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法勝寺に帰り着いた時、夏の陽射しが残った寺には、まだ子ども達が何人か残っていた。
庭木の枝には葉が茂り、砂利の合間から生えた草の丈も大分高くなった。家賃を入れずに寺に置いてもらっている以上、庭木の手入れや破れた障子の修繕やらは雅勝の仕事である。明日あたりは寺にいて色々片付けようかと思っていた。
雅勝が今日は早く帰ってくることを和尚から聞いていたのかもしれない。開け放たれた手習い部屋の奥で、手習い所の少女達とるいが千代紙で何かを折っていた。
御見の方の遣いでちょくちょく寺にやって来るので、るいは既に手習い所の子ども達には顔馴染みである。数人で固まって楽しそうに折り紙をしている姿を少し遠くから見て、砂利を踏みしめる歩みが止まった。
女には他にいくらでも売り先があるからだろう。影衆に少女が売られてくることはない。だから雅勝はこれまで、この年頃の娘がこれほど劇的に変わって行くことを知らなかった。
綺麗になったものだと思う。最初に会った時は服装を抜きにしても少年にしか見えなかった。それがいつしか年頃の娘に見えるようになって、今では充分女に見える。――それも若くてとても綺麗な女に。
武智行久がどういう人物なのかまったく知らないが、義姉と甥の側近くに仕える彼女を見て欲しいと思った気持ちならば理解ができる。そしてそれは、影衆上がりで次席家老の家の下っ端の武士に嫁ぐより、はるかに幸せなことではないのか。
「あ、先生!」
しばらく雅勝が手習い所にいなかったので、子ども達が喜んで駆け寄ってくる。手習い張やそろばんを手にまとわりついてきた子ども達の相手をしようとした時、部屋の片づけをしていた和尚が子ども達に声をかけた。
「――お前たち、もうすぐ暗くなるぞ。早く帰れ」
仔細を話したわけではないが、二人で暮らす家が見つかるまで置いてくれと言ったので、一緒に暮らす相手に誰を想定しているかは気づいていただろう。和尚が子ども達を全員帰らせて自分は本堂に引っ込んだので、手習い所にはすぐに雅勝とるいの二人しかいなくなった。
「あの……雅勝殿」
刀を外して縁側に座った雅勝の隣にやって来た彼女の姿を直視ができない。これほど近くにいるのに。共に先を生きて行く方法を真剣に考えて、まさか本当は最初から手の届かないところにいたとは、笑い話にもなりはしない。
「……行久様のこと、忠雅から話は聞いた」
「はい」
「それでお前は、どうするんだ?」
「どうするって……」
るいが目を開いて絶句したので、何か言ってはいけないことを言ってしまったのだということはわかった。だが彼女と出会うまでまともに係ったことがない所為なのか、女の思考回路が理解できない。他になんと言っていいのかわからず、結局、黙り込むしか術がなかった。
「どうしてそんなことを聞くんですか?そんなの決まっているじゃないですか。お断りします」
「しかし……」
そもそも武家の婚姻とは家の都合で決めることであって、本人の心情を斟酌しない。雅勝の場合は武家といっても元から大した家ではないし、樋口の家自体がもう潰れているので考えなくともよかったが、筆頭家老の家の娘が領主の弟に嫁ぐのであれば、それはもはや既定路線であろう。
「どうして言ってくれなかったんだ。お前は川口様の――」
元忍び里の娘が何故、正室の側近くに仕えることができたのか。母親の法要に帰る彼女にどうして御見の方がわざわざ影衆を付けたのか。今思えば些細な疑問は多々あったが、ようやく氷解した。そしてはじめから知っていたならば雅勝は決して、彼女を欲しいとは思わなかっただろう。
「――わたしは猪瀬の熊の娘です!それはあなただって知ってるじゃないですか!」
思い切り何かを投げつけられて、それが畳紙に包まれた自分の着物だと気が付いた。そういえば、直してもらえないかと頼んでいたのだったか。拾い上げた着物は斬られた箇所が丁寧に繕ってあって、一見、刃物の傷とはわからないようになっていた。
「明日のお昼に行久様の部屋に呼ばれているんです」
一瞬ぎくりとして、側女ではなく正室として望まれているわけだし、さすがに昼日中に夜伽などという滅多なことはないかと思い直す。――だがこれを動揺するなと言う方が無理だ。
「あの方が、何を考えてこんなことを言いだしたのかわからないですけど、そこできちんとお断りします。……お願いですから、わたしの気持ちを疑うことはやめて下さい」
膝の上で握りしめた小さな拳に、涙の滴が滴った。るいは人前で涙を見せたがらない。初めて涙を見たのは忍びの山里で、雅勝が素手で狼を殺した時のことだ。血まみれの手にしがみついて泣かれた涙が決意を固めた一つの大きな要因だったので、今も明確に覚えている。
