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色々と支度を終えるまでに、丸二日かかった。
本音を言えばすぐにでも本領に向かいたかったのだが、本領にたどり着いて実際に行動する段になって、用意が足りなくて出来ませんでしたとなっては笑い話にもなりはしない。清水家家長の――君水藩明野領次席家老の矜持に賭けて必要なものをすべて揃えて、忠雅は陣屋の塀の外にいた。
既に夜は更けていて、陣屋を取り囲むように並んだ武家屋敷の周辺にも人の気配はない。忠雅以外に誰もいない道を、白く大きな満月が煌々と照らし出している。
明日の朝まで待とうかとも思ったのだが、できれば幕府から正式に養子縁組を認める報せが来る前に本領に辿りついておきたい。それにこの月灯りならば夜道であっても充分行動できるので、今宵のうちにやってきたのだが、当然ながらこの時刻には陣屋へ入る木戸は閉まっている。
さて、どうするかと考えて、忠雅は白い月を仰ぎ見た。
影衆の御役目には大まかに二つの種類がある。一つは雅明が得意とするように、屋根裏に忍び込んだり床下に潜り込んだりして情報を収集する諜報活動。もう一つが雅規に代表される戦闘型だ。無論、どちらかだけに特化していては生きていけないので、ある程度の年齢以上の影衆はどちらの能力も兼ね備えているのだが、人間である以上得手不得手はある。そして忠雅は影衆時代、どちらかといえば諜報活動の方が得意だった。今でもこの程度の塀は簡単に越えられるし、屋根裏を伝って目的の場所まで行くことも難しくはないのだが、さすがに奥座敷の侍女の暮らす部屋に屋根裏から忍び込んだとばれると、御見の方から怒鳴られるだけではすまなさそうな気がする。
ここは裏門の門番に金でも掴ませて入れてもらった方がよいかと考えた時、少し先の石垣で何かが光った。目を凝らして見てみると、それは忍びの人間がよく使う鉤縄の先端だった。
石垣に鉤を引っ掛けて、そこから続く縄を手繰って塀を越えてきたのは、忠雅が今まさに会いに行こうとしていた相手だった。手甲脚絆の旅装束に身を包み、打飼袋を斜めに背負っている。――そういえば彼女は忍びの出だ。この程度の塀ならば容易に越えられるのだろう。
道に降り立ったおるいの側からは、明るすぎる月の光が逆光になって気配を感じなかったらしい。忠雅が近づいたのと同時におるいは刀を抜いた。
武家の女が使う小太刀とは違う。刃が短くて反っていない忍びの刀だ。忍び里出身ならばある程度心得はあるだろうと思ったが、思っていたより結構使える。まさか今ここで彼女を相手に刀を抜くわけにもいかないので、素手で相手をした。意外と鋭い斬撃をかわして避けた後、細い手首をつかんで引き寄せた。かなり力を込めて握っているのに、おるいは刀を手放さない。忠雅とおるいの顔のすぐ側で、白刃が月灯りを弾いてぎらりと光った。
「……おっと。危ないから、それ、仕舞ってくれないか」
「お放し下さい。――清水様」
忠雅も今のこの光景を人に見られたくないが、誰かに見られると困るのはおるいも同じだろう。声を潜めてはいるものの眼差しは鋭い。雅勝はやたらと御見の方を怖がっていたが、お前の女の方がよっぽど怖いぞ……と心の中でここにいない友に呼びかけてみる。忠雅が手の力を緩めると、おるいも腕を引いて刀を鞘に仕舞った。
「本領に行く気か?だけど本領に行って、あいつがいそうなところがわかるのかよ?」
「それは……」
この月ならば夜の間でも進めると考えたのはさすがに忍びの血を引く娘だが、目的地について相手がどこにいるのかわからなければ意味はない。それもわからず闇雲に本領に向かおうとしていたのなら、無鉄砲にもほどがある。
「俺ならわかる。おるい、お前、馬には乗れるか?」
「清水様?」
「雅勝を逃がす。――自分で出てきてくれて助かったよ。俺はその為にお前に会いに来たんだ」
