茜さす

横山美香

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番外編

星降里 3-1

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 そこから先は地獄のような日々が待っていた。
 彼女の身にいったい何があったのか。怪我や病で寝込んでいるのではないのか。それとも一回は熊吉の求婚を承諾したけれど、後でゆっくり考えて、熊じみた風貌の忍び里出身の男に嫁ぐ気にはなれないと気が変わったのか。
 本当はすぐにでも確かめに行きたかったのだが、何しろ家の中でさえ這うようにしか動けないので外に出られない。それまで五日に一度くらいは様子を見に来てくれていた友人の広道も、この間はいっこうに訪ねてきてくれなかった。
 これまでちょくちょく来ていた相手が急に来なくなったのだ。熊吉が彼女に振られたと判断した長屋のおかみさん達はいたく同情し、とても親身に世話を焼いてくれた。彼女達の親切にありがたく甘えながら、熊吉は半月あまり悶々と時を過ごした。ようやく傷が癒え、仕事に復帰してすぐに台所に向かった時、そこに舞の姿はなかった。
 台所だけではない。庭の洗濯場にも女中達の暮らす邸の一角にも姿がない。恥を忍んでそれとなく女中頭に舞の行く先を聞いてみたのだが、普段は気風のよい女中頭が言葉を濁すだけで明確な回答をしてくれない。これはもしや病の父親になにかあったのかとも考えたのだが、舞の実家を知らないので行ってみることもできなかった。
 今回はやけに予後が悪かったが、元々頑丈な体はいったん腫れと痛みが引くと、後に障りは残らなかった。歩いても走っても――試しに塀を乗り越えてみても痛みはない。たかだか下男を医者に見せ、動けるようになるまで面倒を見てくれた川口家に対する恩義を感じないではなかったが、正直、好いた女がいないのであればもうこれ以上この土地にいる理由はない。しかしわかっていながらどうしても、熊吉は明野領を発ってしまうことができなかった。
 

