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白くて大きな満月が、研ぎ上げ磨き上げられた刃に映っている。
今、雅勝が使っている長刀と脇差しは、もとは清水家の嫡男であった忠雅の長兄のものだった。
御見の方の最初の夫であった嫡男が病没し、その後立て続けにその下の五人の子息までもが死去した為、家督と一緒に転がり込んできたこの刀を忠雅は雅勝に下げ渡してきた。清水家の当主が持つにふさわしい、名のある刀匠による立派な刀だ。本来ならば一介の影衆が持つような代物ではない。
普段、忠雅に対してほとんど遠慮などしたことのない雅勝も、さすがにあの時ばかりは遠慮した。お前が使えばいいだろうと言って突き返したのだが、この刀を見たくもないのだと本気で顔を歪めていたので、よほど嫌な思い出があるらしい。親しい仲の雅勝が使っていたら目には入るのではないかと思いつつ、勿体ないのでありがたく頂戴して――この刀で随分と多くの人間を斬った。
雅勝の本領での定宿は、城下町にある淡路屋という道具屋である。御用達の道具屋であり、藩主の住まわる城に様々な物品を卸している。そんな商家が何故明野領の影衆に協力しているのかといえば、そこにもお家騒動が絡んでいる。今は亡き年長の影衆からの申し送り事項なので直接は知らないが、淡路屋の現在の当主は妾腹で、明野領の親戚筋に預けられていて、本家乗っ取りを企てる際に影衆と手を結んだらしい。乗っ取りの際の念書やら何やらが今でも清水家の書院にあるそうだから、よほど知られてはまずいような後ろ暗くて悪どいことをしたのだろう。――お家騒動は、何も武家の専売特許というわけではない。
お陰で城に潜入する時は淡路屋を足がかりにできるし、本領に滞在する時にはあたかも商家の用心棒のような顔をして、奥の間で寝泊まりできる。白く大きな満月の夜、楓や紅葉が品よく植えられた坪庭の縁側で刀を磨いていた雅勝の背に、一人の少年が話しかけてきた。商家の奉公人のいで立ちをしているが、彼もまた明野領の影衆であり、名を雅弘という。
「雅勝兄。今日の夕刻、城に江戸からの使者が到着したそうだ」
「……そうか、着いたか」
今、君水藩に江戸からやって来るのは、千代丸君の養子縁組を正式に認める幕府からの使者だ。使者が到着して帰ってしまえば――あとはもういつ事を起こしても構いはしない。
「本当にいいのかい?兄者、祝言を挙げるはずだったんだろう?――おれ、城には何回も主人のお伴で行ってるから、逃げ道なら確保できるぞ」
今回、雅勝に与えられた御役目に逃げる算段はいらないのだということは、雅弘にも既に話してある。それを承知でそんなことを言ってくる弟分に、思わず苦笑してしまった。
「おいおい。噂になってるって話は前に雅晴から聞いたが、もうこっちにまで話が届いていたのかよ」
いくら影衆で所帯を持つ男が初めてだといっても、少々、話が広まり過ぎではなかろうか。
もっとも、まっとうに所帯を持って暮らして行くという夢はかなわなかった。傷の手当てをしてもらった。寝込んだ時に介抱してもらって、美味い飯を作ってもらって――生きる希望を与えてもらった。結局、あの娘から与えてもらうばかりで、何一つ返すことができなかったのだと思うと、我ながらかなり情けない。これでも一応男の端くれなので、好いた女の一人くらい、自分の手で幸せにしたかった。
そんなことを考えていたからだろう。城下町の表通りを歩いていた時に、小間物屋で女が喜びそうな櫛だの匂い袋を売っているのを見かけて、つい足が止まってしまった。これまでそんなことを考えたことがなかったのだが、もし雅勝がこんなものを買い求めて渡したならば、るいは喜んでくれたのだろうか。
