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第二部3
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動揺のあまり忠雅が手を伸ばしてしまったのがまずかったらしい。おるいの腕の中で、幼子はまともに号泣した。小春日和の秋空を突き抜ける清々しいくらいの大泣きだった。
「ごめんなさい、最近、人見知りが激しくて」
困り顔でおるいは謝ったが、幼子にしてみれば知らない男がいきなり手を伸ばしてきたのだから、怖いと思うのが当然だ。その件については全面的にこちらが悪い。それに母親に縋りついて大泣きしている幼子――おゆいの姿に、密かに安堵したのも事実だった。
我が身の経験則から、泣いても助けが来ないと知っている子どもは泣くことを諦めてしまう。大声で泣くことができる子どもは幸せなのだ。――守ってくれる腕がある。
母娘二人暮らしだという家は、外からは粗末に見えたが、中に入ってみると掃除の行き届いたこざっぱりとした空間だった。土間があって囲炉裏があって、小さな文机の上の白木の位牌の横に、湯呑に入った野の花が供えてある。大泣きの後、すとんと寝入ってしまった子どもに上掛けをかけてやって、おるいは忠雅に熱い茶を淹れてくれた。
「……しかし、よく似てるな」
「はい。生まれた時から似てたんですけど、育てば育つほど父親に似てきて。最近、わたしもこの子見てると、わたしの血はどこに行ったんだろうと思ったりします」
我が子の髪を撫でる手つきは優しい。完全に母親のものだ。忠雅はふと幸薄かった自分の母親――台所付女中の身で次席家老の寵愛を受け、子を産んでわずか数年で亡くなった女性のことを思いだした。
先ほどは動揺しまくってあらぬことを口走ってしまったが、ようやく落ち着いて、おるいの今の生活について尋ねてみる余裕ができた。父親が再婚したので実家を出たが、里長である父とも再婚相手との関係も良好で、しょっちゅう行き来をしている。薬草を育てたり、里の子達に手習いを教えたりして、かつかつながらも暮らして行けていると聞いて、心の底から安堵した。
「あいつは……雅勝は子どものことを知っていたのか?」
「いえ、わたしもあの時にはまだ、お腹にこの子がいることに気づいてなかったので……」
妹が生まれた時に半ば親のように育てたとかで、やたらと子ども好きな男だった。好いた女が生んでくれた自分によく似た女の子など、それこそ目の中に入れて可愛がったことだろう。おるいの中に赤子がいると知っていたならば、石にかじりついてでも生き延びようとしたかもしれない。
もちろん、忠雅が考えることなど、おるいはとうの昔に何度も考えたはずだ。唇の端に浮かべた笑みに苦いものが混ざる。
「もう少し早くに気づいてたら……だけど、わたし、この子がいなかったらこれまで生きて来られませんでした」
その切はお世話になりましたと言って、手を付いて頭を下げる。おるいが実家に帰る時、忠雅は当時まだ影衆だった雅道を護衛につけて、出せる範囲内で精一杯の金も持たせた。その時のことを言っているらしい。
予想外の展開が過ぎて、どうも思考が追い付いていない。冷静になれ……と自らに言い聞かせ、いささか温くなった茶を飲み干した。できるだけ日持ちのするものをと思って麓の街でせんべいを買って手土産にしたのだが、子どもがいるのなら大福など甘い物の方がよかったかもしれない。
「いや、大福とせんべいはどっちでもいいんだけどさ」
「え?」
「あ、いや、何でもない。あのさ、おるい、俺が今日ここに来た理由を話す前に、聞いておかないとならないことがある」
「はい、何でしょう?」
「えっと……その、もしかして、いるか?……所帯を持つ予定の男とか」
今ここですやすやと眠っている幼子は雅勝の子だ。干してある洗濯物の中に男物はないし、居間と恐らくもう一間あるのだろう家の中には、見たところ男の気配はない。といっても彼女はまだ若くて美しい。子どもがいても妻にしたいと望む男はいるだろう。もしも誰かいるのであれば、何も言わずに立ち去ろうと心に誓う。