――そう、最初からそうすべきだったのだ。
明野領君水藩の次席家老が駆けずり回って撤回できない御役目なら、あとはもう当の本人を遠くに逃がしてしまうしかない。今回の御役目は雅勝が樋口家の人間であることが前提にあるので、奴を逃がしてしまえば御役目そのものが成立しない。影衆の逃亡となれば追手は必須だが、今、最年長の雅勝を追うとしたら雅明・雅道・雅規の三人だ。あの連中に本気で雅勝を殺せるはずもないし、何なら忠雅が適当に反撃されて逃げられたことにするようにと言い含めておいてもいい。
影衆を統括する清水家の家長が影衆を逃がすなどはっきりいって前代未聞だが、現状忠雅の他に清水家の男子がいない以上、蟄居や閉門はあっても切腹にまでは至らないだろう。もともと異例尽くしの次席家老なので、今さら少しくらい責められたところで痛くもかゆくもない。
慣れない地位と立場を得た所為で、頭の風通しが悪くなりすぎていた。本当にすべきことが何なのか、おるいと菊乃が二人がかりで気づかせてくれた。
「――おるい、お前、あいつと一緒に逃げてやってくれるか?」
忠雅の問いかけに、おるいは目を見開いて――やがて栗鼠か野兎を思い起こさせる小動物じみた仕草で、忠雅に向かって深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます!清水様」
そうと決まれば、文字通り善は急げだ。白い月の方角に向かって駆け出した時、どこかで犬の鳴く声がした。夜更けに道を走る男と娘の姿に気づいて誰かが起き出したのかもしれないが、ここから本領までは追手を気にする必要はない。
忠雅としては、こうなればもう何が何でも奴を逃がすつもりではあるが、藩主を暗殺してしまった後だと話がややこしくなってくる。となれば、あとはもう一刻も早く本領に向かわなければならない。一刻も早く雅勝に会って、おるいと一緒に君水藩を出してしまわなければ。
――手遅れになる前に。
本音を言えばすぐにでも本領に向かいたかったのだが、本領にたどり着いて実際に行動する段になって、用意が足りなくて出来ませんでしたとなっては笑い話にもなりはしない。清水家家長の――君水藩明野領次席家老の矜持に賭けて必要なものをすべて揃えて、忠雅は陣屋の塀の外にいた。
既に夜は更けていて、陣屋を取り囲むように並んだ武家屋敷の周辺にも人の気配はない。忠雅以外に誰もいない道を、白く大きな満月が煌々と照らし出している。
明日の朝まで待とうかとも思ったのだが、できれば幕府から正式に養子縁組を認める報せが来る前に本領に辿りついておきたい。それにこの月灯りならば夜道であっても充分行動できるので、今宵のうちにやってきたのだが、当然ながらこの時刻には陣屋へ入る木戸は閉まっている。
さて、どうするかと考えて、忠雅は白い月を仰ぎ見た。
影衆の御役目には大まかに二つの種類がある。一つは雅明が得意とするように、屋根裏に忍び込んだり床下に潜り込んだりして情報を収集する諜報活動。もう一つが雅規に代表される戦闘型だ。無論、どちらかだけに特化していては生きていけないので、ある程度の年齢以上の影衆はどちらの能力も兼ね備えているのだが、人間である以上得手不得手はある。そして忠雅は影衆時代、どちらかといえば諜報活動の方が得意だった。今でもこの程度の塀は簡単に越えられるし、屋根裏を伝って目的の場所まで行くことも難しくはないのだが、さすがに奥座敷の侍女の暮らす部屋に屋根裏から忍び込んだとばれると、御見の方から怒鳴られるだけではすまなさそうな気がする。
ここは裏門の門番に金でも掴ませて入れてもらった方がよいかと考えた時、少し先の石垣で何かが光った。目を凝らして見てみると、それは忍びの人間がよく使う鉤縄の先端だった。