 下働きの仕事に復帰して十日あまり経った後、熊吉は勢子として、筆頭家老川口忠道の巻狩りに参加していた。
 巻狩りとは鹿や猪など狩りの獲物を多人数で四方から取り囲み、追い詰めて射止める狩りの手法だ。その昔、戦国の世までは遊興や祭礼や軍事訓練によく行われたらしいが、太平の世になって武家でもあまり行われなくなったという。だが君水藩明野領筆頭家老の川口忠道はこの遊興をいたく好み、家臣や家族を引き連れては、犬脇峠の麓にある狩場で狩りを楽しんでいた。
 季節は初夏に入り、吹く風が寒くもなければ暑くもない心地よい陽気だ。犬脇峠へと続く山には緑が生い茂り、平地の田んぼには水が引かれて、青々とした稲の苗が植わっている。澄んだ空には鳶が飛んでいて、時折、甲高い特有の鳴き声が辺り一帯に響き渡った。
 忍びの山里出身の熊吉は猪や鹿の扱いには慣れている。山の民にとって獣を狩るのは生きることと同義だ。それは田畑と暮らす百姓とて同じだろう。彼らもまた田畑を荒らす害獣として獣を捕えはするが、無論、それは生活の為であって娯楽でも遊興でもない。
 本来の巻狩りは自ら獲物のいる場所に出向いて行って行うものだが、川口家の巻狩りはあらかじめ獲物を捕らえておいて、それらを囲われた場所に離して狩りを楽しむ。はなから獲物達に逃れる術はなく、ろくに餌も与えられず衰弱した猪や鹿が、次々と囲いの内側で矢を射かけられて死んで行く。
 これまで散々、捕えたり捌いたり血抜きしたりしてきたもの達に、まさか同情めいた思いを抱く日が来るとは思わなかった。戯れの狩り――というより野遊びを終え、熊吉が獣を追う時に使った棒や弓を片付けていた時、狩場に設営された陣幕では、川口家の家族と家臣による酒宴が行われていた。
 川口家の正室は既に亡くなっており、現在の家族は主の川口忠道と一男一女の三人のみである。もっとも、駆け落ち中の紫乃姫はこの場にはいない。今いるのは嫡男の成雅君と着飾った三人の側室達――いや、いつの間に増えたのか四人いる。側室の末席に座った若い女の姿を少し離れたところから見て、熊吉は一瞬、我が目を疑った。
 それは熊吉がずっと探し求めていた娘の姿だった。しかし何故、冬場の水仕事も厭わずよく立ち働き、腹を空かせた下男に握り飯や湯漬けを作ってくれた心優しい下働きの娘が、側室の末席になど座っている。
 熊吉が生まれたのは戦乱の世が終わった後だが、十年くらい前まではまだ時折忍びの仕事があったので、己の気配を消して対象を探る術は心得ている。足音を立てずに茂みをかき分けて山肌を登り、本来なら下男が近づくことさえ許されない陣幕の中がよく見えるところまでやって来た時、幕の中から声がした。
「ご家老様、お疲れでございますか。お顔の色がよろしくないようで」
「……そうだな。少し休む。用意はあるか」
 は、と小気味のよい声がして、郎党の一人が陣幕に垂れ下った布をたくし上げると、その向こうに簡素な褥が用意してあった。野遊びに疲れた時の昼寝用か……と熊吉が考えた時、筆頭家老はおもむろに、側室の末席に座っている娘の名を呼んだ。
「――舞、そなたも来い」
 それが何を意味するのか。悟って顔から血の気が引いて行く。
 ――伽をせよと言うのか。昼日中の人が大勢いるこの場所で。
 熊吉も男だ。妓楼で遊女を抱いたこともある。だがここまで悪趣味な趣向は見たことがなかった。昼日中の屋外の人が大勢いる場所で、仮にも人の上に立つ立場の人間が、若い娘を玩ぶ――などということは。
 年若の川口成雅は下を向き、他の側室達も気まずそうに視線をそらしている。それはそうだろう。彼女達にしてみれば下手に咎めだてして目を付けられれば、今度は同じ苦役が我が身に課せられかねない。家臣や郎党達の中にも顔を背ける者はあったが、誰一人として「止めろ」と言う者はいなかった。
「――お許しくださいませ、ご家老様」
 伽を命じられた当の本人が、その場に膝をついて許しを乞うた。額を地面に押し付けた娘を見下ろす男の眼差しは冷たい。拳を握りしめ、何かに耐えるように下を向いている嫡男・成雅の目のほうがまだしも人間らしく見える。この時、君水藩明野領筆頭家老・川口忠道は、己の無体を拒む女を、道端の石塊でも見るような目で見ていた。
「――そなたはそもそも百姓の娘であろう!百姓の娘の分際で、ご家老様を拒む気か!」
 家臣の一人が、地に伏して許しを請う娘の腕を掴んで引き立たてた。顔を上げた娘の顔からは、表情が消え落ちていた。悲しみも、苦しみも、絶望さえも。ありとあらゆる感情が抜け落ちた顔で、舞は褥の敷かれた屏風の向こうへと消えた。
 熊吉の噛みしめた口の中に血の味が広がっている。人には身分の上下がある。特に士分にある者が、百姓や町人にどれほど無体なことを行うか、熊吉も見て来たし知っていた。年貢代わりだと連れ去られた農家の娘がいた。往来で肩が触れたの触れないのという些細なことで武家の怒りを買い、半死半生の目に合された職人も知っている。
 だが何より熊吉を困惑ささせたのは、そうして蔑まされる人達もまた、当然のごとく人を蔑むという事実だった。娘を手籠めにされた両親が女郎上がりの女を汚らわしいと罵って、腕を折られた職人は、鬱憤晴らしだと言って、家のない襤褸をまとった道端の子供達に唾を吐きかけた。
 人は人であるだけでかくも醜い――とやさぐれてしまうには、熊吉も浮世の水を飲み過ぎている。それを言うなら、そもそも忍びの仕事自体が汚れ仕事だ。だが時折、割り切ったはずの思いが胃の腑を逆流して、口の中が苦くなってしまうことがあった。
 今、丸腰の熊吉が飛び出して行ったなら、家臣達はただちに熊吉を狼藉者として斬り捨てるだろう。槍で突かれ、刀で斬られ、襤褸のようになって横たわる己の姿が脳裏に浮かび上がる。しかしさすがに血まみれの闖入者が横たわるその脇で、女を抱く男はいないのではなかろうか。
 そう考えて足を踏み出しかけた時。
「――やめろ、熊吉」
 背後から腕を掴まれた。
「広道、お前どうしてここに……」
 明野領では領主に仕える隠密を影衆と呼ぶ。
 熊吉が広道と初めて出会ったのは、君水藩本領から明野領へ向かう交通の要衝の街・加賀谷でのことだった。当時、加賀谷の妓楼で用心棒の真似事をしていた熊吉は広道と意気投合し、一緒に明野領までやってきた。一見、人あたりのよい若者が明野領の隠密であり、加賀谷には御役目で探索に来ていたことを知ったのは、その道すがらでのことだ。
 過酷な任務の為、二十歳まで生きられないと言われる影衆の中で広道は十八歳まで生き延びて、筆頭家老川口家の姫君と恋に落ちた。今は野合とはいえ、所帯を持って暮らしている。熊吉が川口家で下男の仕事にありつけたのは、広道が恋仲の紫乃姫に口利きしてくれたお陰だった。
 狩りの獣を追う勢子の役目は、邸に仕える下男だけでなく現地の百姓達も動員されている。田植えを終えたこの時期、水の管理や雑草の始末など、しなければならないことは多い。農民にとってはいい迷惑だろうが、百姓の側に断るという選択肢はない。いつの間に紛れ込んでいたのか、広道は今、そんな勢子達と同じような恰好をしていた。
 痩せ形の広道との力比べならばこちらに分があるはずなのだが、現役の隠密は人を拘束する術を心得ているらしく、びくりともしない。それでも力任せに何とか振り払おうとした時、友の冷静な声が耳朶を打った。
「……やめておけ。今お前がここで斬られたら、誰より傷つき苦しむのは舞どのだぞ」
 いきり立った心と体が、冷や水でも浴びせられたように急激に冷えた。
 熊吉と広道が見下ろす形となった陣幕の一角から、衣擦れの音と男女が目合う時の荒い息遣いがする。いや、いくらなんでも気の所為か。陣幕の中ならいざ知らず、この距離で中の物音が逐一聞こえはしないだろう。――だとしたら、なんと悪趣味な幻聴だろうか。
「離せ!」
 悪趣味極まりない幻聴を振り払おうと、再び腕に力を入れた時、強烈な手刀を首に受け、熊吉は意識を失っていた。
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