茜さす

横山美香

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第二部2

2-1

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「――その刺客は、そんなに雅勝様に似ていたのですか?」
 明野領に帰ってすぐに、清水の邸から西に半里ほど行ったところにある保月庵を訪れた。
 保月庵の主は菊松尼――かつて忠雅の許嫁であった菊乃である。忠雅が彼女との婚約を破棄して間もなく、菊乃は自らの意思で髪を下ろした。五大家老家の姫が親や兄の許可を得ずに出家するなど前代未聞で、認められない可能性もあったのだが、当時まだ正室であった御見の方は菊乃の意を汲んでくれた。佐竹家の菩提寺の敷地にあった庵を保月庵とし、近隣の女の子達に裁縫や茶の湯教えたり、最近では法勝寺に出向いて行って手習いの師匠をしたりしている。何度かこっそり覗いてみたのだが、なかなか厳しくて恐ろしいお師匠様だった。
 忠雅が訪ねて行くと、菊松尼はいつも手ずから茶を立ててもてなしてくれる。無二の友であった雅勝はもういない。ずっと後ろ盾となってくれた御見の方も陣屋にいない今、保月庵で菊松尼と語り合う時間だけが、忠雅にとって唯一息を吐ける時間だった。
「一瞬だったんで、確かかと言われると自信はないんだけどさ。でもあの時はそっくりに見えたんだよな……」
 菊松尼に立ててもらった茶を飲んで、忠雅はあの夜のことを思い出していた。駆けつけた雅道から闖入者の位置は逆光になっていてよく見えなかったと言う。あの時、あの姿を見たのは忠雅だけだった。
 あの闖入者が何の目的で、あの夜、医院にやってきたのか。目的が忠雅――君水藩明野領次席家老の命だったのならば、何故あの夜、忠雅があそこにいることを知っていたのか。本来ならばそちらこそ気にしなければならないのだが、どうしても襲撃者の正体が気になってならない。
「雅勝様が生きていらっしゃった……ということはないのですか?」
「その可能性は……ないだろうなあ。それに、あいつは元々本領の出だからさ。顔かたちのよく似た従兄弟とか親戚とかがいたとしても、そう不思議な話ではないんだ」
 男の顔立ちは月代のあるなしで印象が変わる。三年もたてば身体つきも多少変わるだろう。しかしもし本当に雅勝であったならば、忠雅と打ち合ってあれほど平静にいられるだろうか。忠雅にとって奴が友であったように、雅勝にとっても忠雅は友だったはずだ。これまでの長い付き合いを考えるとありえそうもない気がする。
 正直、あれが雅勝かどうかを確かめるだけならば、身体を見れば絶対にわかる。何度も一緒に湯に入ったし、井戸端で並んで身体を洗ったこともあるので、奴の身体に刻まれた傷はすべて覚えている。特に十三の歳に本領の隠密に斬られた肩の傷は特徴的なので、間違いようもない。ただどこの誰とも知れない謎の襲撃者と、仲良く風呂に入る場面を作るのは、殺し合うよりはるかに難しいだろう。
「もしもお確かめになりたいのなら」
「菊乃殿?」
「おるいさんなら、お顔を見ただけで雅勝様かどうかわかりますよ」
 おるいは、雅勝と夫婦になるはずだった娘だ。互いに慕い合い深く想い合っていた。本祝言の場所も新居も決まっていたので、あんなことがなければ今頃は所帯を持って、子どものひとりでも生まれていたかもしれない。その直前で雅勝が死ななければならなくなり、おるいの未来も心も同時に壊れた。毒を呑んで自害をはかったおるいは御見の方の手で、実家である本領の忍び里に戻された。その後彼女がどのように暮らしているのか、気になりながらもずっと、確かめてみることができずにいた。
「……そういうものか?」
「ええ、女ならばわかります。わたくしも、何年たって、忠雅様のお姿がどのように変わったとしても、お顔を見れば絶対に忠雅様とわかりますから」
「それは……」
 尼姿の元許嫁にあっさり言い切られて、二の句が継げなかった。
 忠雅と菊乃は同じ年齢で、共に十六の歳に許嫁となった。その後何度か祝言を挙げる機会はあったのだが、忠雅が乗り気になれずに伸び伸びとしていて、三年前、菊乃が髪を下ろしたことで夫婦になる道は完全に途絶えた。
 仮祝言を上げ、既に夫婦の契りも交わしていた――事実上夫婦だった雅勝とおるいならばともかく、忠雅と菊乃はただの許嫁だった。手を握ったこともなければ、唇を重ねたことも、無論、褥を共にしたこともない。許嫁でなくなった今は次席家老と尼僧――否、茶飲み友達といったところか。それでもあなたは、俺がどんな姿になってもわかると断言できるのか。
 喉元まで浮かんだ言葉を茶と一緒に飲み下す。忠雅は清水家に唯一残された男子である。既に二十歳を過ぎ、本来ならば妻を娶って子をなさなければならないのだが、今なお独り身で縁談はことごとく断ってきた。武家の婚姻とは家同士の都合で決まるものであって、本人同士の心情を斟酌しない。だが嫁いできた妻を慈しめる気がまったくしない今の心境で妻帯するのは、相手にとって失礼だろう。無二の友から奪い取った幸せを自分自身に許すことができないという思いはもちろん、忠雅の心が完全にただ一人に向いている為だ。
 尼姿の菊乃の横顔をそっと盗み見る。
 化粧気もなければ艶やかな着物も着ていないのに、可憐な花のような風情に変わりはない。それどころか御仏に仕える質素な法衣姿に、あの頃にはなかった色香を感じてしまうのは、やはり罪深いことだろう。
 忠雅さえその気になれば、とうの昔に夫婦になっていたはずの相手だった。散々待たせたあげくにこちらから婚約を破棄した。完全に自業自得で、もう手が届かない相手に、まさか言えるはずもない。
 ――あの頃よりずっと、あなたを慕っているなどということは。
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