蓄えのほとんどは法勝寺に置いてきたが、ある程度の金は懐にある。しかも今は帰りの路銀を考えなくてもいいし、雅弘から忠雅に渡してもらえばるいの手に確実に届く。気の迷いを起こして買い求めそうになって、寸前で思い直した。この期に及んで、形あるものを残しておきたいと思うのは男の我がままだろう。あっさり捨てて別な男の許に行ってくれればよいのだが、ずっと大切に持っていられても困るのだから。
俺でなければ嫌だなどと言わないで、他の誰かと幸せになってもらいたいと思うのに、心のどこかで忘れて欲しくないとも思っている。何をどう割り切ってもねじ伏せても、どうしても未練だけが消えてなくならない。
本当はきちんと会って別れを告げるべきだと思ったのだが、もう一度顔を見てしまうと、自分が何をしでかすか自信がなかった。今の精神状態だと彼女の意思も希望も無視して、無理にでもさらって逃げ出しかねない。ならば書いたものでも残そうかと考えたのだが、何を書いていいのかわからず、結局、何も残さずに去って来てしまった。
「――雅勝兄、他の連中を呼ぶのかい?」
本領にはまだ他にも仲間がいるし、下働きの使用人として城に潜入している影衆もいる。だが彼らの手を借りるつもりはなかった。これは雅勝に下された御役目だ。先のある若い者の命を年長者が巻き込んで危険にさらすわけにはいかない。それだけが今の雅勝のせめてもの矜持だ。
「いや、必要ない。こんなくだらないことで死ぬのは、俺一人で充分だ」
刀を鞘に戻して振り返った時、こちらを見る少年の目が今にも泣き出しそうに潤んでいることに気がついた。
弟分の姿にかつての自分が重なる。見送る側の思いは知っているが、見送られる側も結構辛いのだということは、自分がその立場になって初めて知った。
雅弘は本領の裕福な商家の生まれだったのだが、火事で店が焼け、その後両親が相次いで病没した為、八歳で影衆に売られてきた。以前、何度か算盤や算術を教えたことがあるのだが、元々商人の子だけあって非常に飲み込みが早かった。
十三の歳から淡路屋で暮すようになって、十五歳の今では商家の奉公人の姿が板についている。淡路屋は影衆の協力者ではあるが、大きな商家としての表の顔も持っている。このまままっとうに商いを学んで行けば、雅弘ならいずれは自分で小商いの店でも出して暮らして行けるのではないか。影衆の中に自分よりも年少の者が多くなったあたりから、時折、そんな想像をしてみることがあった。
現在、最年長の雅勝が十九歳で、その下の十六歳の雅明達三人までの間に影衆がいなかったわけではない。それがものの見事に全滅しているのは――過去に影衆の集団脱走が発生した為だ。
雅勝と忠雅の一つ下の世代と、さらにもう一つ下の世代の影衆五人が示し合わせて、明野領から逃散したのだ。逃散は影衆にとって絶対に許されない行為であり、どこまでも追われて粛清される。当時影衆を統括していた清水家の家長――忠雅の父に命じられて、雅勝は逃げた影衆を捕えて斬った。もうしない、許してくれ、助けてくれと泣いて縋る弟分達をこの手で斬って殺したのだった。
元々手先が器用で、木を削って何かを作るのは好きだったが、殺した人間に似せた木仏を彫り始めたのはそれから後のことだ。無論、そんなことで許されるなどとは思っていないが、せめて忘れずにいる為に彫り始めた数があまりに増えてしまって、そのうち、自分でもどうしたらよいかわからなくなっていた。
るいと共に先を生きたい。その思いに嘘はないし、それは今でもそう思っているのだが、心のどこかでずっと、自分一人が生きていることを許せないでいたのも事実だ。思い返すと我ながら、背負ったものが重すぎて息ができなくなるような人生だと思う。――そんなものを彼女に共に背負わせる前に終わらせられてよかった。
こちらに着いた日に城に行って潜入中の仲間からも話を聞いて、やるべきことの算段はした。成功するかどうかはやってみないとわからないが、いずれにせよ、もう淡路屋に戻って来ることもない。
