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番外編
星降里 4-3
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嫁の来てのない息子のことをたいそう案じていたらしい。熊吉が妻を連れて故郷に帰ると、父は当の息子が一瞬引いてしまうほど歓喜した。大喜びしてからわずか数か月で、風邪をこじらせあっさりあの世に行ってしまったので、我が親ながらなかなか浮き沈みの激しい最期であったと今でも感心している。
そんな父の最期を舞は身重の身体でかいがいしく看取ってくれた。明野領とは気候も環境も何もかもが違い、心労と負担も大きかっただろうに、新頭領の妻として申し分なく立ち働いて――やがて月満ちて赤子を産んだ。
生まれる子が筆頭家老に似た男児であったら慈しめるのだろうか。考えなかったといえば嘘になる。しかし実際に生まれたのは、妻にとても良く似た女の子だった。産婆に生まれたまれたばかりの赤子を渡された時、あまりの可愛らしさに、熊吉は男泣きに泣いた。しかもよく寝て、泣いて、笑って、しゃべって、立って歩いて、育てば育つほどにどんどん可愛くなって行く。里のおかみさん達に「熊吉さんがそんなに親ばかだと、おるいちゃんが将来お嫁に行けるか心配だわ」と笑われながら、熊吉は間違いなく幸せだった。そうして一年、二年、三年が経ち、四年目を迎えた時、熊吉の子を身ごもった舞は三日三晩苦しんだあげくに男児を死産して、自分も一緒にあの世に行った。最期は己の命が保たないと悟っていたのだろう。苦しい息の下で熊吉の手を握り、息が絶える寸前までるいのことを気にかけていた。
「……あなた、お願い。るいを、あの子をどうかよろしくお願いします」
温もりを失くした妻の手を握り返して、大丈夫だ、るいはおれが絶対守ると誓ってから、もう随分の年月が流れた。
舞は今、里の北側にある墓地で、死んだ赤子と一緒に眠っている。何度もるいと一緒に墓参りに行って、るいが小さな手を合わせ、山で積んだ花を供えている脇で色々なことを話した。女の子は口が達者と言うが、るいの場合は達者過ぎて手に負えん。何しろこの年齢でもう父親を言い負かすんだからな……とか、一丁前に飯の支度をするようになったんだ。るいの作る飯はお前と同じくらい美味いぞ……などと口には出さずに語っている時、返事はなくとも確かに妻に届いているような気がした。墓地を吹き抜ける風の音と葉擦れの音の向こうに妻の声を思い浮かべる時間は、熊吉にとって何にも代えられない貴重な一時だった。
何度も語り掛けて、返事はなくとも語り合った妻。共に過ごした時間は幸せだったと胸を張って言える。だが熊吉には未だに、どうしても彼女に向かって問うことができない問いかけがあった。
――おれはおまえを逃がしてやることはできた。それでおれは幸せだったけど、なあ、おまえは幸せだったか?
