々勘付いたのではないだろうか。
 そもそも三年前、雅勝に死を強いたのは、君水藩の政の闇だった。そして今、生き延びた雅勝の周囲で、君水藩の闇が再び動き始めている。具体的なことはわからなくとも、おるいはそのことを肌で感じ取った。感じ取ったその上で――
 ――違います。清水様。あの方は雅勝殿ではありません。
 我が子と自分自身の身の安全を優先させた。
 自分一人ならば離れはしない。何があっても側にいて――泣いて縋ってわたしを思い出してと叫びたい。だけどこの子を危険にさらすわけにはいかない。そしてこの子が大人になるまで、わたしも死ぬわけにはいかない。
 あの日の朝、おるいが口には出さなかった本当の想いが、今、秋の風に撒かれて聞こえて来たような気がした。
 おるいは今も雅勝を想っている。それは間違いない。だが母親が、我が子の安全と自身の想い秤にかけることはない。――かけるまでもなく、前者の方が重いと知っているから。
 強い女だとしみじみと思う。それとも母親とは誰も皆、これほどまでに強い生き物なのだろうか。
 先ほど聞いた話があまりに重苦しかった所為か、無性におるいとおゆいの母娘が愛おしく思えてならなかった。おかしな形でねじくれず、真っ直ぐに結びついた親子の情のなんと尊く美しいことか。
「おるいさん、縁談があったそうなんです」
「えっ」
 一応、里を出る前にそういうことがないかと確認したはずなんだが……と思ったら、それは忠雅がおるいを訪ねるよりもずっと以前、おゆいが生まれて一年くらい経った頃のことだった。おるいの里が薬草を納めている薬屋の職人で、当時二十五歳。妻と死に別れ、四歳の男の子を男手一つで育てていた。
 周囲の人間に勧められ、おるいは男と三度、顔を合わせた。はじめは父親と一緒に。二度目は互いの子どもを連れて。男手一つで息子を育てているだけあって、おゆいは男にすんなり懐きそうだったし、四歳の男の子がおっかなびっくりおゆいをあやしている姿が微笑ましく、おるいの心も少し動いた。
 一度は自分で選んだ相手に裏切られて置いて逝かれた。ならば周囲の勧めに乗ってみるのも悪くはないかと思って、三度めに、二人きりで会いたいという相手の誘いに乗った。
 もちろん、彼女は浅はかでもなければ愚かでもない。会う時間は昼日中、あえて他の客も大勢いるような料理屋を指定した。しかしその席で――相手の男がいきなり、手を握ってきた。
 一見、細身で非力そうに見えるが、おるいは忍びの血を引く女である。突然の無体を振り払って平手打ちにした上で、椀に入っていた汁物を相手の顔にぶちまけて帰ってきたというのだから、恐れ入る。
 その話はおるいの中で今、完全に笑い話となっているらしい。呆気に取られた菊松尼に笑いながら告げたそうだ。
 ――でも、おかげでわかりました。わたしはあの人以外の男の人に触れられるのは無理なんだって。
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