「明日行く。雅弘、お前も手を出すなよ。俺がやり遂げたかどうかだけ、忠雅に報告してくれ。それがお前の役目だ」
「……わかった」
少年が去った後の縁側に秋の風が吹いた。白い月の方角から吹きおろし、楓や紅葉の葉を揺らしながら雅勝の頬を撫でた風は、一瞬、身震いする程冷たかった。
彼の身に一体何が起きたのか。正確な事態を把握するのに丸二日かかった。
最初は御見の方に掛け合って、何が起きたのかを教えてもらい、何とか事態を改善しようと思った。何よりもそれが一番よさそうに思ったのだが、るいの必死の訴えにも御見の方は黙って首を振るだけだった。あまりにもるいがしつこく食い下がった所為だろう。本当に苦しげな表情ですまぬと謝られて、るいは初めて、明野領の奥向きで絶大な権力を誇る御見の方が表の世界――男達の世界では何の権限もないことを知った。
だからと言って諦めてしまうわけにはいかない。雅勝が無二と友と言っていた清水忠雅があてにならないことは思い知ったので、せめて何か手がかりになるものはないかと訪れた法勝寺の部屋は、文字通り何もなかった。前に見た時にはそれでもまだわずかばかりあった生活用具――夜具も机も衝立もない。その部屋を見て、るいは雅勝が本当にもう帰って来ないつもりで旅立って行ったことを悟った。
それでも収穫はあった。清水忠雅も御見の方も教えてくれなかった事の次第を法勝寺の和尚から聞くことができたのだ。
最初に聞いた時は正直、空いた口が塞がらなかった。世間知らずを自認しているるいでさえ、馬鹿らしいと思う。千代丸君の養子縁組が本決まりとなったというのに、ここで藩主を暗殺して何になる。そのような御役目を命じる方も命じる方だが、受ける方もどうかしている。
もちろん雅勝が今のこの状況を望んだとは思わない。ただどうしてもるいには、彼が最後の最後までこの事態に抗って足掻こうとしたとは思えないのだ。
今もはっきりと覚えている。震えるほどきつく握り込めた拳と、そこから滲んで滴り落ちた血の赤。
あの時、雅勝の手の中で握り潰されていたものは、他でもない彼自身の心だ。きっとずっとそうだったのだろう。わずか十歳の時の選択に縛られて、泣くことも怒ることも喚くこともできず、ただずっと諦めの中を生きて来た。だから今、自分自身の命すら踏み躙られようとしているのに、抗うことさえしようとしない。
上から正式に命じられた御役目であれば、確かに拒絶するのは難しいだろう。だが逃げるという選択肢はある。本音を言うなら、連れて一緒に逃げて欲しい。しかしこの場合、るいが付いて行くことは彼の足手まといになりかねない。だったら置いて一人で逃げてくれて構わない。雅勝が逃げた後で彼のところに行けばいいのだし、最悪この先一生会えなかったとしても、るいは生涯、雅勝一人の妻だ。
だけど彼はそうしなかった。逃げることも抗うこともせず、るいには何一つ告げないまま、勝手に一人で旅立って行ってしまった。
ここまで来ると、哀しいを通り越して本気で腹が立つ。あの男はるいの気持ちを何だと思っているのか。雅勝の人生は雅勝のものだ。彼が抗わない――抗えないというのなら、百歩譲って仕方ないのかもしれない。だがるいの人生までも決める権利は雅勝にはない。るいの心はるいのものだ。そしてるいはこの先に何があっても、あの男と添い遂げると決めている。
そんなに簡単に、一方的に反故できるものではないのに。――共に先を生きると誓った約束だけは。
あまりに本気で腹が立ったので、後先を考えずに抜け出して来てしまったのだが、一度はまったくあてにならないと諦めた清水忠雅が変心し、手を貸してくれたのは非常にありがたかった。
前に雅勝とやって来た時には丸三日かかった本領への道のりを、金も力も世間知もある男の助けを得て一日半でたどり着いた時、本領の城下町は、起こった――起こしてしまった変事の話題で持ち切りだった。