忠雅の言葉がおるいに届くまでしばしの間があった。忠雅がおるいと親しく係ったのは短い時間だったが、彼女が聡い人間であることは承知している。案の定、つっかえひっかえの拙い言葉だけで、おるいは忠雅の意を正確に悟ってくれたようだった。飲みかけの湯呑を床に置き、しっかりとこちらの目を見据えてくる。
「いいえ、清水様。――わたしはずっと、雅勝殿一人の妻です」
想う女に出家され、手が届かなくなってしまった身としては、正直、本気で羨ましかった。還俗という、これまで何度か考えた言葉が脳裏に浮かび上がる。一度仏門に入ったものが俗世に戻ることは、あまり実例はないがまったくありえない話ではない、
いや今は、忠雅と菊乃のことはひとまず脇に置いておこう。おるいの答を聞いて、忠雅はこれまであったことを出来るだけ簡潔に、個人的感情を除いて冷静に語った。
忠雅自身が確信を持てずにいる以上、おるいに安易に希望を持たせたくはない。一応これでも明野領の次席家老なので、事の次第をうまくまとめることはできたと思う。それに改めて起こった事のみを羅列することによって、忠雅自身の頭も冷静になって、かなり整理されたのも事実だった。
真剣な表情で忠雅の話をすべて聞き終えて、おるいは自身で淹れた茶を一口すすった。
「なりゆき……と。その方は、そう名乗っておられるのですね?」
「ああ。それが何か?」
「……いえ、何でもありません」
飲みかけの湯呑を床に置き、おるいはふるふると首を振る。
「わかりました。わたし、明野領に行きます。まずはその方にお会いしてみます。もし少しでもあの人が生きている可能性があるのなら……わたし、この子に父親の顔を見せてやりたい」
そう言っておるいが見やった先では、上掛けからはみだした拳を握りしめ、この世の幸せを体現したようなであどけない顔をして、彼女の子どもが眠っている。
文机の上の塵一つない位牌と花を思う。実際に目で見ずとも、朝晩あの前で手を合わせている母娘の姿が目に見えるような気がした。ここはあいつの家だ。例え当の本人が一度も暮らしたことがなく、存在すら知らなかったとしても。妻と子がここにいるのだから。
もしわずかでも可能性があるのなら、この場所に帰してやりたい。そしてどのような結果になったとしても、その上で真剣に考えよう。他でもない、忠雅自身の今後のことを。それはずっと抱き続けてきた菊乃への想いに、何らかの形でケリをつけるというとでもある。
――この三年間で初めて、そう思った。
「ごめんなさい、最近、人見知りが激しくて」
困り顔でおるいは謝ったが、幼子にしてみれば知らない男がいきなり手を伸ばしてきたのだから、怖いと思うのが当然だ。その件については全面的にこちらが悪い。それに母親に縋りついて大泣きしている幼子――おゆいの姿に、密かに安堵したのも事実だった。
我が身の経験則から、泣いても助けが来ないと知っている子どもは泣くことを諦めてしまう。大声で泣くことができる子どもは幸せなのだ。――守ってくれる腕がある。
母娘二人暮らしだという家は、外からは粗末に見えたが、中に入ってみると掃除の行き届いたこざっぱりとした空間だった。土間があって囲炉裏があって、小さな文机の上の白木の位牌の横に、湯呑に入った野の花が供えてある。大泣きの後、すとんと寝入ってしまった子どもに上掛けをかけてやって、おるいは忠雅に熱い茶を淹れてくれた。
「……しかし、よく似てるな」
「はい。生まれた時から似てたんですけど、育てば育つほど父親に似てきて。最近、わたしもこの子見てると、わたしの血はどこに行ったんだろうと思ったりします」
我が子の髪を撫でる手つきは優しい。完全に母親のものだ。忠雅はふと幸薄かった自分の母親――台所付女中の身で次席家老の寵愛を受け、子を産んでわずか数年で亡くなった女性のことを思いだした。
先ほどは動揺しまくってあらぬことを口走ってしまったが、ようやく落ち着いて、おるいの今の生活について尋ねてみる余裕ができた。父親が再婚したので実家を出たが、里長である父とも再婚相手との関係も良好で、しょっちゅう行き来をしている。薬草を育てたり、里の子達に手習いを教えたりして、かつかつながらも暮らして行けていると聞いて、心の底から安堵した。
「あいつは……雅勝は子どものことを知っていたのか?」
「いえ、わたしもあの時にはまだ、お腹にこの子がいることに気づいてなかったので……」