今、彼女は多く泣いたわけではなかった。滴った涙の雫は一滴だけで、黒い瞳は濡れたまま、少々葉の茂り過ぎた寺の庭木に向けられている。
陣屋が襲撃を受けた時も、加賀谷の街でも、そして水谷の外れの農家の小屋でもそうだった。出会ってからずっと、この娘のこんな顔ばかり見て来たような気がする。涙を堪える横顔を痛ましく感じて、本当は濡れた手を握ってやりたかったのに、この時、どうしても手を伸ばすことができなかった。
しばらく手習い所を放っておいたので、少しは真面目に寺のことをやっておかないと和尚に追い出される危険がある。子ども達に教える教本を書き写そうと帰りに貸本屋に寄ってきたので、自室に戻って荷を解いて、灯りを入れて机に向かって墨をすって――その手が途中で止まってしまった。
わずかに開いた窓から覗く空は薄灰色の雲で曇っている。日が落ちたというのにじっとりと蒸し暑い。雨が降ってきたのか、ぽつぽつと天井を打つ音がした。その陰鬱な音を聞いていると、少し前に故郷であったことを思いだした。
人は生まれてくる家を選べない。忠雅やるいの生まれもそうだし、雅勝が子どもを売らないとならないほど貧しい武家に生まれたのもの己で選んだわけではない。それは百姓であっても大名であっても将軍家であっても同じだろう。――だからこそ人はそこに執着し、こだわり、捕らわれる。
正直に言うなら、雅勝自身も捕らわれている。時折こんな風に思い出しては、もうすぐ二十歳にもなろうといういい年をした男がいつまでも母親恋しい、妹恋しいでもないと自分で自分に言い聞かせて何とかやり過ごしているのだから、我ながら情けないと感じている。
ずっと持ち歩いていた袱紗の守り袋は、隠し戸の底にあるわずかばかりの蓄えと一緒にしまい込んで見えないふりをしていた。中身が中身なので捨ててしまうのはまずいかもしれないが、だったら燃やしてしまえばいいのに、今はまだ痛くて触れたくない――というのが正直な心情だった。
よやく墨が用意できたのに、まったく身が入らず、手に取った筆を置いてしまった。
――わたしは猪瀬の熊の娘です!それはあなただって知ってるじゃないですか!
人は生まれてくる家を選べない。だが彼女はそれを己の意思で選ぶというのか。自分は筆頭家老の息女ではなく、忍び里の長の娘であると。それこそ、雅勝を相手に激高して着物を投げるつける程に。
――どうか娘を……るいをよろしく頼み申す。
雅勝自身に子どもはいないが、妹が生まれてから三年あまり、半分親のように育てた経験上、子どもの幸せを願う気持ちは実感として理解ができた。
例え二度と会えなくても。名乗ることさえできなくとも。どれほど遠くにいても永遠に願っている。幸せであってくれと。今はまだ痛くて触れられない記憶の中で、その気持ちにだけは嘘はない。
ほとんど見ず知らずの男に頭を下げて震えていた逞しい肩。あれを親でないと思えという方が無理だ。大体、あの時、こちらだって細心の注意を払って誠心誠意振舞ったのだ。――本気で妻にしたい相手の親だと思えばこそ。
るいが自分自身を猪瀬の熊の娘だと思っているのならば、雅勝もそう考えるべきではないのか。それが彼女と共に生きたいと願った男にできる精一杯の誠意ではなかったか。
不意に打たれたように悟った気がして、文机の上で頭を抱えてしまった。
「これは……、全面的に俺が悪いな」
あの娘の芯の強さは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。るいは常に自分の意志で選んでいる。自分自身が何者であるか。そして共に生きる相手までも。明野領において影衆がどのような存在であるか、彼女とて今はもう知らない訳でもあるいまいに。
自分の人生を自分のものとして生きる強さ。それは金で買われた人間には決して手に入らないものだと思っていた。しかし本当は違ったのではないか。確かにこの世に金で買えないものはないのかもしれない。だが歯を食いしばって踏みとどまってでも、金に換えてはならないものがあるのではないか。――自分自身の人生だけは。
ようやく、泣かれたのではなく泣かせたのだと思い至った。共に生きると決めたのであれば、この事態に彼女一人で立ち向かわせるべきではなかった。これは熊殿に殴られても仕方がないかもしれない。
現実問題として、奥座敷に勤める侍女を影衆が呼び出すことはできない。雅勝から会おう思えば以前一度やったように、言伝を頼むか手紙でも渡すしかない。ようやく、教本を書き写すより先に書くべきものがあることに思い至った時、本降りになった雨が激しく天井を叩く音がした。
