38 / 102
8
8-8
しおりを挟む
明野領主武智雅久が帰還したのは、気の早い赤蜻蛉が一匹、二匹、犬脇峠の麓の里を飛び交い始めた頃のことだった。
雅久の長男千代丸君が藩主の嫡男嗣久の養子となることは、藩主と領主直々の会談により内定した。もっとも小藩とはいえ跡目相続に係る養子縁組なので、正式決定には幕府の許可がいる。といっても小藩のことなので、幕府からの許可が下りないということはまず考えられない。それは君水藩本領と明野領の間の長きに渡る争いが、一つの転換点を迎えたということであった。
その日、領主が帰還してはじめて、雅勝は忠雅に清水の邸に呼ばれていた。
領主雅久の無事の帰還は同時に、領主に付き従っていた雅規・雅道・雅規三人の影衆の帰還でもある。既に帰還したその夜の内に忠雅が席を設け、三人の労は充分にねぎらった。雅道は本領滞在時に清水本家ゆかりの医者と対面し、影衆を抜けた後は弟子として預かるという内々の約束も得たという。雅規の望みはまだ忠雅の預かりとはなっているものの、雅勝は清水の家臣となって所帯を持ち、雅道もまた本領で念願通り医者の修行を行う。千代丸君の養子縁組の決定は影衆にとってもまた、一つの大きな転換点を迎えたということであった。
「……そうか、千代丸君と江戸に行くのは雅晴に決めるか」
「ああ。本人が江戸に上ることに興味があるみたいだからな。雅明は江戸にまったく関心がないらしいし、だったら行きたい奴を行かせた方がいいだろう」
幕府の許可が下り次第、千代丸君は養父嗣久のいる江戸に向かう。その際に付き従う影衆をどうするかが最年長たる雅勝の当面の問題であったのだが、しばらくじっくり今いる面子を見極めて、帰還した雅明とも話し合った上で、雅晴に決定した。雅晴は君水藩の隣藩である生野藩の下級武士の家に生まれたが、祖父と父が早くに亡くなり、経済的に困窮して明野領に売られてきた。雅勝自身も似たような生まれなので理解できるが、武家の少年にとって江戸勤めというのは一種の憧れである。確かにこんな機会でもなければ田舎の小藩の武家に生まれた少年が、江戸で暮らすことなどないだろう。本人にその気があるのなら、雅晴に決めていいのではないか。
女子ほど劇的ではないにしろ、あの年頃の少年が、ほんのわずかの間に見違えるほど逞しく成長することは、今までに散々見て来たのでわかる。事実、江戸に行けるかもしれないと知った後、奴の言動は以前に比べて少し大人びてきたようだ。
その他に護衛役件遊び相手として何人か。これは十歳未満の影子を何人が考えている。千代丸君と――雅晴との相性を見て、後でもう少し人選を絞り込みたい。
影衆の最年長として、影衆を統括する清水家の家長に人員の割り振りを報告していた雅勝は、向かい合った忠雅の返答か途中から生返事になっていることに気がついた。
この邸に来た時から気になってはいたのだが、顔色が悪い。少し痩せただろうか。目の周囲が落ちくぼんでいるあたり、何日もまともに寝ていないのではないか。
「おい忠雅、お前……大丈夫か?」
疲れているのではないか、と言おうとして、それはそうだろうと思い直す。飛び地領の分家から本家への養子縁組は君水藩はじまって以来の大事だ。次席家老殿のしなければならないことは多いだろう。その上さらに雅道の行く先を考えて、雅勝の今後の為にまで動いてくれていたのだから、それはもう休む暇などまったくなかったに違いない。
これがお互い影衆であった頃ならば、いくらでも勤めを代わってやるのだが。これから清水の家臣になるとはいえ下っ端の分際では、家長の仕事を代わることなどできはしない。せめて可能なことはできるだけ他の人間に任せて、少しは休んでほしいと思う。自分自身の先の為ではない。雅勝にとって忠雅が今でも友であるからだ。
雅勝の本気の心配は伝わったのだろう。憔悴しきった顔で忠雅が顔を上げる。やはりあまり眠れていないのだろう。白目が充血している。
「いや、俺は大丈夫だ。……ただ、千代丸君が江戸に行く前に、お前にやってもらう御役目ができた」
「大丈夫そうには見えないけどな。どんな御役目だ?」
御役目の中身を言おうとしたのだろう。忠雅は何か言おうと口を開き、しかし何も言わずに口を閉じて頭を振った。こいつがこれほど言い澱むというのは珍しい。そういえば、思い出した。何しろ三年前まで一緒に暮らしていたのでよく知っている。こいつは心に何かあると、すぐに思い悩んで夜寝られなくなる奴だった。
「忠雅、やっぱりお前おかしいぞ。少し休め。寝た方がいい」
「すまない、雅勝。……お前に、死んでもらうことになった」
さすがに一瞬、絶句した。
そう来たか――というのが、正直な感想だった。
一見、軽薄そうに見えて、実はとても面倒見がよくて情に厚いこの男にしてみれば、さぞかし言いにくかったことだろう。思い悩んで寝不足にもなるだろう。――何しろ長い付き合いだ。
だが決して意外でもなければ驚きでもない。いつか、こんな日がやって来る可能性は、想定していた。
戻れないと知りながら、旅立っていた年長者の背。三年前まで、忠雅と雅勝は共にそれを見送る側にいた。御役目を告げる側と受ける側に立場が分かれたその日から、いつの日かこんなこともあろうかと、覚悟だけは常にしていた。
だが何故今なのだろうか。これがもう少し前ならば――こんなこともあろうかと受け入れることも、今よりまだ容易かっただろうに。