妹が生まれた時に半ば親のように育てたとかで、やたらと子ども好きな男だった。好いた女が生んでくれた自分によく似た女の子など、それこそ目の中に入れて可愛がったことだろう。おるいの中に赤子がいると知っていたならば、石にかじりついてでも生き延びようとしたかもしれない。
もちろん、忠雅が考えることなど、おるいはとうの昔に何度も考えたはずだ。唇の端に浮かべた笑みに苦いものが混ざる。
「もう少し早くに気づいてたら……だけど、わたし、この子がいなかったらこれまで生きて来られませんでした」
その切はお世話になりましたと言って、手を付いて頭を下げる。おるいが実家に帰る時、忠雅は当時まだ影衆だった雅道を護衛につけて、出せる範囲内で精一杯の金も持たせた。その時のことを言っているらしい。
予想外の展開が過ぎて、どうも思考が追い付いていない。冷静になれ……と自らに言い聞かせ、いささか温くなった茶を飲み干した。できるだけ日持ちのするものをと思って麓の街でせんべいを買って手土産にしたのだが、子どもがいるのなら大福など甘い物の方がよかったかもしれない。
「いや、大福とせんべいはどっちでもいいんだけどさ」
「え?」
「あ、いや、何でもない。あのさ、おるい、俺が今日ここに来た理由を話す前に、聞いておかないとならないことがある」
「はい、何でしょう?」
「えっと……その、もしかして、いるか?……所帯を持つ予定の男とか」
今ここですやすやと眠っている幼子は雅勝の子だ。干してある洗濯物の中に男物はないし、居間と恐らくもう一間あるのだろう家の中には、見たところ男の気配はない。といっても彼女はまだ若くて美しい。子どもがいても妻にしたいと望む男はいるだろう。もしも誰かいるのであれば、何も言わずに立ち去ろうと心に誓う。
忠雅の言葉がおるいに届くまでしばしの間があった。忠雅がおるいと親しく係ったのは短い時間だったが、彼女が聡い人間であることは承知している。案の定、つっかえひっかえの拙い言葉だけで、おるいは忠雅の意を正確に悟ってくれたようだった。飲みかけの湯呑を床に置き、しっかりとこちらの目を見据えてくる。
「いいえ、清水様。――わたしはずっと、雅勝殿一人の妻です」
想う女に出家され、手が届かなくなってしまった身としては、正直、本気で羨ましかった。還俗という、これまで何度か考えた言葉が脳裏に浮かび上がる。一度仏門に入ったものが俗世に戻ることは、あまり実例はないがまったくありえない話ではない、
いや今は、忠雅と菊乃のことはひとまず脇に置いておこう。おるいの答を聞いて、忠雅はこれまであったことを出来るだけ簡潔に、個人的感情を除いて冷静に語った。
忠雅自身が確信を持てずにいる以上、おるいに安易に希望を持たせたくはない。一応これでも明野領の次席家老なので、事の次第をうまくまとめることはできたと思う。それに改めて起こった事のみを羅列することによって、忠雅自身の頭も冷静になって、かなり整理されたのも事実だった。
真剣な表情で忠雅の話をすべて聞き終えて、おるいは自身で淹れた茶を一口すすった。
「なりゆき……と。その方は、そう名乗っておられるのですね?」
「ああ。それが何か?」
「……いえ、何でもありません」
飲みかけの湯呑を床に置き、おるいはふるふると首を振る。
「わかりました。わたし、明野領に行きます。まずはその方にお会いしてみます。もし少しでもあの人が生きている可能性があるのなら……わたし、この子に父親の顔を見せてやりたい」
そう言っておるいが見やった先では、上掛けからはみだした拳を握りしめ、この世の幸せを体現したようなであどけない顔をして、彼女の子どもが眠っている。
文机の上の塵一つない位牌と花を思う。実際に目で見ずとも、朝晩あの前で手を合わせている母娘の姿が目に見えるような気がした。ここはあいつの家だ。例え当の本人が一度も暮らしたことがなく、存在すら知らなかったとしても。妻と子がここにいるのだから。
もしわずかでも可能性があるのなら、この場所に帰してやりたい。そしてどのような結果になったとしても、その上で真剣に考えよう。他でもない、忠雅自身の今後のことを。それはずっと抱き続けてきた菊乃への想いに、何らかの形でケリをつけるというとでもある。
――この三年間で初めて、そう思った。
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