庭木の枝には葉が茂り、砂利の合間から生えた草の丈も大分高くなった。家賃を入れずに寺に置いてもらっている以上、庭木の手入れや破れた障子の修繕やらは雅勝の仕事である。明日あたりは寺にいて色々片付けようかと思っていた。
雅勝が今日は早く帰ってくることを和尚から聞いていたのかもしれない。開け放たれた手習い部屋の奥で、手習い所の少女達とるいが千代紙で何かを折っていた。
御見の方の遣いでちょくちょく寺にやって来るので、るいは既に手習い所の子ども達には顔馴染みである。数人で固まって楽しそうに折り紙をしている姿を少し遠くから見て、砂利を踏みしめる歩みが止まった。
女には他にいくらでも売り先があるからだろう。影衆に少女が売られてくることはない。だから雅勝はこれまで、この年頃の娘がこれほど劇的に変わって行くことを知らなかった。
綺麗になったものだと思う。最初に会った時は服装を抜きにしても少年にしか見えなかった。それがいつしか年頃の娘に見えるようになって、今では充分女に見える。――それも若くてとても綺麗な女に。
武智行久がどういう人物なのかまったく知らないが、義姉と甥の側近くに仕える彼女を見て欲しいと思った気持ちならば理解ができる。そしてそれは、影衆上がりで次席家老の家の下っ端の武士に嫁ぐより、はるかに幸せなことではないのか。
「あ、先生!」
しばらく雅勝が手習い所にいなかったので、子ども達が喜んで駆け寄ってくる。手習い張やそろばんを手にまとわりついてきた子ども達の相手をしようとした時、部屋の片づけをしていた和尚が子ども達に声をかけた。
「――お前たち、もうすぐ暗くなるぞ。早く帰れ」
仔細を話したわけではないが、二人で暮らす家が見つかるまで置いてくれと言ったので、一緒に暮らす相手に誰を想定しているかは気づいていただろう。和尚が子ども達を全員帰らせて自分は本堂に引っ込んだので、手習い所にはすぐに雅勝とるいの二人しかいなくなった。
「あの……雅勝殿」
刀を外して縁側に座った雅勝の隣にやって来た彼女の姿を直視ができない。これほど近くにいるのに。共に先を生きて行く方法を真剣に考えて、まさか本当は最初から手の届かないところにいたとは、笑い話にもなりはしない。
「……行久様のこと、忠雅から話は聞いた」
「はい」
「それでお前は、どうするんだ?」
「どうするって……」
るいが目を開いて絶句したので、何か言ってはいけないことを言ってしまったのだということはわかった。だが彼女と出会うまでまともに係ったことがない所為なのか、女の思考回路が理解できない。他になんと言っていいのかわからず、結局、黙り込むしか術がなかった。
「どうしてそんなことを聞くんですか?そんなの決まっているじゃないですか。お断りします」
「しかし……」
そもそも武家の婚姻とは家の都合で決めることであって、本人の心情を斟酌しない。雅勝の場合は武家といっても元から大した家ではないし、樋口の家自体がもう潰れているので考えなくともよかったが、筆頭家老の家の娘が領主の弟に嫁ぐのであれば、それはもはや既定路線であろう。
「どうして言ってくれなかったんだ。お前は川口様の――」
元忍び里の娘が何故、正室の側近くに仕えることができたのか。母親の法要に帰る彼女にどうして御見の方がわざわざ影衆を付けたのか。今思えば些細な疑問は多々あったが、ようやく氷解した。そしてはじめから知っていたならば雅勝は決して、彼女を欲しいとは思わなかっただろう。
「――わたしは猪瀬の熊の娘です!それはあなただって知ってるじゃないですか!」
思い切り何かを投げつけられて、それが畳紙に包まれた自分の着物だと気が付いた。そういえば、直してもらえないかと頼んでいたのだったか。拾い上げた着物は斬られた箇所が丁寧に繕ってあって、一見、刃物の傷とはわからないようになっていた。
「明日のお昼に行久様の部屋に呼ばれているんです」
一瞬ぎくりとして、側女ではなく正室として望まれているわけだし、さすがに昼日中に夜伽などという滅多なことはないかと思い直す。――だがこれを動揺するなと言う方が無理だ。
「あの方が、何を考えてこんなことを言いだしたのかわからないですけど、そこできちんとお断りします。……お願いですから、わたしの気持ちを疑うことはやめて下さい」
膝の上で握りしめた小さな拳に、涙の滴が滴った。るいは人前で涙を見せたがらない。初めて涙を見たのは忍びの山里で、雅勝が素手で狼を殺した時のことだ。血まみれの手にしがみついて泣かれた涙が決意を固めた一つの大きな要因だったので、今も明確に覚えている。