今、雅勝が使っている長刀と脇差しは、もとは清水家の嫡男であった忠雅の長兄のものだった。
御見の方の最初の夫であった嫡男が病没し、その後立て続けにその下の五人の子息までもが死去した為、家督と一緒に転がり込んできたこの刀を忠雅は雅勝に下げ渡してきた。清水家の当主が持つにふさわしい、名のある刀匠による立派な刀だ。本来ならば一介の影衆が持つような代物ではない。
普段、忠雅に対してほとんど遠慮などしたことのない雅勝も、さすがにあの時ばかりは遠慮した。お前が使えばいいだろうと言って突き返したのだが、この刀を見たくもないのだと本気で顔を歪めていたので、よほど嫌な思い出があるらしい。親しい仲の雅勝が使っていたら目には入るのではないかと思いつつ、勿体ないのでありがたく頂戴して――この刀で随分と多くの人間を斬った。
雅勝の本領での定宿は、城下町にある淡路屋という道具屋である。御用達の道具屋であり、藩主の住まわる城に様々な物品を卸している。そんな商家が何故明野領の影衆に協力しているのかといえば、そこにもお家騒動が絡んでいる。今は亡き年長の影衆からの申し送り事項なので直接は知らないが、淡路屋の現在の当主は妾腹で、明野領の親戚筋に預けられていて、本家乗っ取りを企てる際に影衆と手を結んだらしい。乗っ取りの際の念書やら何やらが今でも清水家の書院にあるそうだから、よほど知られてはまずいような後ろ暗くて悪どいことをしたのだろう。――お家騒動は、何も武家の専売特許というわけではない。
お陰で城に潜入する時は淡路屋を足がかりにできるし、本領に滞在する時にはあたかも商家の用心棒のような顔をして、奥の間で寝泊まりできる。白く大きな満月の夜、楓や紅葉が品よく植えられた坪庭の縁側で刀を磨いていた雅勝の背に、一人の少年が話しかけてきた。商家の奉公人のいで立ちをしているが、彼もまた明野領の影衆であり、名を雅弘という。
「雅勝兄。今日の夕刻、城に江戸からの使者が到着したそうだ」
「……そうか、着いたか」
今、君水藩に江戸からやって来るのは、千代丸君の養子縁組を正式に認める幕府からの使者だ。使者が到着して帰ってしまえば――あとはもういつ事を起こしても構いはしない。
「本当にいいのかい?兄者、祝言を挙げるはずだったんだろう?――おれ、城には何回も主人のお伴で行ってるから、逃げ道なら確保できるぞ」
今回、雅勝に与えられた御役目に逃げる算段はいらないのだということは、雅弘にも既に話してある。それを承知でそんなことを言ってくる弟分に、思わず苦笑してしまった。
「おいおい。噂になってるって話は前に雅晴から聞いたが、もうこっちにまで話が届いていたのかよ」
いくら影衆で所帯を持つ男が初めてだといっても、少々、話が広まり過ぎではなかろうか。
もっとも、まっとうに所帯を持って暮らして行くという夢はかなわなかった。傷の手当てをしてもらった。寝込んだ時に介抱してもらって、美味い飯を作ってもらって――生きる希望を与えてもらった。結局、あの娘から与えてもらうばかりで、何一つ返すことができなかったのだと思うと、我ながらかなり情けない。これでも一応男の端くれなので、好いた女の一人くらい、自分の手で幸せにしたかった。
そんなことを考えていたからだろう。城下町の表通りを歩いていた時に、小間物屋で女が喜びそうな櫛だの匂い袋を売っているのを見かけて、つい足が止まってしまった。これまでそんなことを考えたことがなかったのだが、もし雅勝がこんなものを買い求めて渡したならば、るいは喜んでくれたのだろうか。
蓄えのほとんどは法勝寺に置いてきたが、ある程度の金は懐にある。しかも今は帰りの路銀を考えなくてもいいし、雅弘から忠雅に渡してもらえばるいの手に確実に届く。気の迷いを起こして買い求めそうになって、寸前で思い直した。この期に及んで、形あるものを残しておきたいと思うのは男の我がままだろう。あっさり捨てて別な男の許に行ってくれればよいのだが、ずっと大切に持っていられても困るのだから。
