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番外編
星降里 1-1
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二日目の猪鍋は雑炊になった。
猪肉と野菜のうま味が存分に染み込んだ汁の中に冷や飯を投入し、味噌で味を調えた上に卵でとじて三つ葉を散らしている。
囲炉裏の上でぐつぐつと煮え立つ匂いを嗅いだだけでも腹が鳴るのに、そこに昨夜の宴で残った焼き魚をほぐして、山菜と和えたものまで出てきたのだからたまらない。仮祝言の翌朝、昨夜の騒ぎが嘘のように落ち着いた自宅の居間で、熊吉は新婚の娘夫婦と朝餉を囲んでいた。
親の欲目を抜きにしても、娘のるいは食事の支度が上手い。山に囲まれた忍び里では大した食材が手に入るわけもないので、贅を凝らすのではなく、工夫を凝らすのだ。今朝もまた、鍋の具も残った飯も三人分の膳に並べるのに足りなかったのだろうが、雑炊にすることで充分、全員の腹に収まる嵩にしている。
お針だけは多少苦手意識を持っているらしいが、食事の支度も、洗濯も掃除も薬草の見分け方も何もかも、もうどこに出しても恥ずかしくない。控えめに言って、自慢の娘である。
熊吉のどこへ嫁に出しても恥ずかしくない自慢の娘は今、父親には決して見せることのない蕩けそうな笑顔で、新婚の夫にせっせと給仕している。
「美味いな、これ」
「前から思ってましたけど、雅勝殿って、いつも美味しそうにご飯を食べますよね」
るいが用意した朝餉を若者は清々しいほどよく食べた。
熊吉にも覚えがある。十代半ばから二十代半ばくらいまでの時は、いつも腹が背にくっつきそうなくらい腹が空いていたものだった。ましてやこの若者の素性は明野領の影衆であり、はっきり言って体は資本だ。相当鍛えた体をしているのは今朝方見せてもらったが、それでももう少し肉を付けてもいいように思う。この若者の身に何かあればるいが嘆き悲しむのは必須なので、しっかり食べて体力をつけて、一生、娘を守ってやっていって欲しいと切実に願っている。
「いや、美味そうというより本当に美味いんだけどな。昨日の葱と卵の粥とか。あと焼き味噌の握り飯も美味かった」
「あんなので良ければいくらでも作りますよ。――はやく雅勝殿に毎日ご飯を作ってあげたい」
るいがまったく父親にはお構いなしなので、仕方なく自分で鍋の中身をよそいながら、熊吉は自分の家で身の置き所がないという思いをしみじみと味わった。一夜明けた今、娘と若者の醸し出す雰囲気は昨日までとまるで異なっている。祝言の前日にも同じ屋根の下で寝泊まりしていたと知って一瞬、いきり立ったのは事実だが――そして今はもう、共にしたのが一夜だろうが二夜だろうがどうでもいいことではあるのだが――この様子では昨夜より以前には何もなかったのだろう。
身も蓋もない言い方をすれば、やることをやってすっかり夫婦らしくなったと言ったところか。もっとも、熊吉はるいが幸せであればそれでいいのだし、若者に対しても悪い感情は持っていない。できればもう少し時間をかけて、じっくり酒でも酌み交わして語り明かしてみたいところだが、それはまた次の機会までとっておこう。
さすがにこれ以上続けられるとたまったものではないので、あえて二人に聞こえるように大きく咳払いをすると、ようやくそこに熊吉がいることを思い出してくれたらしい。若夫婦は顔を見合わせて、それからほんの少しだけ身体を離して距離を置いた。ふたりとも顔が赤いように見えるのは、雑炊の所為だけではあるまい。
まったく、見ているこちらの方が照れくさくて気恥ずかしくなってくる。しかしこの照れくさささと気恥ずかしさは、熊吉自身にも経験のあるものだ。そう、誰にだって若い頃はある。もうあれは今から十七年――いや、十八年は経っただろうか。