「それは……どういうことだ」
声がかすれている自覚はあった。
御役目を告げている間中、忠雅の声もまた低くかすれ、聞き取りにくいところさえあった。いや、これは単にこちらの耳と頭が動揺していて、まともに言葉を認識できていないだけだろうか。
「せめて来年までという話は……」
思わず問うてしまったのは、決して時間を稼ぎたかったわけではなく、それがこれまで雅勝と忠雅の共通の目的だったからだ。年が明ければ雅勝は影衆史上初の二十歳になる。これまで二十歳まで生き残った影衆は一人もいない。だから何としても来年まで生き延びて、下の世代に希望を見せたかった。
「……すまん」
――それもさえも無理なのか。
無理なのだろう。忠雅が影衆の為にこれまでどれだけのことをしてくれたか、知っていたし、その思いは雅勝とて十分理解していた。
「……そうか。わかった」
話を終えた時、部屋の外から虫の声がした。ついこないだまで夏虫の声がうるさかったのに。いつの間に季節が変わっていたのだろう。かなかなかな……と啼き続けるその声は、日暮らしの声だった。
雅久の長男千代丸君が藩主の嫡男嗣久の養子となることは、藩主と領主直々の会談により内定した。もっとも小藩とはいえ跡目相続に係る養子縁組なので、正式決定には幕府の許可がいる。といっても小藩のことなので、幕府からの許可が下りないということはまず考えられない。それは君水藩本領と明野領の間の長きに渡る争いが、一つの転換点を迎えたということであった。
その日、領主が帰還してはじめて、雅勝は忠雅に清水の邸に呼ばれていた。
領主雅久の無事の帰還は同時に、領主に付き従っていた雅規・雅道・雅規三人の影衆の帰還でもある。既に帰還したその夜の内に忠雅が席を設け、三人の労は充分にねぎらった。雅道は本領滞在時に清水本家ゆかりの医者と対面し、影衆を抜けた後は弟子として預かるという内々の約束も得たという。雅規の望みはまだ忠雅の預かりとはなっているものの、雅勝は清水の家臣となって所帯を持ち、雅道もまた本領で念願通り医者の修行を行う。千代丸君の養子縁組の決定は影衆にとってもまた、一つの大きな転換点を迎えたということであった。
「……そうか、千代丸君と江戸に行くのは雅晴に決めるか」
「ああ。本人が江戸に上ることに興味があるみたいだからな。雅明は江戸にまったく関心がないらしいし、だったら行きたい奴を行かせた方がいいだろう」
幕府の許可が下り次第、千代丸君は養父嗣久のいる江戸に向かう。その際に付き従う影衆をどうするかが最年長たる雅勝の当面の問題であったのだが、しばらくじっくり今いる面子を見極めて、帰還した雅明とも話し合った上で、雅晴に決定した。雅晴は君水藩の隣藩である生野藩の下級武士の家に生まれたが、祖父と父が早くに亡くなり、経済的に困窮して明野領に売られてきた。雅勝自身も似たような生まれなので理解できるが、武家の少年にとって江戸勤めというのは一種の憧れである。確かにこんな機会でもなければ田舎の小藩の武家に生まれた少年が、江戸で暮らすことなどないだろう。本人にその気があるのなら、雅晴に決めていいのではないか。
女子ほど劇的ではないにしろ、あの年頃の少年が、ほんのわずかの間に見違えるほど逞しく成長することは、今までに散々見て来たのでわかる。事実、江戸に行けるかもしれないと知った後、奴の言動は以前に比べて少し大人びてきたようだ。
その他に護衛役件遊び相手として何人か。これは十歳未満の影子を何人が考えている。千代丸君と――雅晴との相性を見て、後でもう少し人選を絞り込みたい。
影衆の最年長として、影衆を統括する清水家の家長に人員の割り振りを報告していた雅勝は、向かい合った忠雅の返答か途中から生返事になっていることに気がついた。
この邸に来た時から気になってはいたのだが、顔色が悪い。少し痩せただろうか。目の周囲が落ちくぼんでいるあたり、何日もまともに寝ていないのではないか。
「おい忠雅、お前……大丈夫か?」
疲れているのではないか、と言おうとして、それはそうだろうと思い直す。飛び地領の分家から本家への養子縁組は君水藩はじまって以来の大事だ。次席家老殿のしなければならないことは多いだろう。その上さらに雅道の行く先を考えて、雅勝の今後の為にまで動いてくれていたのだから、それはもう休む暇などまったくなかったに違いない。
これがお互い影衆であった頃ならば、いくらでも勤めを代わってやるのだが。これから清水の家臣になるとはいえ下っ端の分際では、家長の仕事を代わることなどできはしない。せめて可能なことはできるだけ他の人間に任せて、少しは休んでほしいと思う。自分自身の先の為ではない。雅勝にとって忠雅が今でも友であるからだ。
雅勝の本気の心配は伝わったのだろう。憔悴しきった顔で忠雅が顔を上げる。やはりあまり眠れていないのだろう。白目が充血している。
「いや、俺は大丈夫だ。……ただ、千代丸君が江戸に行く前に、お前にやってもらう御役目ができた」
「大丈夫そうには見えないけどな。どんな御役目だ?」
御役目の中身を言おうとしたのだろう。忠雅は何か言おうと口を開き、しかし何も言わずに口を閉じて頭を振った。こいつがこれほど言い澱むというのは珍しい。そういえば、思い出した。何しろ三年前まで一緒に暮らしていたのでよく知っている。こいつは心に何かあると、すぐに思い悩んで夜寝られなくなる奴だった。