俺でなければ嫌だなどと言わないで、他の誰かと幸せになってもらいたいと思うのに、心のどこかで忘れて欲しくないとも思っている。何をどう割り切ってもねじ伏せても、どうしても未練だけが消えてなくならない。
本当はきちんと会って別れを告げるべきだと思ったのだが、もう一度顔を見てしまうと、自分が何をしでかすか自信がなかった。今の精神状態だと彼女の意思も希望も無視して、無理にでもさらって逃げ出しかねない。ならば書いたものでも残そうかと考えたのだが、何を書いていいのかわからず、結局、何も残さずに去って来てしまった。
「――雅勝兄、他の連中を呼ぶのかい?」
本領にはまだ他にも仲間がいるし、下働きの使用人として城に潜入している影衆もいる。だが彼らの手を借りるつもりはなかった。これは雅勝に下された御役目だ。先のある若い者の命を年長者が巻き込んで危険にさらすわけにはいかない。それだけが今の雅勝のせめてもの矜持だ。
「いや、必要ない。こんなくだらないことで死ぬのは、俺一人で充分だ」
刀を鞘に戻して振り返った時、こちらを見る少年の目が今にも泣き出しそうに潤んでいることに気がついた。
弟分の姿にかつての自分が重なる。見送る側の思いは知っているが、見送られる側も結構辛いのだということは、自分がその立場になって初めて知った。
雅弘は本領の裕福な商家の生まれだったのだが、火事で店が焼け、その後両親が相次いで病没した為、八歳で影衆に売られてきた。以前、何度か算盤や算術を教えたことがあるのだが、元々商人の子だけあって非常に飲み込みが早かった。
十三の歳から淡路屋で暮すようになって、十五歳の今では商家の奉公人の姿が板についている。淡路屋は影衆の協力者ではあるが、大きな商家としての表の顔も持っている。このまままっとうに商いを学んで行けば、雅弘ならいずれは自分で小商いの店でも出して暮らして行けるのではないか。影衆の中に自分よりも年少の者が多くなったあたりから、時折、そんな想像をしてみることがあった。
現在、最年長の雅勝が十九歳で、その下の十六歳の雅明達三人までの間に影衆がいなかったわけではない。それがものの見事に全滅しているのは――過去に影衆の集団脱走が発生した為だ。
雅勝と忠雅の一つ下の世代と、さらにもう一つ下の世代の影衆五人が示し合わせて、明野領から逃散したのだ。逃散は影衆にとって絶対に許されない行為であり、どこまでも追われて粛清される。当時影衆を統括していた清水家の家長――忠雅の父に命じられて、雅勝は逃げた影衆を捕えて斬った。もうしない、許してくれ、助けてくれと泣いて縋る弟分達をこの手で斬って殺したのだった。
元々手先が器用で、木を削って何かを作るのは好きだったが、殺した人間に似せた木仏を彫り始めたのはそれから後のことだ。無論、そんなことで許されるなどとは思っていないが、せめて忘れずにいる為に彫り始めた数があまりに増えてしまって、そのうち、自分でもどうしたらよいかわからなくなっていた。
るいと共に先を生きたい。その思いに嘘はないし、それは今でもそう思っているのだが、心のどこかでずっと、自分一人が生きていることを許せないでいたのも事実だ。思い返すと我ながら、背負ったものが重すぎて息ができなくなるような人生だと思う。――そんなものを彼女に共に背負わせる前に終わらせられてよかった。
こちらに着いた日に城に行って潜入中の仲間からも話を聞いて、やるべきことの算段はした。成功するかどうかはやってみないとわからないが、いずれにせよ、もう淡路屋に戻って来ることもない。
「明日行く。雅弘、お前も手を出すなよ。俺がやり遂げたかどうかだけ、忠雅に報告してくれ。それがお前の役目だ」
「……わかった」