それは熊吉がまだ二十代の頃、明野領でるいの母と出会った頃のことだった。
猪肉と野菜のうま味が存分に染み込んだ汁の中に冷や飯を投入し、味噌で味を調えた上に卵でとじて三つ葉を散らしている。
囲炉裏の上でぐつぐつと煮え立つ匂いを嗅いだだけでも腹が鳴るのに、そこに昨夜の宴で残った焼き魚をほぐして、山菜と和えたものまで出てきたのだからたまらない。仮祝言の翌朝、昨夜の騒ぎが嘘のように落ち着いた自宅の居間で、熊吉は新婚の娘夫婦と朝餉を囲んでいた。
親の欲目を抜きにしても、娘のるいは食事の支度が上手い。山に囲まれた忍び里では大した食材が手に入るわけもないので、贅を凝らすのではなく、工夫を凝らすのだ。今朝もまた、鍋の具も残った飯も三人分の膳に並べるのに足りなかったのだろうが、雑炊にすることで充分、全員の腹に収まる嵩にしている。
お針だけは多少苦手意識を持っているらしいが、食事の支度も、洗濯も掃除も薬草の見分け方も何もかも、もうどこに出しても恥ずかしくない。控えめに言って、自慢の娘である。
熊吉のどこへ嫁に出しても恥ずかしくない自慢の娘は今、父親には決して見せることのない蕩けそうな笑顔で、新婚の夫にせっせと給仕している。
「美味いな、これ」
「前から思ってましたけど、雅勝殿って、いつも美味しそうにご飯を食べますよね」
るいが用意した朝餉を若者は清々しいほどよく食べた。
熊吉にも覚えがある。十代半ばから二十代半ばくらいまでの時は、いつも腹が背にくっつきそうなくらい腹が空いていたものだった。ましてやこの若者の素性は明野領の影衆であり、はっきり言って体は資本だ。相当鍛えた体をしているのは今朝方見せてもらったが、それでももう少し肉を付けてもいいように思う。この若者の身に何かあればるいが嘆き悲しむのは必須なので、しっかり食べて体力をつけて、一生、娘を守ってやっていって欲しいと切実に願っている。
「いや、美味そうというより本当に美味いんだけどな。昨日の葱と卵の粥とか。あと焼き味噌の握り飯も美味かった」
「あんなので良ければいくらでも作りますよ。――はやく雅勝殿に毎日ご飯を作ってあげたい」
るいがまったく父親にはお構いなしなので、仕方なく自分で鍋の中身をよそいながら、熊吉は自分の家で身の置き所がないという思いをしみじみと味わった。一夜明けた今、娘と若者の醸し出す雰囲気は昨日までとまるで異なっている。祝言の前日にも同じ屋根の下で寝泊まりしていたと知って一瞬、いきり立ったのは事実だが――そして今はもう、共にしたのが一夜だろうが二夜だろうがどうでもいいことではあるのだが――この様子では昨夜より以前には何もなかったのだろう。
身も蓋もない言い方をすれば、やることをやってすっかり夫婦らしくなったと言ったところか。もっとも、熊吉はるいが幸せであればそれでいいのだし、若者に対しても悪い感情は持っていない。できればもう少し時間をかけて、じっくり酒でも酌み交わして語り明かしてみたいところだが、それはまた次の機会までとっておこう。
さすがにこれ以上続けられるとたまったものではないので、あえて二人に聞こえるように大きく咳払いをすると、ようやくそこに熊吉がいることを思い出してくれたらしい。若夫婦は顔を見合わせて、それからほんの少しだけ身体を離して距離を置いた。ふたりとも顔が赤いように見えるのは、雑炊の所為だけではあるまい。
まったく、見ているこちらの方が照れくさくて気恥ずかしくなってくる。しかしこの照れくさささと気恥ずかしさは、熊吉自身にも経験のあるものだ。そう、誰にだって若い頃はある。もうあれは今から十七年――いや、十八年は経っただろうか。
それは熊吉がまだ二十代の頃、明野領でるいの母と出会った頃のことだった。
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