茜さす

横山美香

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第二部2

2-3

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 飯野家は明野領五代家老家の一つであり、他の家同様、本領に本家がある。
 明野領の飯野家は五大家老の序列三位の家柄だが、本領の飯野家は過去に次席家老や筆頭家老も輩出している家柄だ。そして何より重要なのは――明野領で清水家が影衆を管理しているように、本領の葉隠衆を管理している。本領から明野領にやってきた人物は、その飯野家の三男坊だと名乗った。
「継ぐべき地位も家督もない気楽な部屋住みでござる」
 と、本人は快活に笑ったが、相対する忠雅はとても冷静ではいられなかった。間近で見ると若い武士の姿形は瓜二つと言っていいほど雅勝によく似ているし、話すと声色まで似ている。明野領の飯野邸に滞在するというので、簡単な自己紹介と今後の段取りを話し合った後、一緒に陣屋を出た。清水の邸と飯野の邸は同じ方角なので、明野領は初めてだという若者に道案内をするという名分もある。
 陣屋の南門から街へと続く道は、両脇を武家屋敷の塀に囲まれている。道幅はそれなりにあるのだが、塀の上から松の枝がせり出していて、見晴らしはあまりよくない。
 一緒に道を歩いてみて、この若者が明野領に土地勘がないことはすぐにわかった。何しろちょうど鳴り始めた法勝寺の鐘の音に「ずいぶん近くに寺があるのですな」と驚いていたのだから。むろん嘘をついて演技しているという可能性もなくはないが、わざわざ明野領で素顔を晒して忠雅と対面して、初対面を装う必要などないだろう。この若者があの日、医院を襲撃した刺客である可能性はかなり高いが、やはり雅勝とは他人の空似と考えていいのではないだろうか。
 動揺を押し隠しながら必死に相手を観察して、忠雅は人とは顔形や体型だけでなく、何気ない仕草や喋り方――そこに紐づく思い出から成り立っているのだと知った。確かに姿形はそっくりなのだが、行動や言葉の選び方、歩き方に至るまで、若者には忠雅の友を思い起こさせるところは何もない。
 もっともこれだけ似ているのだから、調べてみれば母方の従兄弟とか、父方の遠縁とか――あるいは生き別れになった双子の兄弟とか、きっと血縁ではあるのだろう。別人だと確信が持てたのだから、今、考えるべきことは別のことだ。影衆が殺されることは珍しくもなんともないが、何故今、誰が何の目的で雅規を斬り殺したのか。そして敢えてこの若者を明野領に差し向けてきた本領の真の目的は何なのか。
 まだ日中はかなり暑いが、日が暮れるのは明らかに早くなった。東の空に青空を残したまま、西の空から急速に黄昏が広がりつつある。どこかで烏の鳴く声がして、法勝寺の手習い所の子ども達だろうか、子ども達の甲高い声も聞こえる。今日は菊松尼のいる日ではないはずだが、そういえば最近、法勝寺に顔を出していなかった。
 法勝寺には慈円和尚がいる。もし慈円和尚にこの若者を合わせたなら、和尚は何というだろうか……と思いつつ、忠雅は隣を行く若者に向き合った。
「飯野殿は医師の庄野玄徳殿をご存知か?」
「いや、存じ上げぬが……その御仁が何か?」
「……以前、玄徳殿の医院の近くで飯野殿をお見受けしたことがあったような気がするのだが」
 反応を見る為にあえて直截的に問いただした忠雅に対し、若者は破顔した。
「この顔はよくある顔だと言われるのでな。他人の空似ではござらぬか」
 深読みすればものすごく深読みできる科白である。しかし雅勝、この若者、そしてあの夜の襲撃者とそうそう似た顔の男が君水藩に何人もいるものだろうか。もっとも襲撃者については一瞬のことで、刀のことがあって動揺していたし、しかも月明かりの下だったので、絶対かと問われれば自信はないのだが。
 さてこの先はどう攻めようかと忠雅が密かに思案した時、武家屋敷の石塀の向こうから七歳くらいの子どもが飛び出してきた。手習い所の帰りなのだろう、町家の子どもの恰好をしていて手習い張をぶら下げている。よく前を見ずに走って来たらしく、かなりの勢いで忠雅の足にぶつかって、その場に転んでしまった。
 元気な子どもにはよくあることだし、忠雅の側にはそれほど衝撃はなかった。怪我はないか、気を付けろ……と言って助け起こそうとした時、一緒にいた若者が子どもに向かって刀を抜いたので、忠雅の背筋が総毛だった。