その一言が今も妻に聞けないままでいる。
――父親の目の届く範囲で手は繋がない。
るいはともかく、あの若者はそれくらいの常識はわきまえている。ただ現役の隠密である彼も忍び里の長である熊吉が、一般的な中年男性よりかなり目が良いということは、この短い時間では見抜けなかったらしい。
仮祝言の翌朝、肩を並べて手を取り合って、二人で去って行く娘夫婦の背を見送りながら、熊吉は今、親としての自分の役割が終わったことを明確に悟っていた。
――子どもはいつまでも親の手の内にいない。
それは至極当然のことであり、親の側にしても自分は必ず先に死ぬのだから、いつまでも親が守ってやらないと生きて行けない子どもままでいられては困る。
幼いうちに母親を亡くし、随分と寂しい思いをしたはずだが、よくぞ曲がらずに育ってくれたものだ。三年前、熊吉がすべての真実を包み隠さず伝えた時、さぞ辛くて苦しかっただろうに、決して熊吉以外の人間には、その苦しみを見せようとはしなかった。
妻が逝ってしまってから、ずっと二人だけの家族として過ごして来た。娘の辛苦が手に取るようにわかるからこそ、素っ気ない態度や冷たい物言いにも耐えられた。母親代わりに育ててくれた女性達に心配をかけまいと、必死に自分自身を取り繕う姿を見て、痛ましさよりよりも誇らしさを感じていた。
この先、誰よりも近くでるいを守るのは親ではなくあの若者だ。そして多分、あの若者が他の誰よりも切実に、るいを必要としているのではないだろうか。
親として真に娘の幸せを思うのであれば、あの男だけはやめておけと言うべきなのかもしれない。恐らく、るいの父である熊吉が一言「許さぬ」と言えば、あの若者――樋口雅勝は黙って身を引いただろう。四十の歳を越え、生きることの年季を積んだ熊吉には、若者の双眸に宿った諦念が見て取れた。
あの若さで諦念を知ってしまった男が、それでも諦め切れずに手を伸ばしたのであれば、よほどの覚悟と決意だろう。そしてるいもそのことには気がついている。熊吉は娘の芯の強さはよく知っている。あの娘が何もかも承知の上で男の手を取ったのであれば、熊吉が何と言ってもるいは若者から離れはしないだろう。
だとしたらこれからの熊吉の役目は、若い二人を少し離れたところから見守ることだけだ。それがどれほど寂しくもどかしく感じようとも、見守る以上のことをしてはならないのだと固く心に誓う。
もちろん、熊吉だってまだ人生を諦めるつもりは毛頭ない。大平の世が訪れ、忍びの里に忍び仕事を頼む人間はこの先はもういないだろう。滅び行く里の新たな存続方法を何としても見つけるつもりだし、そしてこれから生まれてくるであろう小さく可愛い存在を膝に抱き「じいじ」と呼ばれてみたい。
「……舞、お前もおれと一緒にるいを見守ってくれよ」
――きっと大丈夫だ。何しろ、おれとおまえの娘だからな。なあに、闇の中にいる男を陽の下に引きずり出して、その隣で自分もちゃっかり幸せになってくれるさ。
先程から初夏の朝空に、二羽の鳶が飛び交っている。時折、嘴を擦り寄せ、羽を重ねあわせているように見えるのは――つがいだろうか。
今、彼岸の彼方にいる妻は答えない。ただ晴れやかな笑顔だけがいつまでも眼裏に残っていた。
そんな父の最期を舞は身重の身体でかいがいしく看取ってくれた。明野領とは気候も環境も何もかもが違い、心労と負担も大きかっただろうに、新頭領の妻として申し分なく立ち働いて――やがて月満ちて赤子を産んだ。
生まれる子が筆頭家老に似た男児であったら慈しめるのだろうか。考えなかったといえば嘘になる。しかし実際に生まれたのは、妻にとても良く似た女の子だった。産婆に生まれたまれたばかりの赤子を渡された時、あまりの可愛らしさに、熊吉は男泣きに泣いた。しかもよく寝て、泣いて、笑って、しゃべって、立って歩いて、育てば育つほどにどんどん可愛くなって行く。里のおかみさん達に「熊吉さんがそんなに親ばかだと、おるいちゃんが将来お嫁に行けるか心配だわ」と笑われながら、熊吉は間違いなく幸せだった。そうして一年、二年、三年が経ち、四年目を迎えた時、熊吉の子を身ごもった舞は三日三晩苦しんだあげくに男児を死産して、自分も一緒にあの世に行った。最期は己の命が保たないと悟っていたのだろう。苦しい息の下で熊吉の手を握り、息が絶える寸前までるいのことを気にかけていた。
「……あなた、お願い。るいを、あの子をどうかよろしくお願いします」
温もりを失くした妻の手を握り返して、大丈夫だ、るいはおれが絶対守ると誓ってから、もう随分の年月が流れた。
舞は今、里の北側にある墓地で、死んだ赤子と一緒に眠っている。何度もるいと一緒に墓参りに行って、るいが小さな手を合わせ、山で積んだ花を供えている脇で色々なことを話した。女の子は口が達者と言うが、るいの場合は達者過ぎて手に負えん。何しろこの年齢でもう父親を言い負かすんだからな……とか、一丁前に飯の支度をするようになったんだ。るいの作る飯はお前と同じくらい美味いぞ……などと口には出さずに語っている時、返事はなくとも確かに妻に届いているような気がした。墓地を吹き抜ける風の音と葉擦れの音の向こうに妻の声を思い浮かべる時間は、熊吉にとって何にも代えられない貴重な一時だった。
何度も語り掛けて、返事はなくとも語り合った妻。共に過ごした時間は幸せだったと胸を張って言える。だが熊吉には未だに、どうしても彼女に向かって問うことができない問いかけがあった。
――おれはおまえを逃がしてやることはできた。それでおれは幸せだったけど、なあ、おまえは幸せだったか?
