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第二部5
5-2
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「忠雅兄、淡路屋が城への出入りを止められた。……雅弘とまったく連絡が取れないんだ」
明野領にやってきた雅道は、開口一番そう告げた。普段、冷静沈着な若者にしては珍しく、今にも泣き出しそうな不安げな表情だった。
淡路屋は城下町にある君水藩御用達の道具屋であり、影衆の最大の協力者でもある。影衆には他にも本領に協力者や仲間が存在するが、淡路屋ほどの大店は存在しない。雅道は既に影衆を抜けているものの、影衆件淡路屋の手代である雅弘とは密に連絡を取り合っていたらしい。そういえば彼らは年齢が近く、明野領にいた時にはかなり親しく付き合っていた。雅勝がいた頃は奴に聞けば弟達の人間関係が一発で分かったのだが、今の忠雅はあえて思い出さなければ彼らの横のつながりを思い出せない。決してよい兄貴分ではないと自分でも思う。
「それに雅弘だけじゃないんだ。雅之や行道や――城にいる他の連中とも連絡がつかない。兄者、まさかあいつらはもう……」
かつての雅道は優秀な影衆であり、本領の城にも何度か潜入している。その気になれば昔の仲間達と連絡を取るくらいできるはずなのに、彼らの無事を確認できなかった。となれば城にいる影衆は既に殺されているか――あるいは城内に何らかの変事があって、より深く忍んでいるかのどちらかだろう。
「普通、御用達の商家が何の咎もなく突然出入りを止められることなどない。しかも城下の様子が明らかにおかしいのだ。商家も武士も……明野領に係りある人間を排除している動きがある」
そう告げたのは雅道の師匠・庄野玄徳医師である。明野領は君水藩の一部なので、明野領に本店を持ち、本領に支店を出した商家は忠雅の知る限りでもいくつかある。本領の本家に跡継ぎがなく、明野領の縁戚から養子に入った武士ならばもっといるだろう。しかし大規模検地が終了したこの半月程の間に、明野領ゆかりの商家はことごとく商いを止められ、明野領からやってきた武達士は出仕を止められたと聞いて、忠雅は不覚にもぞっとした。
現君水藩主・武智雅久は明野領生まれの明野領育ちの人物であり、先の明野領主である。まさしく明野領に係りある人間の筆頭だ。藩主が自ら明野領の排除に動くはずがない。――今、君水藩でいったい何が起こっているのか。
忠雅の顔色を読んだのだろう。玄徳が低く呻くような声で告げる。
「殿は……ここ一月ほど、まったく表に姿を見せていないのだ。城に医者が呼ばれた気配があるが、その医者が城から出て来たという話がない」
玄徳の実家は江戸留守居役も勤めたかなり高貴な家柄なので、城に伝手を持っていても不思議ではない。優秀な医者である玄徳ならば医者たちと横のつながりもあるだろう。
不意に、最後にあった時の武智雅久の顔色を思い出した。藩主がまったく表に姿を見せず、医者が城から出てこないとなると病に伏せている可能性が高いのだが、そうであれば実弟の武智行久に報せがない訳がない。だが明野領の次席家老である忠雅は、そのような報せを聞いた覚えがなかった。
明野領に係りある人間といえば、元影衆である雅道もその一人である。明野領清水家の当主――つまりは忠雅の伝手で玄徳の元に弟子入りしたので、隠しようもない。淡路屋が城の出入りを止められてしばらくして、正体のわからない武士達が医院の周囲をうろつくようになった。しかも数日前、急に玄徳の生家を通して正式に雅道の素性を城に知らせよと言ってくるに及んで、玄徳は雅道を明野領に逃がすことを決めた。
「俺は一人で行くって言ったのに。師匠がどうしても一緒に行くって聞かなくて」
「馬鹿者!お前の身が危ないというのに、一人でなど行かせられるか!清水殿、雅道は近い将来必ず、優秀な医者になる男だ。どうか守ってやって欲しい。――この通り、お頼み申す」
玄徳医師はそう言って、忠雅に対して深く頭を下げた。
もちろん、忠雅としても雅道を保護することはやぶさかではない。本領で変事が起こったらしい今、雅道がこちらにいてくれれば心強いという想いもある。だが今、忠雅に向かって頭を下げた玄徳に行動に、純粋に胸の奥が温かくなった。