「――おい、お前、何やってんだよ!」
 斬り捨て御免という言葉がある。
 武士には町人や百姓を無礼討ちにする特権が与えられてはいるのだが、実際にその特権を使用する武士はほとんどいなかった。むしろ街中で騒ぎを起こせば武士の側が白い眼で見られるし、明野領では先代領主・武智雅久が武士は町人や百姓をむやみに傷つけてはならないと常々言っていたので、忠雅は無礼討ちの実例を見たことがなかった
 いきなり目前で刀を抜かれ、震えて固まったしまった子どもの前に身を滑らせて、忠雅も刀の鯉口を切る。肩越しに振り返って「逃げろ!」と叫ぶと、ほとんど四つん這いになって来た道を引き返し始めた。途中から立ち上がって駆け出したので、どうやら怪我はないらしい。忠雅がほっと息を吐き出すと、抜いた刀を鞘に仕舞って、若者――飯野成之は本気で不思議そうな顔をしていた。
「清水殿、何故止め立てする?」
「俺たちが刀を持ってるのは、弱い者を守る為だろうが!むやみやたらに振り回してどうするんだよ!」
 武智行久といい、この若者といい。刀を抜くことの意味を軽く考えすぎではないだろうか。
 包丁は魚や大根を切る。鋏ならば布を裁つことも紙を切ることもできよう。しかし刀は人を斬ることしかできない。剣術とはすなわち人殺しの術だ。だからこそ刀を持つ人間は誰より厳しく己を律さなければならない。刀を持たない市井の人間がぶつかったくらいで相手を傷つけるなど、もっての他である。
 しばらく無言で見合った後、不意に若者は激しく顔を歪めた。掌を口元に押し当てたかと思うと、ぐらりと身体を傾けたので、これには忠雅も動揺した。若者の手から持っていた風呂敷包みが落ちる。死んだ友とよく似た男は、すぐ側の壁に掌を押し当て、身体を二つ折りにして呻いていた。
「……飯野殿?どうした、どこか悪いのか?」
 今日知り合ったばかりの得体の知れない相手だが、さすがにいきなり目の前で倒れられては無視もできない。異常なくらい目が血走って、先ほどまで正常だった呼吸が上がっている。駆け寄って、よく鍛えられた逞しい背に手を当てた時、不意に過去の記憶が呼び起こされた。
 あれは一緒に暮らしだして半年くらい経った頃だっただろうか。夜更けに突然、雅勝が激しい腹痛に襲われたことがあった。食べものに当たったような症状だったが、同居して同じものを食べていた忠雅がまったく平気だったので、原因は不明だ。胃の中に吐くものがなくなっても吐き続け、寝間着の襟を掴んでのた打ち回っている同輩を見ていられず、忠雅は夜明けと同時に御見の方のところに走った。
 薬草を分けてもらって、教えられた通りに温石で温め、湯冷ましを用意し、苦しんでいる背中をさすってやりながら、当時十四歳の忠雅も心細くて泣きたくなった。忠雅には家族がない。四歳の時に亡くした実母の記憶は朧で、父親は存命だが一片の情もない。清水の邸の片隅で、兄達に殴られたり蹴られたり――時に口にも出したくないようなおぞましいことされながら、かろうじて生き永らえてきた。一人前の影衆と認められ、雅勝と暮らすようになって初めて知ったのだ。誰かのいる家に帰る暖かさも、誰かと共に食べる飯の美味しさも。
 ――失いたくない。失くしたくない。また元気になって自分と一緒に笑って欲しい。
 この世にたった一人で取り残される気がして、半分泣きながら、必死で看病した。忠雅は割と季節の変わり目に熱が出やすい体質なので何度か面倒をかけたが、今思えば、影衆の御役目以外で、雅勝が純粋に体調を崩したのはあの一度だけのことだ。幸い、数日で症状が治まり、五日もすれば普通に飯が食えるようになって大事には至らなかったのだが、今、目の前の男の背に触れた瞬間、急にあの時の記憶が鮮やかによみがえった。
 一度は他人だと確信した。雅勝が飛び出してきた子ども相手に刀を抜くなどありえないので、行動に友を思い起こさせるところは何もない。だけど実際に触れてみて、過去に、この背を同じようにさすったことがあったように思えてならない。
 ――あんた、一体誰なんだ……?
 死んだはずの友によく似た風貌。隠密の技。そして突然の体調不良。
 人を呼んで来ようか。それとも医者を連れて来た方がいいだろうか。途方に暮れて空を仰いだ忠雅の視線の先で、夕暮れが急速に広がり始めていた。燃えながら沈んで行く太陽を起点に、そこからじわじわと広がる赤は、人の身体から流れる血の色ととてもよく似ていた。
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