茜さす

横山美香

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 どのように清水の邸を出て、その後どの道をどのように歩いたのか、まるで覚えていない。気づいた時、雅勝は清水の邸からも陣屋からもそして法勝寺からも程近い、武家長屋の一角にいた。
 その武家長屋のある土地は川口家の地所であり、最近、小火があって建て直したとかで真新しい木の匂いが漂っている。西側の三軒一棟の長屋のうち、一軒分の入居者が決まっておらず、新居にどうかと御見の方が勧めてくれたらしい。
 既にるいは先に一人で家主に中を見せてもらって、良さそうなところだと言っていた。清水の邸にも陣屋にも近いし、家賃も想定内で、しかも彼女が気に入ったのであれば決めてくれて構わないと告げたのだが、これから二人で所帯を持つのに、一人だけ見て決めるわけにはいかないと叱られた。まことにもっともなお叱りだったので、場所を聞いておいて、後で時間がある時に見に行くと約束していたのだ。
 御見の方の許しを得たことで、所帯を持つ準備は順調に進んでいた。既に忠雅の紹介により、るいの仮親となる武家夫婦との対面も果たしている。本祝言の場は法勝寺が提供してくれるそうなので、手習い所の子ども達にも祝ってもらえるとるいはとても喜んでいたし、雅明や雅晴達も祝言に出たいと騒いでいたので、あまり乗り気でなかった雅勝もそれはそれでよいかと思い始めていた。影衆が二十歳まで生き延びる姿は見せられなかったが、影衆上がりの男がまっとうに所帯を持つところを見せてやることはできる。
「あら、もしかして樋口様ですか?」
 真新しい長屋の前で、しばし茫然と立ちすくんでいたらしい。三軒続きの隣の家から質素な出で立ちの武家の内儀が出てきて、物珍しそうにこちらを見ていた。年の頃は五十代半ばから六十代くらいか。雅勝から見ると母親というより祖母くらいの年齢である。
「やっぱり。――こないだ御新造様がいらしてたんですよ。お隣を借りられるかもしれないって。ご近所になりましたら、どうかよろしくお願いしますね」
「あ、いえ、その……どうも」
 朗らかに語りかけられて、何故だか一瞬、及び腰になってしまった。
 武家長屋とは言うまでもなく一軒家を構えられない軽輩の武士が暮らす場所であり、場所によってはひどく荒んだ雰囲気を――雅勝は以前、本領の武家長屋の一角が賭場になっているのを見たことがある――醸し出すことがある。だが少なくともここではそのようなことはなさそうだ。裕福でなくとも勤勉な武士とその家族が、身の丈にあった堅実な生活を営んでいる場所といった感じがする。
 家主の許可を得ていないので中を見るのは無理かと思ったが、隣家の内儀が部屋の管理を任されているとのことで、戸を開けて中に入れてくれた。土間があって居間と他に居室が一つあって、縁側の向こうには猫の額程ではあるものの、日当たりの良さそうな裏庭まである。――菜っ葉や大根くらいなら充分育ちそうだ。
 雅勝を中に通して丁寧に一礼して、内儀は部屋を出て行った。もしかしたら以前はそれなりの地位や身分にいたのではなかろうか。質素な出で立ちではあるが、白いものが混ざった鬢のほつれが年齢よりも品の良さを感じさせる女性だった。
 実際、雅勝はまだ清水の家臣ではなく、るいもまだ武士の妻ではない。人生の折り返し地点も過ぎたご婦人が、それをわからないはずもないだろう。だがそんなことを微塵も感じさせない快い対応は、彼女の人徳なのか、はたまた以前、顔を合わせた際のるいの言動がよほど良かったのか――恐らくその両方なのだろう。
 正直なところ、影衆を抜けて清水の家臣となったところで、そう簡単に暮らして行けないことは覚悟していた。清水の家中で、影衆上がりの分際でと蔑まれることは覚悟していたし、そして雅勝が蔑まれるということは、同じ蔑視が妻にも降りかかるということだ。
 しかしこの分ならやってみれば案外、すんなりとうまく行ったのではないか。ここで所帯を持って、近所付き合いをして、子どもを生み育て、共に年老いて生きて行く。
 ――俺も俺の人生に夢を見てみたくなったんだ。
 自分で言ったことなので、今もはっきり覚えている。あの時は将来への展望のつもりで「夢」と言ったのだが、まさか寝て起きたら消えてなくなる「夢」の方だったとは。笑い話にもなりはしない。
 ――藩主・武智泰久を暗殺して死んでくれ。それが今回の御役目だ。
 この三年、何度も訪れた清水の邸で忠雅は雅勝にそう告げた。
 雅勝は忠雅を信頼している。他の誰を信じなくとも奴のことだけは信じている。五大家老の集まりでその話が出た後、忠雅は必死になってこの御役目を撤回する術を考えてくれたらしい。領主武智雅久にもかけあい、何かの間違いであってくれと川口忠道が言っていた三十五年前の出来事とやらも調べて――万策尽きて雅勝に御役目を告げるまでの間に、奴の方が先に疲れ果てて窶れてしまったという次第だったらしい。