金に困っていない親に金で売られた雅道には今、純粋に心から身を案じてくれる師匠がいるのだ。
――よかった。
それはともかく、これでようやくほんの少し、事の次第が見えて来たなと思う。他の何についてでもない。藩主交代劇から三年たった今、何故、飯野成之が――雅勝が忠雅の前に姿を現したのかについてだ。
武智雅久は君水藩主でありながら、藩の隠密である葉隠衆を掌握していなかった。彼が使える隠密は忠雅の配下である影衆のみであり、その忠雅は物理的に距離の離れた明野領にいる。
誰が考えたのか――大方、本領で葉隠衆を統括している飯野家の家長あたりだろうか――その人物は藩主を排除するにあたって、忠雅の目を本領から逸らしたかった。逆の立場であれば忠雅であってもそうする。今、藩主の身に変事があれば真っ先に影衆が動く。三年前の争いでは、影衆にも葉隠衆にもかなりの被害が出た。事がもはや隠しようもなくなるまで、影衆と葉隠衆の全面対決は避けておきたいと考えるのは当然の感情だ。
三年前、前藩主暗殺の際に、葉隠衆の手に落ちた影衆の最年長。彼は影衆を統括する清水家の家長と幼馴染であり、極めて親しい仲だった。あの時、忠雅が奴を助けようと城に侵入したことも知られていたのかもしれない。人間の心理を上手く突いた手だ。――飯野成之は、忠雅と影衆の意識を本領から逸らす為の駒だったのだ。
あまり認めたくはないが、忠雅はものの見事にその策略にはまった。明野領にやってきた幼馴染そっくりの男の正体を知ることに気を取られ、雅道と玄徳に話を聞くまで、本領の変事にまったく気づいていなかったのだから。
「……なるほどな」
「清水殿?」
「葉隠衆は……、この状況を狙っていたということか」
忠雅は影衆を統括する明野領清水家の家長であり、藩主から認められた明野領主の名代でもある。藩から正式に城に上がるように命じられれば、断ることはできない。今、城内は反明野領派で支配されているのだろうから、忠雅が本領に行けば、藩主に会う前に消されるだろう。現実問題として武智行久に明野領は治められないので、君水藩の一国二制度――明野領の自治はそこで終わる。
やられたな……と心の底から深く嘆息する。そして同時に思う。とても頭が切れて、時に物事の裏の裏まで見抜いてしまっていたあの幼馴染であれば、こんな策略にまんまとひっかかることはなかったのではないか、と。
……雅勝、お前、もう俺を解放してくれないか。
忠雅が十の歳から十九歳まで親しく付き合っていた幼馴染は、頭が切れて弁が立ち、剣の腕が立つ上に人望があるという、極めて優れた人物だった。もちろん、頭が切れるくせに時々おかしなところで間が抜けているとか、寂しがり屋で一人にされると捨てられた仔犬みたいな顔をするのが鬱陶しいとか、短所や欠点はいくらでもあったのだが、人は死ぬと仏様になるので人としてあって当然の短所が霞んでしまう。生きて共にいる間はさほど感じていなかったのに、死んだ後になって友と我が身を引き比べて、自分の至らなさを感じることが多くなった。
ここまでくると、雅勝の存在は忠雅にとって呪いに近い。いや、いったん死んで甦ってくるあたり、呪いというより亡霊だろうか。
これ以上捕らわれていると、いたずらに劣等感を刺激されて道を誤りそうなので、亡霊には人間に戻ってもらい、妻子のいる家に帰ってもらおう。他の誰の為でもなく忠雅の今後の人生の為に、奴にはもう永遠に目の前から消えてもらいたい。
「……玄徳殿、一つ、教えてもらえないか」
「清水殿?」
「人が人為的に人の記憶を奪い取る。そのような方法を玄徳殿はご存じだろうか?」
忠雅も過去に、屋根から落ちて頭を打って自分が誰かもわからなくなった人間や、熱病で生死をさまよい、それまでの数十年の人生を忘れてしまった人間の実例なら見聞きしたことがあった。しかし今、雅勝は明らかに誰かの手で記憶を奪われている。ただし、完全ではない。二度ほど見た突然の体調不良がその証左だ。一度目は忠雅が本気で――明野領の次席家老としてではなく一人の人間として――怒鳴りつけた時。そして二度目はおるいと会った時。いずれも、雅勝の心は激しく反応した。その反応に肉体が耐えきれなくなった結果があの発作的な不調なのだと思う。
清水家の書庫には隠密の技や薬草に関する資料もある。かなう限り調べてみたのだが、少なくとも明野領や影衆に関わる過去の文献の中では、これと言った方法は見つからなかった。
「ある……と言ったなら、清水殿、貴公はそれをどのように使うつもりなのか」
玄徳医師のこの回答に、忠雅は少なからず傷ついた。
玄徳は人の身分に頓着しない。患者が裕福な商人であっても日雇い人夫であっても女郎であっても――藩主であったとしても人は人だ。傷や不調を抱えた人間に治療を施すにあたって、生まれも財貨のあるなしも関係ない。彼はただ人を見て人を治す。そんな医師の姿に、密かに尊敬の念を感じていた。
鬢の毛には白いものが多く混ざっているが、いつも眼差しが力強く生き生きとしていて、四十五という実年齢よりも大分若く見える。これまで忠雅が城下町にある医院を訪ねると、張りのある声で指示を飛ばし、水汲みや洗濯や怪我人の世話に、散々とこきつかってくれた。だから地位や身分に係りなく、人としてそれなりの関係を築いていると思っていた。
しかし今、玄徳は疑っている。そのような方法があると知ったなら、明野領の次席家老が己の策略に利用するのではないかと警戒している。
もっとも玄徳は事情を知らないのだから、そう考えてしまうのも無理はない。だったら事情を知ってもらおうではないか。先ほどこの医師は「その方法を知ったなら、どのように使う気か」と問うた。「そんな方法は聞いたことも見たこともない」とは言わなかった。
事の次第を明かすということはすなわち、三年と少し前の前藩主暗殺事件が明野領の手によるものだと告げることだ。あまりに明け透けにすべてを語ったので、最初に慈円和尚が驚いた顔をした。影衆の元最年長――雅勝によく似た人間が本人であったというくだりでは雅道がぎょっとして腰を浮かしかけて、雅勝に妻子がいることだけは最後まで伏せたので、語り終わる頃には菊乃が複雑そうな顔をしていた。
忠雅の語りを聞きながら、壮年の医師の顔はどんどん渋いものへと変わって行く。それはそうだろう。今、忠雅が語ったのは、君水藩の政の闇だ。公儀に知られたならお家取り潰しもある深い闇をすべて語った次席家老に対し、医師は重たい口を開いた。
「……まだわしが上方で修行していた、若い頃の話だ」
明野領にやってきた雅道は、開口一番そう告げた。普段、冷静沈着な若者にしては珍しく、今にも泣き出しそうな不安げな表情だった。
淡路屋は城下町にある君水藩御用達の道具屋であり、影衆の最大の協力者でもある。影衆には他にも本領に協力者や仲間が存在するが、淡路屋ほどの大店は存在しない。雅道は既に影衆を抜けているものの、影衆件淡路屋の手代である雅弘とは密に連絡を取り合っていたらしい。そういえば彼らは年齢が近く、明野領にいた時にはかなり親しく付き合っていた。雅勝がいた頃は奴に聞けば弟達の人間関係が一発で分かったのだが、今の忠雅はあえて思い出さなければ彼らの横のつながりを思い出せない。決してよい兄貴分ではないと自分でも思う。
「それに雅弘だけじゃないんだ。雅之や行道や――城にいる他の連中とも連絡がつかない。兄者、まさかあいつらはもう……」
かつての雅道は優秀な影衆であり、本領の城にも何度か潜入している。その気になれば昔の仲間達と連絡を取るくらいできるはずなのに、彼らの無事を確認できなかった。となれば城にいる影衆は既に殺されているか――あるいは城内に何らかの変事があって、より深く忍んでいるかのどちらかだろう。
「普通、御用達の商家が何の咎もなく突然出入りを止められることなどない。しかも城下の様子が明らかにおかしいのだ。商家も武士も……明野領に係りある人間を排除している動きがある」
そう告げたのは雅道の師匠・庄野玄徳医師である。明野領は君水藩の一部なので、明野領に本店を持ち、本領に支店を出した商家は忠雅の知る限りでもいくつかある。本領の本家に跡継ぎがなく、明野領の縁戚から養子に入った武士ならばもっといるだろう。しかし大規模検地が終了したこの半月程の間に、明野領ゆかりの商家はことごとく商いを止められ、明野領からやってきた武達士は出仕を止められたと聞いて、忠雅は不覚にもぞっとした。