石垣に鉤を引っ掛けて、そこから続く縄を手繰って塀を越えてきたのは、忠雅が今まさに会いに行こうとしていた相手だった。手甲脚絆の旅装束に身を包み、打飼袋を斜めに背負っている。――そういえば彼女は忍びの出だ。この程度の塀ならば容易に越えられるのだろう。
道に降り立ったおるいの側からは、明るすぎる月の光が逆光になって気配を感じなかったらしい。忠雅が近づいたのと同時におるいは刀を抜いた。
武家の女が使う小太刀とは違う。刃が短くて反っていない忍びの刀だ。忍び里出身ならばある程度心得はあるだろうと思ったが、思っていたより結構使える。まさか今ここで彼女を相手に刀を抜くわけにもいかないので、素手で相手をした。意外と鋭い斬撃をかわして避けた後、細い手首をつかんで引き寄せた。かなり力を込めて握っているのに、おるいは刀を手放さない。忠雅とおるいの顔のすぐ側で、白刃が月灯りを弾いてぎらりと光った。
「……おっと。危ないから、それ、仕舞ってくれないか」
「お放し下さい。――清水様」
忠雅も今のこの光景を人に見られたくないが、誰かに見られると困るのはおるいも同じだろう。声を潜めてはいるものの眼差しは鋭い。雅勝はやたらと御見の方を怖がっていたが、お前の女の方がよっぽど怖いぞ……と心の中でここにいない友に呼びかけてみる。忠雅が手の力を緩めると、おるいも腕を引いて刀を鞘に仕舞った。
「本領に行く気か?だけど本領に行って、あいつがいそうなところがわかるのかよ?」
「それは……」
この月ならば夜の間でも進めると考えたのはさすがに忍びの血を引く娘だが、目的地について相手がどこにいるのかわからなければ意味はない。それもわからず闇雲に本領に向かおうとしていたのなら、無鉄砲にもほどがある。
「俺ならわかる。おるい、お前、馬には乗れるか?」
「清水様?」
「雅勝を逃がす。――自分で出てきてくれて助かったよ。俺はその為にお前に会いに来たんだ」
――そう、最初からそうすべきだったのだ。
明野領君水藩の次席家老が駆けずり回って撤回できない御役目なら、あとはもう当の本人を遠くに逃がしてしまうしかない。今回の御役目は雅勝が樋口家の人間であることが前提にあるので、奴を逃がしてしまえば御役目そのものが成立しない。影衆の逃亡となれば追手は必須だが、今、最年長の雅勝を追うとしたら雅明・雅道・雅規の三人だ。あの連中に本気で雅勝を殺せるはずもないし、何なら忠雅が適当に反撃されて逃げられたことにするようにと言い含めておいてもいい。
影衆を統括する清水家の家長が影衆を逃がすなどはっきりいって前代未聞だが、現状忠雅の他に清水家の男子がいない以上、蟄居や閉門はあっても切腹にまでは至らないだろう。もともと異例尽くしの次席家老なので、今さら少しくらい責められたところで痛くもかゆくもない。
慣れない地位と立場を得た所為で、頭の風通しが悪くなりすぎていた。本当にすべきことが何なのか、おるいと菊乃が二人がかりで気づかせてくれた。
「――おるい、お前、あいつと一緒に逃げてやってくれるか?」
忠雅の問いかけに、おるいは目を見開いて――やがて栗鼠か野兎を思い起こさせる小動物じみた仕草で、忠雅に向かって深く頭を下げた。
「はい。ありがとうございます!清水様」
そうと決まれば、文字通り善は急げだ。白い月の方角に向かって駆け出した時、どこかで犬の鳴く声がした。夜更けに道を走る男と娘の姿に気づいて誰かが起き出したのかもしれないが、ここから本領までは追手を気にする必要はない。
忠雅としては、こうなればもう何が何でも奴を逃がすつもりではあるが、藩主を暗殺してしまった後だと話がややこしくなってくる。となれば、あとはもう一刻も早く本領に向かわなければならない。一刻も早く雅勝に会って、おるいと一緒に君水藩を出してしまわなければ。
――手遅れになる前に。
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