 父が亡くなったのは雅勝が七歳の時なので、もちろん記憶に残っている。職人顔負けに手先の器用な人で、包み紙に摺る店の名前だとか双六だとかを彫る内職を引き受けて、勤めのない時はいつも楽しそうに鑿で木を削っていた。幼い頃、その隣で手ずから鑿の使い方を教わった記憶はあるが、祖父の無念だの家の恨みだのという話は聞いたこともない。
 雅勝としては三十五年前に起こったという事実より、父が息子にそのことを何も告げなかったという事実に意味を感じる。それは顔も見たことのない祖父と、記憶にある父が己の子孫に敵討ちなど望んでいなかったということの明白な証左だろう。
 もちろん、だとしても今回の事態の改善など望めはしない。単に公儀の目を欺く為のそれらしい物語があればよいのだから。そして忠雅が必死で駆けずり回って撤回できなかった以上、この御役目は絶対だ。
 出し抜けに目の前が歪んで、思わず掌で目の前を覆い隠してしまった。元々ゆっくりではあったが回復傾向だったところに、忍びの山里に沸く眼病の湯はとても良く効いた。もうめまいの発作は出なくなっていたのに、今どうしても目の前の景色が揺らぐ。
 五大家老の決定を経て、清水の家長から下りた御役目を断るという選択肢は影衆にはない。何故なら影衆とはそういうものなのだと、この九年間で骨身に染みて思い知っている。
 本領の城にいる藩主・武智泰久の暗殺に関しては、正直、五分五分くらいの見込みだろうか。正規の家臣だけならともかく葉隠衆もいるので、成功の見込みは五分もないかもしれないが、抜け出す算段をしなくてよいのであれば、うまく事を運べばやってやれなくはない気がする。もっとも失敗すればその場で即斬られるだけなので、いずれにせよ雅勝に生き延びる道はない。
 染み一つない天井と真新しい畳。木の香りが漂うこの部屋は、確かに新居にふさわしい。かなうことなら暮らしてみたかった。もっとも主命とあれば命を捨てなければならないのは、影衆であっても武士であっても同じことだ。いつかこのようなことが起こるのであれば――実際に暮らし始める前でよかったのだろうか。
 目を閉じているのに目の前の闇が揺らぐ。わずかに瞼の奥に感じる光が捻じれて揺らいで、吐き気がしてきそうだった。虫の毒の所為でないのは自分でもわかっている。いっそ涙でも出れば少しは落ち着くのかもしれないが、泣き方などとうの昔に忘れてしまった。
「畜生……」
 誰も見ていないことをいいことに、壁に背を預けて足を投げ出した。舟にでも酔ったかのように本気で気分が悪い。自分が暮らすことのない新居の隅で片膝を抱えて、涙を流さず声も出さず、雅勝は心の内でほんの少しだけ泣いた。
 

 もともと私物と呼べるものがほとんどないので、部屋の整理は一日もかからなかった。隠し戸の底に貯めてあったわずかばかりの蓄えを渡しに行った時、和尚は手習い部屋にいた。茜色差し込む部屋で子ども達の手習い張を見ている。
 修行中の小坊主が突いているのだろう。寺の敷地内で時を告げる鐘が鳴っている。まだ季節は夏のうちだが、大分日のある時間が短くなった。
 法勝寺の手習い所の月謝は安い。生活が苦しく払えない親には分割払いを許したり、時に畑の作物を月謝代わりとしたりもするので、常にかつかつのやりくりだった。寺の収入は檀家からの布施が主だが、その檀家の数もそう多いとはいえない。御見の方がちょくちょく紙やら墨を下げ渡してくれなければ、手習い所の運営は成り立っていないだろう。
 障子紙の張替や屋根の雨漏りの修繕など、雅勝もできる限り協力してきたが、建物も相当ガタが来ている。少なくとも冬が来る前には、春先の突風でずれたままになっている屋根の瓦は直した方がよい。所帯を持つのに入用かと思って、こないだ久しぶりに数えた時には思っていたより貯まっていたので、これだけあれば多少は手習い部屋に手を入れられるのではなかろうか。
 影衆が蓄えを置いて出ることの意味など一つだけだ。長机で子ども達の手習いを直していた和尚が険しい表情をして顔を上げた。
「これだけあれば、少しくらいは役立つだろう。瓦屋を頼めよ。あれは俺では手に負えなかったからな。あと、部屋は片付けといたから、夜具と机は古道具屋にでも売ってくれ」
 顔を上げた和尚の艶やかな額に橙色の照り返しが光っている。法勝寺の和尚の年齢は若い。直接聞いたことはないが、まだ三十代の半ばくらいだろう。その若さで一つの寺を切り盛りし、手習い所の運営も行っている和尚は、雅勝を見て厳かに言い放った。
「通行手形はこちらでどうにかしてやる。雅勝、お前、あの娘を連れて逃げろ」
「それは……」
「今、ここでお前が泰久候を殺したところで何も変わりはせん。だがお前が死ねば、あの娘の人生は間違いなく狂うぞ」
 できればその件には、触れないでいて欲しかった。