少年が去った後の縁側に秋の風が吹いた。白い月の方角から吹きおろし、楓や紅葉の葉を揺らしながら雅勝の頬を撫でた風は、一瞬、身震いする程冷たかった。
彼の身に一体何が起きたのか。正確な事態を把握するのに丸二日かかった。
最初は御見の方に掛け合って、何が起きたのかを教えてもらい、何とか事態を改善しようと思った。何よりもそれが一番よさそうに思ったのだが、るいの必死の訴えにも御見の方は黙って首を振るだけだった。あまりにもるいがしつこく食い下がった所為だろう。本当に苦しげな表情ですまぬと謝られて、るいは初めて、明野領の奥向きで絶大な権力を誇る御見の方が表の世界――男達の世界では何の権限もないことを知った。
だからと言って諦めてしまうわけにはいかない。雅勝が無二と友と言っていた清水忠雅があてにならないことは思い知ったので、せめて何か手がかりになるものはないかと訪れた法勝寺の部屋は、文字通り何もなかった。前に見た時にはそれでもまだわずかばかりあった生活用具――夜具も机も衝立もない。その部屋を見て、るいは雅勝が本当にもう帰って来ないつもりで旅立って行ったことを悟った。
それでも収穫はあった。清水忠雅も御見の方も教えてくれなかった事の次第を法勝寺の和尚から聞くことができたのだ。
最初に聞いた時は正直、空いた口が塞がらなかった。世間知らずを自認しているるいでさえ、馬鹿らしいと思う。千代丸君の養子縁組が本決まりとなったというのに、ここで藩主を暗殺して何になる。そのような御役目を命じる方も命じる方だが、受ける方もどうかしている。
もちろん雅勝が今のこの状況を望んだとは思わない。ただどうしてもるいには、彼が最後の最後までこの事態に抗って足掻こうとしたとは思えないのだ。
今もはっきりと覚えている。震えるほどきつく握り込めた拳と、そこから滲んで滴り落ちた血の赤。
あの時、雅勝の手の中で握り潰されていたものは、他でもない彼自身の心だ。きっとずっとそうだったのだろう。わずか十歳の時の選択に縛られて、泣くことも怒ることも喚くこともできず、ただずっと諦めの中を生きて来た。だから今、自分自身の命すら踏み躙られようとしているのに、抗うことさえしようとしない。
上から正式に命じられた御役目であれば、確かに拒絶するのは難しいだろう。だが逃げるという選択肢はある。本音を言うなら、連れて一緒に逃げて欲しい。しかしこの場合、るいが付いて行くことは彼の足手まといになりかねない。だったら置いて一人で逃げてくれて構わない。雅勝が逃げた後で彼のところに行けばいいのだし、最悪この先一生会えなかったとしても、るいは生涯、雅勝一人の妻だ。
だけど彼はそうしなかった。逃げることも抗うこともせず、るいには何一つ告げないまま、勝手に一人で旅立って行ってしまった。
ここまで来ると、哀しいを通り越して本気で腹が立つ。あの男はるいの気持ちを何だと思っているのか。雅勝の人生は雅勝のものだ。彼が抗わない――抗えないというのなら、百歩譲って仕方ないのかもしれない。だがるいの人生までも決める権利は雅勝にはない。るいの心はるいのものだ。そしてるいはこの先に何があっても、あの男と添い遂げると決めている。
そんなに簡単に、一方的に反故できるものではないのに。――共に先を生きると誓った約束だけは。
あまりに本気で腹が立ったので、後先を考えずに抜け出して来てしまったのだが、一度はまったくあてにならないと諦めた清水忠雅が変心し、手を貸してくれたのは非常にありがたかった。
前に雅勝とやって来た時には丸三日かかった本領への道のりを、金も力も世間知もある男の助けを得て一日半でたどり着いた時、本領の城下町は、起こった――起こしてしまった変事の話題で持ち切りだった。
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