「忠雅、やっぱりお前おかしいぞ。少し休め。寝た方がいい」
「すまない、雅勝。……お前に、死んでもらうことになった」
さすがに一瞬、絶句した。
そう来たか――というのが、正直な感想だった。
一見、軽薄そうに見えて、実はとても面倒見がよくて情に厚いこの男にしてみれば、さぞかし言いにくかったことだろう。思い悩んで寝不足にもなるだろう。――何しろ長い付き合いだ。
だが決して意外でもなければ驚きでもない。いつか、こんな日がやって来る可能性は、想定していた。
戻れないと知りながら、旅立っていた年長者の背。三年前まで、忠雅と雅勝は共にそれを見送る側にいた。御役目を告げる側と受ける側に立場が分かれたその日から、いつの日かこんなこともあろうかと、覚悟だけは常にしていた。
だが何故今なのだろうか。これがもう少し前ならば――こんなこともあろうかと受け入れることも、今よりまだ容易かっただろうに。
「それは……どういうことだ」
声がかすれている自覚はあった。
御役目を告げている間中、忠雅の声もまた低くかすれ、聞き取りにくいところさえあった。いや、これは単にこちらの耳と頭が動揺していて、まともに言葉を認識できていないだけだろうか。
「せめて来年までという話は……」
思わず問うてしまったのは、決して時間を稼ぎたかったわけではなく、それがこれまで雅勝と忠雅の共通の目的だったからだ。年が明ければ雅勝は影衆史上初の二十歳になる。これまで二十歳まで生き残った影衆は一人もいない。だから何としても来年まで生き延びて、下の世代に希望を見せたかった。
「……すまん」
――それもさえも無理なのか。
無理なのだろう。忠雅が影衆の為にこれまでどれだけのことをしてくれたか、知っていたし、その思いは雅勝とて十分理解していた。
「……そうか。わかった」
話を終えた時、部屋の外から虫の声がした。ついこないだまで夏虫の声がうるさかったのに。いつの間に季節が変わっていたのだろう。かなかなかな……と啼き続けるその声は、日暮らしの声だった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を


暁のミッドウェー
三笠 陣
歴史・時代
一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。
真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。
一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。
そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。
ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。
日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。
その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
(※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
独孤皇后物語~隋の皇帝を操った美女(最終話まで毎日複数話更新)
結城
歴史・時代
独孤伽羅(どっこ から)は夫に側妃を持たせなかった古代中国史上ただ一人の皇后と言われている。
美しいだけなら、美女は薄命に終わることも多い。
しかし道士、そして父の一言が彼女の運命を変えていく。
妲己や末喜。楊貴妃に褒姒。微笑みひとつで皇帝を虜にし、破滅に導いた彼女たちが、もし賢女だったらどのような世になったのか。
皇帝を操って、素晴らしい平和な世を築かせることが出来たのか。
太平の世を望む姫君、伽羅は、美しさと賢さを武器に戦う。
*現在放映中の中華ドラマより前に、史書を参考に書いた作品であり、独孤伽羅を主役としていますが肉付けは全くちがいます。ご注意ください。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。
松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。
そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。
しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。
【新版】優しい狩人 【『軍神マルスの娘』と呼ばれた女 1】 ~第十三軍団第七旅団第三十八連隊独立偵察大隊第二中隊レオン小隊~
take
歴史・時代
拙著「アサシンヤヨイ」シリーズ、第一作の新版になります。
活動報告でもお伝えしておりますが、先行してノベルアッププラスさんにUPしたものを投稿します。
シリーズ全体との整合性はそのまま、心理描写、戦闘シーンなどを増量しました。
どうぞよろしくお付き合いください。
なお、カテゴリーは「歴史・時代」としました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる