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番外編
星降里 2-2
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診立てた医者が藪だったのか、はたまた熊吉がよほど悪い落ち方をしたのか、足首の骨折はなかなか治らなかった。
発熱こそ一晩で下がったものの痛みと腫れがいっこうに引かず、土間を入れても畳五枚ほどしかない部屋を移動するのも辛くて足を引きずるか、腕の力で動かなければならない。その間は仕事に出るどころか自分自身の身の回りの世話すらおぼつかなかった。
一度は幻だと切って捨てた相手が三日に一回は通ってきて、食事の世話や掃除や洗濯をしてくれなかったなら、熊吉の生活は成り立たなかっただろう。当然、長屋で暮らすおかみさん達に舞の存在はすぐに知れ渡った。ただの同僚だと説明して納得するはずもなく、恋仲なのか親の許しは得ているのかと散々詮索され、少しは気にするかと思ったのだが、当の彼女はさほど気にするようでもなく、せっせと長屋に通ってきては熊吉の世話を焼いて行く。
その日、茜色さしこむ長屋の一室で、熊吉と舞は向かい合って夕飯を食べていた。
熊吉の暮らす長屋は裏店で、基本日当たりは悪いが、夕刻の一時、黄昏の名残火のような陽光が射し込むことがある。これまで、舞は洗濯や食事の支度を終えると川口の邸に戻っていたのだが、今日は一緒に食べて行かないかと誘ってみた。断られること覚悟の誘いをあっさり肯って、彼女は今、まるではじめからこの家の住人であったかのように熊吉と一緒に飯を食っている。
献立は白飯と青菜の味噌汁と隣のおかみさんからもらった目刺しと、そして舞が作った芋の煮っ転がしである。煮っ転がしの少し焦げたところの醤油が香ばしくて、味といい食感といい実に美味い。何故なのだろうか。生まれも育ちもまるで違うのに、舞の作る食事はいつも熊吉の口にとてもよく合った。かなうことなら、この美味い飯を毎日食べて暮らしたい。そして何より、このまま里に帰って永遠に別れてしまいたくない。
――もしかしたら、と思う。
これまでずっと、女とは女であるだけで自分を嫌うものだと思い込んでいが、この娘だけは違うのではないか。少なくとも、こうして顔を合わせて飯を食ってもよいと思う程度には、舞も熊吉を好いてくれているのではないのか。
いったんそう思ってしまうと、もう我慢が効かなかった。
どうせ女に嫌われることには慣れている。このまま曖昧な関係を続けていても、熊吉にとってはまさに蛇の生殺しだ。嫌われて避けられるのであれば、早い方がいい。これ以上余計な期待を抱くくらいなら、嫌われて会えなくなった方がましだ。
「熊吉さん、全然、箸が進んでないけど、口に合わなかったかしら?」
「舞どの!」
「はい?」
「前にも話したことがあると思うが、おれは近いうちに故郷に帰らないとならない」
ごくりと飲み込んだ唾に醤油と出汁の味がする。箸をおいて顔を上げた舞の白い頬の辺りに向けて、熊吉は一気に思いを吐き出した。
「おれはあなたに妻として一緒に来てほしい」
どこかで烏の鳴く声がした。隣家の亭主が仕事から帰ってきたらしい。薄い壁の向こうから「帰ったぞ」と声がして、女房が「お帰りなさい」と告げている。仲の良い夫婦の仲の良さそうな会話が、今の熊吉の胸にやけに痛い。
向かい合った彼女が茶碗を片手に固まったのを見て、熊吉はやはり無謀だったかと後悔した。告げてしまった直後から、熊吉の手はがくがくと震えている。手にしていたはずの箸はいつの間にやら、膳の上に転がり落ちていた。