現君水藩主・武智雅久は明野領生まれの明野領育ちの人物であり、先の明野領主である。まさしく明野領に係りある人間の筆頭だ。藩主が自ら明野領の排除に動くはずがない。――今、君水藩でいったい何が起こっているのか。
忠雅の顔色を読んだのだろう。玄徳が低く呻くような声で告げる。
「殿は……ここ一月ほど、まったく表に姿を見せていないのだ。城に医者が呼ばれた気配があるが、その医者が城から出て来たという話がない」
玄徳の実家は江戸留守居役も勤めたかなり高貴な家柄なので、城に伝手を持っていても不思議ではない。優秀な医者である玄徳ならば医者たちと横のつながりもあるだろう。
不意に、最後にあった時の武智雅久の顔色を思い出した。藩主がまったく表に姿を見せず、医者が城から出てこないとなると病に伏せている可能性が高いのだが、そうであれば実弟の武智行久に報せがない訳がない。だが明野領の次席家老である忠雅は、そのような報せを聞いた覚えがなかった。
明野領に係りある人間といえば、元影衆である雅道もその一人である。明野領清水家の当主――つまりは忠雅の伝手で玄徳の元に弟子入りしたので、隠しようもない。淡路屋が城の出入りを止められてしばらくして、正体のわからない武士達が医院の周囲をうろつくようになった。しかも数日前、急に玄徳の生家を通して正式に雅道の素性を城に知らせよと言ってくるに及んで、玄徳は雅道を明野領に逃がすことを決めた。
「俺は一人で行くって言ったのに。師匠がどうしても一緒に行くって聞かなくて」
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玄徳医師はそう言って、忠雅に対して深く頭を下げた。
もちろん、忠雅としても雅道を保護することはやぶさかではない。本領で変事が起こったらしい今、雅道がこちらにいてくれれば心強いという想いもある。だが今、忠雅に向かって頭を下げた玄徳に行動に、純粋に胸の奥が温かくなった。
金に困っていない親に金で売られた雅道には今、純粋に心から身を案じてくれる師匠がいるのだ。
――よかった。
それはともかく、これでようやくほんの少し、事の次第が見えて来たなと思う。他の何についてでもない。藩主交代劇から三年たった今、何故、飯野成之が――雅勝が忠雅の前に姿を現したのかについてだ。
武智雅久は君水藩主でありながら、藩の隠密である葉隠衆を掌握していなかった。彼が使える隠密は忠雅の配下である影衆のみであり、その忠雅は物理的に距離の離れた明野領にいる。
誰が考えたのか――大方、本領で葉隠衆を統括している飯野家の家長あたりだろうか――その人物は藩主を排除するにあたって、忠雅の目を本領から逸らしたかった。逆の立場であれば忠雅であってもそうする。今、藩主の身に変事があれば真っ先に影衆が動く。三年前の争いでは、影衆にも葉隠衆にもかなりの被害が出た。事がもはや隠しようもなくなるまで、影衆と葉隠衆の全面対決は避けておきたいと考えるのは当然の感情だ。
三年前、前藩主暗殺の際に、葉隠衆の手に落ちた影衆の最年長。彼は影衆を統括する清水家の家長と幼馴染であり、極めて親しい仲だった。あの時、忠雅が奴を助けようと城に侵入したことも知られていたのかもしれない。人間の心理を上手く突いた手だ。――飯野成之は、忠雅と影衆の意識を本領から逸らす為の駒だったのだ。
あまり認めたくはないが、忠雅はものの見事にその策略にはまった。明野領にやってきた幼馴染そっくりの男の正体を知ることに気を取られ、雅道と玄徳に話を聞くまで、本領の変事にまったく気づいていなかったのだから。
「……なるほどな」
「清水殿?」
「葉隠衆は……、この状況を狙っていたということか」
忠雅は影衆を統括する明野領清水家の家長であり、藩主から認められた明野領主の名代でもある。藩から正式に城に上がるように命じられれば、断ることはできない。今、城内は反明野領派で支配されているのだろうから、忠雅が本領に行けば、藩主に会う前に消されるだろう。現実問題として武智行久に明野領は治められないので、君水藩の一国二制度――明野領の自治はそこで終わる。
やられたな……と心の底から深く嘆息する。そして同時に思う。とても頭が切れて、時に物事の裏の裏まで見抜いてしまっていたあの幼馴染であれば、こんな策略にまんまとひっかかることはなかったのではないか、と。