今、彼女は多く泣いたわけではなかった。滴った涙の雫は一滴だけで、黒い瞳は濡れたまま、少々葉の茂り過ぎた寺の庭木に向けられている。
陣屋が襲撃を受けた時も、加賀谷の街でも、そして水谷の外れの農家の小屋でもそうだった。出会ってからずっと、この娘のこんな顔ばかり見て来たような気がする。涙を堪える横顔を痛ましく感じて、本当は濡れた手を握ってやりたかったのに、この時、どうしても手を伸ばすことができなかった。
しばらく手習い所を放っておいたので、少しは真面目に寺のことをやっておかないと和尚に追い出される危険がある。子ども達に教える教本を書き写そうと帰りに貸本屋に寄ってきたので、自室に戻って荷を解いて、灯りを入れて机に向かって墨をすって――その手が途中で止まってしまった。
わずかに開いた窓から覗く空は薄灰色の雲で曇っている。日が落ちたというのにじっとりと蒸し暑い。雨が降ってきたのか、ぽつぽつと天井を打つ音がした。その陰鬱な音を聞いていると、少し前に故郷であったことを思いだした。
人は生まれてくる家を選べない。忠雅やるいの生まれもそうだし、雅勝が子どもを売らないとならないほど貧しい武家に生まれたのもの己で選んだわけではない。それは百姓であっても大名であっても将軍家であっても同じだろう。――だからこそ人はそこに執着し、こだわり、捕らわれる。
正直に言うなら、雅勝自身も捕らわれている。時折こんな風に思い出しては、もうすぐ二十歳にもなろうといういい年をした男がいつまでも母親恋しい、妹恋しいでもないと自分で自分に言い聞かせて何とかやり過ごしているのだから、我ながら情けないと感じている。
ずっと持ち歩いていた袱紗の守り袋は、隠し戸の底にあるわずかばかりの蓄えと一緒にしまい込んで見えないふりをしていた。中身が中身なので捨ててしまうのはまずいかもしれないが、だったら燃やしてしまえばいいのに、今はまだ痛くて触れたくない――というのが正直な心情だった。
よやく墨が用意できたのに、まったく身が入らず、手に取った筆を置いてしまった。
――わたしは猪瀬の熊の娘です!それはあなただって知ってるじゃないですか!
人は生まれてくる家を選べない。だが彼女はそれを己の意思で選ぶというのか。自分は筆頭家老の息女ではなく、忍び里の長の娘であると。それこそ、雅勝を相手に激高して着物を投げるつける程に。
――どうか娘を……るいをよろしく頼み申す。
雅勝自身に子どもはいないが、妹が生まれてから三年あまり、半分親のように育てた経験上、子どもの幸せを願う気持ちは実感として理解ができた。
例え二度と会えなくても。名乗ることさえできなくとも。どれほど遠くにいても永遠に願っている。幸せであってくれと。今はまだ痛くて触れられない記憶の中で、その気持ちにだけは嘘はない。
ほとんど見ず知らずの男に頭を下げて震えていた逞しい肩。あれを親でないと思えという方が無理だ。大体、あの時、こちらだって細心の注意を払って誠心誠意振舞ったのだ。――本気で妻にしたい相手の親だと思えばこそ。
るいが自分自身を猪瀬の熊の娘だと思っているのならば、雅勝もそう考えるべきではないのか。それが彼女と共に生きたいと願った男にできる精一杯の誠意ではなかったか。
不意に打たれたように悟った気がして、文机の上で頭を抱えてしまった。
「これは……、全面的に俺が悪いな」
あの娘の芯の強さは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。るいは常に自分の意志で選んでいる。自分自身が何者であるか。そして共に生きる相手までも。明野領において影衆がどのような存在であるか、彼女とて今はもう知らない訳でもあるいまいに。
自分の人生を自分のものとして生きる強さ。それは金で買われた人間には決して手に入らないものだと思っていた。しかし本当は違ったのではないか。確かにこの世に金で買えないものはないのかもしれない。だが歯を食いしばって踏みとどまってでも、金に換えてはならないものがあるのではないか。――自分自身の人生だけは。
ようやく、泣かれたのではなく泣かせたのだと思い至った。共に生きると決めたのであれば、この事態に彼女一人で立ち向かわせるべきではなかった。これは熊殿に殴られても仕方がないかもしれない。
現実問題として、奥座敷に勤める侍女を影衆が呼び出すことはできない。雅勝から会おう思えば以前一度やったように、言伝を頼むか手紙でも渡すしかない。ようやく、教本を書き写すより先に書くべきものがあることに思い至った時、本降りになった雨が激しく天井を叩く音がした。
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