その一言が今も妻に聞けないままでいる。
――父親の目の届く範囲で手は繋がない。
るいはともかく、あの若者はそれくらいの常識はわきまえている。ただ現役の隠密である彼も忍び里の長である熊吉が、一般的な中年男性よりかなり目が良いということは、この短い時間では見抜けなかったらしい。
仮祝言の翌朝、肩を並べて手を取り合って、二人で去って行く娘夫婦の背を見送りながら、熊吉は今、親としての自分の役割が終わったことを明確に悟っていた。
――子どもはいつまでも親の手の内にいない。
それは至極当然のことであり、親の側にしても自分は必ず先に死ぬのだから、いつまでも親が守ってやらないと生きて行けない子どもままでいられては困る。
幼いうちに母親を亡くし、随分と寂しい思いをしたはずだが、よくぞ曲がらずに育ってくれたものだ。三年前、熊吉がすべての真実を包み隠さず伝えた時、さぞ辛くて苦しかっただろうに、決して熊吉以外の人間には、その苦しみを見せようとはしなかった。
妻が逝ってしまってから、ずっと二人だけの家族として過ごして来た。娘の辛苦が手に取るようにわかるからこそ、素っ気ない態度や冷たい物言いにも耐えられた。母親代わりに育ててくれた女性達に心配をかけまいと、必死に自分自身を取り繕う姿を見て、痛ましさよりよりも誇らしさを感じていた。
この先、誰よりも近くでるいを守るのは親ではなくあの若者だ。そして多分、あの若者が他の誰よりも切実に、るいを必要としているのではないだろうか。
親として真に娘の幸せを思うのであれば、あの男だけはやめておけと言うべきなのかもしれない。恐らく、るいの父である熊吉が一言「許さぬ」と言えば、あの若者――樋口雅勝は黙って身を引いただろう。四十の歳を越え、生きることの年季を積んだ熊吉には、若者の双眸に宿った諦念が見て取れた。
あの若さで諦念を知ってしまった男が、それでも諦め切れずに手を伸ばしたのであれば、よほどの覚悟と決意だろう。そしてるいもそのことには気がついている。熊吉は娘の芯の強さはよく知っている。あの娘が何もかも承知の上で男の手を取ったのであれば、熊吉が何と言ってもるいは若者から離れはしないだろう。
だとしたらこれからの熊吉の役目は、若い二人を少し離れたところから見守ることだけだ。それがどれほど寂しくもどかしく感じようとも、見守る以上のことをしてはならないのだと固く心に誓う。
もちろん、熊吉だってまだ人生を諦めるつもりは毛頭ない。大平の世が訪れ、忍びの里に忍び仕事を頼む人間はこの先はもういないだろう。滅び行く里の新たな存続方法を何としても見つけるつもりだし、そしてこれから生まれてくるであろう小さく可愛い存在を膝に抱き「じいじ」と呼ばれてみたい。
「……舞、お前もおれと一緒にるいを見守ってくれよ」
――きっと大丈夫だ。何しろ、おれとおまえの娘だからな。なあに、闇の中にいる男を陽の下に引きずり出して、その隣で自分もちゃっかり幸せになってくれるさ。
先程から初夏の朝空に、二羽の鳶が飛び交っている。時折、嘴を擦り寄せ、羽を重ねあわせているように見えるのは――つがいだろうか。
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