茜さす

横山美香

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 明野領主武智雅久が帰還したのは、気の早い赤蜻蛉が一匹、二匹、犬脇峠の麓の里を飛び交い始めた頃のことだった。
 雅久の長男千代丸君が藩主の嫡男嗣久の養子となることは、藩主と領主直々の会談により内定した。もっとも小藩とはいえ跡目相続に係る養子縁組なので、正式決定には幕府の許可がいる。といっても小藩のことなので、幕府からの許可が下りないということはまず考えられない。それは君水藩本領と明野領の間の長きに渡る争いが、一つの転換点を迎えたということであった。
 その日、領主が帰還してはじめて、雅勝は忠雅に清水の邸に呼ばれていた。
 領主雅久の無事の帰還は同時に、領主に付き従っていた雅規・雅道・雅規三人の影衆の帰還でもある。既に帰還したその夜の内に忠雅が席を設け、三人の労は充分にねぎらった。雅道は本領滞在時に清水本家ゆかりの医者と対面し、影衆を抜けた後は弟子として預かるという内々の約束も得たという。雅規の望みはまだ忠雅の預かりとはなっているものの、雅勝は清水の家臣となって所帯を持ち、雅道もまた本領で念願通り医者の修行を行う。千代丸君の養子縁組の決定は影衆にとってもまた、一つの大きな転換点を迎えたということであった。
「……そうか、千代丸君と江戸に行くのは雅晴に決めるか」
「ああ。本人が江戸に上ることに興味があるみたいだからな。雅明は江戸にまったく関心がないらしいし、だったら行きたい奴を行かせた方がいいだろう」
 幕府の許可が下り次第、千代丸君は養父嗣久のいる江戸に向かう。その際に付き従う影衆をどうするかが最年長たる雅勝の当面の問題であったのだが、しばらくじっくり今いる面子を見極めて、帰還した雅明とも話し合った上で、雅晴に決定した。雅晴は君水藩の隣藩である生野藩の下級武士の家に生まれたが、祖父と父が早くに亡くなり、経済的に困窮して明野領に売られてきた。雅勝自身も似たような生まれなので理解できるが、武家の少年にとって江戸勤めというのは一種の憧れである。確かにこんな機会でもなければ田舎の小藩の武家に生まれた少年が、江戸で暮らすことなどないだろう。本人にその気があるのなら、雅晴に決めていいのではないか。
 女子ほど劇的ではないにしろ、あの年頃の少年が、ほんのわずかの間に見違えるほど逞しく成長することは、今までに散々見て来たのでわかる。事実、江戸に行けるかもしれないと知った後、奴の言動は以前に比べて少し大人びてきたようだ。
 その他に護衛役件遊び相手として何人か。これは十歳未満の影子を何人が考えている。千代丸君と――雅晴との相性を見て、後でもう少し人選を絞り込みたい。
 影衆の最年長として、影衆を統括する清水家の家長に人員の割り振りを報告していた雅勝は、向かい合った忠雅の返答か途中から生返事になっていることに気がついた。
 この邸に来た時から気になってはいたのだが、顔色が悪い。少し痩せただろうか。目の周囲が落ちくぼんでいるあたり、何日もまともに寝ていないのではないか。
「おい忠雅、お前……大丈夫か?」
 疲れているのではないか、と言おうとして、それはそうだろうと思い直す。飛び地領の分家から本家への養子縁組は君水藩はじまって以来の大事だ。次席家老殿のしなければならないことは多いだろう。その上さらに雅道の行く先を考えて、雅勝の今後の為にまで動いてくれていたのだから、それはもう休む暇などまったくなかったに違いない。
 これがお互い影衆であった頃ならば、いくらでも勤めを代わってやるのだが。これから清水の家臣になるとはいえ下っ端の分際では、家長の仕事を代わることなどできはしない。せめて可能なことはできるだけ他の人間に任せて、少しは休んでほしいと思う。自分自身の先の為ではない。雅勝にとって忠雅が今でも友であるからだ。
 雅勝の本気の心配は伝わったのだろう。憔悴しきった顔で忠雅が顔を上げる。やはりあまり眠れていないのだろう。白目が充血している。
「いや、俺は大丈夫だ。……ただ、千代丸君が江戸に行く前に、お前にやってもらう御役目ができた」
「大丈夫そうには見えないけどな。どんな御役目だ?」
 御役目の中身を言おうとしたのだろう。忠雅は何か言おうと口を開き、しかし何も言わずに口を閉じて頭を振った。こいつがこれほど言い澱むというのは珍しい。そういえば、思い出した。何しろ三年前まで一緒に暮らしていたのでよく知っている。こいつは心に何かあると、すぐに思い悩んで夜寝られなくなる奴だった。
「忠雅、やっぱりお前おかしいぞ。少し休め。寝た方がいい」
「すまない、雅勝。……お前に、死んでもらうことになった」
 さすがに一瞬、絶句した。
 そう来たか――というのが、正直な感想だった。
 一見、軽薄そうに見えて、実はとても面倒見がよくて情に厚いこの男にしてみれば、さぞかし言いにくかったことだろう。思い悩んで寝不足にもなるだろう。――何しろ長い付き合いだ。
 だが決して意外でもなければ驚きでもない。いつか、こんな日がやって来る可能性は、想定していた。
 戻れないと知りながら、旅立っていた年長者の背。三年前まで、忠雅と雅勝は共にそれを見送る側にいた。御役目を告げる側と受ける側に立場が分かれたその日から、いつの日かこんなこともあろうかと、覚悟だけは常にしていた。
 だが何故今なのだろうか。これがもう少し前ならば――こんなこともあろうかと受け入れることも、今よりまだ容易かっただろうに。
「それは……どういうことだ」
 声がかすれている自覚はあった。
 御役目を告げている間中、忠雅の声もまた低くかすれ、聞き取りにくいところさえあった。いや、これは単にこちらの耳と頭が動揺していて、まともに言葉を認識できていないだけだろうか。
「せめて来年までという話は……」
 思わず問うてしまったのは、決して時間を稼ぎたかったわけではなく、それがこれまで雅勝と忠雅の共通の目的だったからだ。年が明ければ雅勝は影衆史上初の二十歳になる。これまで二十歳まで生き残った影衆は一人もいない。だから何としても来年まで生き延びて、下の世代に希望を見せたかった。
「……すまん」
 ――それもさえも無理なのか。
 無理なのだろう。忠雅が影衆の為にこれまでどれだけのことをしてくれたか、知っていたし、その思いは雅勝とて十分理解していた。
「……そうか。わかった」
話を終えた時、部屋の外から虫の声がした。ついこないだまで夏虫の声がうるさかったのに。いつの間に季節が変わっていたのだろう。かなかなかな……と啼き続けるその声は、日暮らしの声だった。
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