 自分自身のことならばいくらでも割り切るが、その件に関してだけはどうしても割り切れそうにない。いや、そもそもるいの人生はるいのものなのだから、雅勝に割り切る権利はない。だったら人生そのものを重ねなければよかったのだが、それは今更言っても仕方がないことだろう。
 ――もし逃げたらどうなるか。考えてみなかったわけではない。
 雅勝が知る限りでも、過去に御役目を捨てて逃げ出した影衆は何人かいた。逃散は影衆にとって絶対に許されない行為であり、地の果てまでも追われて粛清される。雅勝も過去に一度、逃亡した弟分を斬ったことがある。――あれは精神的に相当きつかった。
 今、雅勝が逃げ出せば、追ってくるのは雅明・雅道・雅規の三人だ。雅規一人ですら手加減していたらやられそうなので、三人がかりでやって来られたら絶対に無理だと断言できる。
 それにもっとも現実的な問題として、影衆には年季がない。影子を三年、影衆を六年、自分でも売られた分くらいは既に働いたのではないかと思うが、今逃げたとしても売られた時の倍額が故郷の親に請求される。しかも御見の方を通じて正式な許嫁となってしまった所為で、下手をするとるいとるいの故郷の親にまでとばっちりが行きかねない。
 死にたくない。だけど死ぬしかない。ここまで行く手が詰まっていると、後はもう笑ってでもいるしかない。
 しかし事は藩主の暗殺である。この件に関してはまだ五大家老と領主と影衆の最年長しか知らないはずなのに、何故、和尚が事の次第を知っているのだろうか。
 ――もしかすると和尚はかつて影衆にいたのではないか。
 雅勝もこの世界で長く生きて来たので、実際に刃を交えなくとも体格や身のこなしである程度の力量を推し量ることはできる。和尚の墨染の着物の下の体躯は仏門にある者にしては逞しすぎるし、日々の何気ない行動や仕草から、実はかなりの遣い手なのではないかと思うことは多々あった。
 そして何より血の匂いがする。嗅覚ではなく本能で同類の匂いを感じる。これだけは間違いない。和尚は今の立場となる前に、かなりの人数を殺している。
 もしもそうだとしたら、忠雅よりも前に影衆を抜け、雅勝よりも長く生き残っている影衆がここに一人いることになる。ずっと気にはなっていたのだが、具体的に調べてみる前に今のこの事態が起きてしまった。
「雅勝、お前の一生はお前のものだ。――お前自身が望まぬものの為に使うな」
 素性は知れないが、この男が真に徳のある立派な僧侶であることは間違いないのだろう。まったく有難過ぎて涙も出ない言葉だ。人がせっかく割り切れないものを割り切って部屋の片づけをしたのだから、仮にも御仏に仕える身ならば、迷いを吹き飛ばすような有難い説法でもしてくれ。
 確かに雅勝は今のこの事態を望んではいない。そしてこの事態が、五大家老の目論見通りに成功したとしても、よい目は出ないのではないかと思っている。
 こないだ水浴び中の千代丸君が襲撃された時のように、明野領に潜入している葉隠衆はまだ他にもいるだろう。こちらが藩主を暗殺して、それでもまだ本領側が公儀の目を恐れてくれる保証など何処にもありはしない。あちらがもはや藩の存続を考えずに報復にやって来た時、今いる家臣と雅明・雅道・雅規の三人が中心の影衆で明野領を守り切れるのか。
 千代丸君の養子縁組が決定し、藩主泰久がいなくなれば明野領主雅久が藩政を握ることができるというのは、あまりに安易な考えだろう。先の算段というのは、本来、最悪の想定を元に行うものだ。ただ思いつきや衝動で決める行動など、目論見とも言わない。何故、たかだか影衆ごときにわかることが、五大家老と領主が頭を突き合わせてわからないのか。
 ――何故、そんなことの為に死ななければならないのだろう。
「……仕方ないだろう。俺の命に金を出したのはあの連中だからな」
 そして金を出した人間は、買った人間をどのように踏み躙ろうが構わない。それがこの世の理なのだろう。――例え、どれほど理不尽で不条理だと感じようとも。
 ――この字、何て読むの、先生!
 ――先生、先生、手習い張を見て!
 子ども達は全員帰った後なのに、この部屋にいると明るい声が聞こえる気がする。三年前、忠雅と住む世界が分かれた時に転がり込んだ場所だったが、元々子どもが好きな雅勝にとっては思いの他、楽しい時間だった。清水の家臣になった後もちょくちょく顔を出そうと――だからできるだけ近いところに家を借りようと、二人で話し合っていたのに。
「これまで世話になった。子ども達には旅に出たとでも伝えておいてくれ」
 雅勝が話を切り上げたので、それ以上、和尚も何も言わなかった。皆に祝福されて祝言を挙げるはずだった手習い部屋の片隅で、ただ黙って金の入った布袋を受け取った。
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