……雅勝、お前、もう俺を解放してくれないか。
忠雅が十の歳から十九歳まで親しく付き合っていた幼馴染は、頭が切れて弁が立ち、剣の腕が立つ上に人望があるという、極めて優れた人物だった。もちろん、頭が切れるくせに時々おかしなところで間が抜けているとか、寂しがり屋で一人にされると捨てられた仔犬みたいな顔をするのが鬱陶しいとか、短所や欠点はいくらでもあったのだが、人は死ぬと仏様になるので人としてあって当然の短所が霞んでしまう。生きて共にいる間はさほど感じていなかったのに、死んだ後になって友と我が身を引き比べて、自分の至らなさを感じることが多くなった。
ここまでくると、雅勝の存在は忠雅にとって呪いに近い。いや、いったん死んで甦ってくるあたり、呪いというより亡霊だろうか。
これ以上捕らわれていると、いたずらに劣等感を刺激されて道を誤りそうなので、亡霊には人間に戻ってもらい、妻子のいる家に帰ってもらおう。他の誰の為でもなく忠雅の今後の人生の為に、奴にはもう永遠に目の前から消えてもらいたい。
「……玄徳殿、一つ、教えてもらえないか」
「清水殿?」
「人が人為的に人の記憶を奪い取る。そのような方法を玄徳殿はご存じだろうか?」
忠雅も過去に、屋根から落ちて頭を打って自分が誰かもわからなくなった人間や、熱病で生死をさまよい、それまでの数十年の人生を忘れてしまった人間の実例なら見聞きしたことがあった。しかし今、雅勝は明らかに誰かの手で記憶を奪われている。ただし、完全ではない。二度ほど見た突然の体調不良がその証左だ。一度目は忠雅が本気で――明野領の次席家老としてではなく一人の人間として――怒鳴りつけた時。そして二度目はおるいと会った時。いずれも、雅勝の心は激しく反応した。その反応に肉体が耐えきれなくなった結果があの発作的な不調なのだと思う。
清水家の書庫には隠密の技や薬草に関する資料もある。かなう限り調べてみたのだが、少なくとも明野領や影衆に関わる過去の文献の中では、これと言った方法は見つからなかった。
「ある……と言ったなら、清水殿、貴公はそれをどのように使うつもりなのか」
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玄徳は人の身分に頓着しない。患者が裕福な商人であっても日雇い人夫であっても女郎であっても――藩主であったとしても人は人だ。傷や不調を抱えた人間に治療を施すにあたって、生まれも財貨のあるなしも関係ない。彼はただ人を見て人を治す。そんな医師の姿に、密かに尊敬の念を感じていた。
鬢の毛には白いものが多く混ざっているが、いつも眼差しが力強く生き生きとしていて、四十五という実年齢よりも大分若く見える。これまで忠雅が城下町にある医院を訪ねると、張りのある声で指示を飛ばし、水汲みや洗濯や怪我人の世話に、散々とこきつかってくれた。だから地位や身分に係りなく、人としてそれなりの関係を築いていると思っていた。
しかし今、玄徳は疑っている。そのような方法があると知ったなら、明野領の次席家老が己の策略に利用するのではないかと警戒している。
もっとも玄徳は事情を知らないのだから、そう考えてしまうのも無理はない。だったら事情を知ってもらおうではないか。先ほどこの医師は「その方法を知ったなら、どのように使う気か」と問うた。「そんな方法は聞いたことも見たこともない」とは言わなかった。
事の次第を明かすということはすなわち、三年と少し前の前藩主暗殺事件が明野領の手によるものだと告げることだ。あまりに明け透けにすべてを語ったので、最初に慈円和尚が驚いた顔をした。影衆の元最年長――雅勝によく似た人間が本人であったというくだりでは雅道がぎょっとして腰を浮かしかけて、雅勝に妻子がいることだけは最後まで伏せたので、語り終わる頃には菊乃が複雑そうな顔をしていた。
忠雅の語りを聞きながら、壮年の医師の顔はどんどん渋いものへと変わって行く。それはそうだろう。今、忠雅が語ったのは、君水藩の政の闇だ。公儀に知られたならお家取り潰しもある深い闇をすべて語った次席家老に対し、医師は重たい口を開いた。
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