まったくもって今更ながら、求婚の言葉とは、こんな風に飯を食いながら何かのついでのように告げるものではなかったような気がする。告げた想いに嘘偽りは微塵もないのだが、せめてもっときちんと、場を整えるべきではなかったか。
いやそれより何よりも、求愛の言葉をすっ飛ばして、いきなり求婚するのはいかがなものなのか。
どうして自分という男は、言動がこうも浅はかなのか。これまで女達に避けられるのは見てくれの所為なのだとばかり思っていたが、実は気性の方にこそ問題があったのではないか。熊吉が頭を抱えて毛羽立った畳の上でのたうち回りたい衝動にかられた時、奇跡は起こった。
「……嬉しい」
「え?舞どの?今、何と?」
「ありがとう。熊吉さん」
「え、え、え……え?」
陸に上がった魚のように、口だけが意味もなくぱくぱくと動いている。今、肯定の言葉を聞いたように思ったのだが、幻聴だろうか。完全に恐慌状態に陥った熊吉の手から、箸だけでなく茶碗までもが転がり落ちた。
帰ってきたのは隣の亭主だけではないらしい。向かいの家にも亭主が帰ってきて、子ども達が口ぐちに「お帰り、お父ちゃん」と出迎えている。長屋のあちこちで夕餉の支度が進んでいるらしく、何かを煮炊きしている美味そうな匂いと、家族団らんの楽しそうな気配が、熊吉の暮らす裏店の四畳半一間の中にまで入り込んでいる。
正直、熊吉は己の人生に金も地位も身分も望んでいない。だが夫婦で――家族で暮らす団らんの幸せだけは手にしてみたかった。あまりにも女に嫌われるので、自分には無理なのかと半ば諦めかけていたのだが、今、好いた娘は頬を染め、熊吉の目の前で嬉しそうにはにかんでいる。
「ほ、本当に?」
「はい」
「舞どののご両親に挨拶に行ってもいいのか?」
「はい。――よろしくお願いします」
現実がじわじわと押し寄せて来て、胸の内が温かなもので満たされた。熊吉が取り落した茶碗を拾い上げ、ついでにそこにお代わりの飯をよそい、舞は今、確かに幸せそうに笑っている。
熊吉、二十五歳にして初めての幸せ。――だがその日を境に、舞が熊吉に家に来ることはなくなった。
発熱こそ一晩で下がったものの痛みと腫れがいっこうに引かず、土間を入れても畳五枚ほどしかない部屋を移動するのも辛くて足を引きずるか、腕の力で動かなければならない。その間は仕事に出るどころか自分自身の身の回りの世話すらおぼつかなかった。
一度は幻だと切って捨てた相手が三日に一回は通ってきて、食事の世話や掃除や洗濯をしてくれなかったなら、熊吉の生活は成り立たなかっただろう。当然、長屋で暮らすおかみさん達に舞の存在はすぐに知れ渡った。ただの同僚だと説明して納得するはずもなく、恋仲なのか親の許しは得ているのかと散々詮索され、少しは気にするかと思ったのだが、当の彼女はさほど気にするようでもなく、せっせと長屋に通ってきては熊吉の世話を焼いて行く。
その日、茜色さしこむ長屋の一室で、熊吉と舞は向かい合って夕飯を食べていた。
熊吉の暮らす長屋は裏店で、基本日当たりは悪いが、夕刻の一時、黄昏の名残火のような陽光が射し込むことがある。これまで、舞は洗濯や食事の支度を終えると川口の邸に戻っていたのだが、今日は一緒に食べて行かないかと誘ってみた。断られること覚悟の誘いをあっさり肯って、彼女は今、まるではじめからこの家の住人であったかのように熊吉と一緒に飯を食っている。
献立は白飯と青菜の味噌汁と隣のおかみさんからもらった目刺しと、そして舞が作った芋の煮っ転がしである。煮っ転がしの少し焦げたところの醤油が香ばしくて、味といい食感といい実に美味い。何故なのだろうか。生まれも育ちもまるで違うのに、舞の作る食事はいつも熊吉の口にとてもよく合った。かなうことなら、この美味い飯を毎日食べて暮らしたい。そして何より、このまま里に帰って永遠に別れてしまいたくない。
――もしかしたら、と思う。
これまでずっと、女とは女であるだけで自分を嫌うものだと思い込んでいが、この娘だけは違うのではないか。少なくとも、こうして顔を合わせて飯を食ってもよいと思う程度には、舞も熊吉を好いてくれているのではないのか。
いったんそう思ってしまうと、もう我慢が効かなかった。
どうせ女に嫌われることには慣れている。このまま曖昧な関係を続けていても、熊吉にとってはまさに蛇の生殺しだ。嫌われて避けられるのであれば、早い方がいい。これ以上余計な期待を抱くくらいなら、嫌われて会えなくなった方がましだ。
「熊吉さん、全然、箸が進んでないけど、口に合わなかったかしら?」
「舞どの!」
「はい?」
「前にも話したことがあると思うが、おれは近いうちに故郷に帰らないとならない」
ごくりと飲み込んだ唾に醤油と出汁の味がする。箸をおいて顔を上げた舞の白い頬の辺りに向けて、熊吉は一気に思いを吐き出した。
「おれはあなたに妻として一緒に来てほしい」
どこかで烏の鳴く声がした。隣家の亭主が仕事から帰ってきたらしい。薄い壁の向こうから「帰ったぞ」と声がして、女房が「お帰りなさい」と告げている。仲の良い夫婦の仲の良さそうな会話が、今の熊吉の胸にやけに痛い。
向かい合った彼女が茶碗を片手に固まったのを見て、熊吉はやはり無謀だったかと後悔した。告げてしまった直後から、熊吉の手はがくがくと震えている。手にしていたはずの箸はいつの間にやら、膳の上に転がり落ちていた。
まったくもって今更ながら、求婚の言葉とは、こんな風に飯を食いながら何かのついでのように告げるものではなかったような気がする。告げた想いに嘘偽りは微塵もないのだが、せめてもっときちんと、場を整えるべきではなかったか。
いやそれより何よりも、求愛の言葉をすっ飛ばして、いきなり求婚するのはいかがなものなのか。
どうして自分という男は、言動がこうも浅はかなのか。これまで女達に避けられるのは見てくれの所為なのだとばかり思っていたが、実は気性の方にこそ問題があったのではないか。熊吉が頭を抱えて毛羽立った畳の上でのたうち回りたい衝動にかられた時、奇跡は起こった。
「……嬉しい」
「え?舞どの?今、何と?」
「ありがとう。熊吉さん」
「え、え、え……え?」
陸に上がった魚のように、口だけが意味もなくぱくぱくと動いている。今、肯定の言葉を聞いたように思ったのだが、幻聴だろうか。完全に恐慌状態に陥った熊吉の手から、箸だけでなく茶碗までもが転がり落ちた。
帰ってきたのは隣の亭主だけではないらしい。向かいの家にも亭主が帰ってきて、子ども達が口ぐちに「お帰り、お父ちゃん」と出迎えている。長屋のあちこちで夕餉の支度が進んでいるらしく、何かを煮炊きしている美味そうな匂いと、家族団らんの楽しそうな気配が、熊吉の暮らす裏店の四畳半一間の中にまで入り込んでいる。
正直、熊吉は己の人生に金も地位も身分も望んでいない。だが夫婦で――家族で暮らす団らんの幸せだけは手にしてみたかった。あまりにも女に嫌われるので、自分には無理なのかと半ば諦めかけていたのだが、今、好いた娘は頬を染め、熊吉の目の前で嬉しそうにはにかんでいる。
「ほ、本当に?」
「はい」
「舞どののご両親に挨拶に行ってもいいのか?」
「はい。――よろしくお願いします」
現実がじわじわと押し寄せて来て、胸の内が温かなもので満たされた。熊吉が取り落した茶碗を拾い上げ、ついでにそこにお代わりの飯をよそい、舞は今、確かに幸せそうに笑っている。
熊吉、二十五歳にして初めての幸せ。――だがその日を境に、舞が熊吉に家に来ることはなくなった。
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