茜さす

横山美香

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 雅勝が問題ないと判断した肩の傷を放置することをるいが許さなかった。どうしても手当てすると言って聞かず、今はまだあまり大っぴらに出来ないにも係らず、着ている物を引き剥がそうとされて、正直なところかなり困った。
 日が傾く頃には夏の盛りのような暑さも大分やわらいだ。水浴び中の嫡子襲撃騒動の後始末を終えた後、雅勝はるいと陣屋からも法勝寺からも程近い場所にある茶屋の一室――茶屋とは名ばかりの男女の密会を売りにする場所――いわゆる出合い茶屋にいた。
 傷の手当してくれるのはありがたいのだが、まさか、陣屋の一角にある彼女の部屋に行くわけにはいかない。法勝寺の自室で着物を脱ぐのは雅勝が嫌だった。したがってこの場所を選んだわけだが、場所と存在は知っていても、中に入るのは初めてのことだ。仮祝言の後、明野領までの帰りは泊まる部屋が一室で済んだので路銀が足りたわけだが、場所が場所だけに嫌がるかと思った。それが案外あっさりとついてきたあたり、るいもまた、二人きりで他の目がないところでゆっくり話をしたかったのかもしれない。
 何となくもっと薄暗い空間を想像していたのだが、畳三つほどの部屋に鏡と衝立と夜具があるだけの意外とこざっぱりとした場所だった。敷いてあった夜具が邪魔だったので壁側にずらして空間を空けたのだが、これは畳んでしまった方がよかったかもしれない。
「よく来るんですか?こういうところ」
「来る訳ないだろう。こんなところ、一人で来るか、普通」
「……そうなんですか?」
 何故そこで疑わし気な声を出すのか。まったく自慢にもならないが、妓楼で当てがわれる遊女を除けば、明野領でまともに顔を合わせて口を聞いた女など、御見の方と菊乃と手習い所の子どもの母親くらいのものである。
 盥の水で傷を洗って、消毒して傷薬を塗った後に布で覆ってさらしで固定する。前にもしてもらったことがあったが、彼女は傷の手当てが上手い。あっという間にすべて完了し、脱いでいた着物を着直そうと手を伸ばしかけた時、背中にひんやりしたものが触れた。傷の手当てを終えたるいが、雅勝の背に額を押し当てている。
「……千代丸君様が養子になったら、こんなことは終わるんですか?」
「それは……」
 後で少し探ってみようと思ってはいたのだが、雅勝の感覚としては今日の襲撃は本領の意思ではないような気がしていた。明野領側が決して一枚岩ではないように、本領にも恐らく千代丸君の養子縁組をおもしろく思わない筋はあるだろう。敢えて追いかけて息の根を絶たなかったのは、うまくすれば襲撃があったことを利用して、養子縁組の交渉を有利に進められるかもしれないと考えたからだが、そこから先は雅勝の範疇を越え、忠雅の仕事である。
 無論、るいとて、それが雅勝に答えられる問いかけではないことはわかってはいるのだろう。少しの間背中に額を押し当てた後、顔を上げて手当てに使った布やさらしを片付け始めた。その目がわずかに赤いような気がして、ようやく思い至る。いかに彼女とて初めでだったのかもしれない。――目の前に斬られた腕が飛んでくるなんてことは。
 話題を変えたい気持ち半分、そして結構切実な願い半分の気持ちで、肩の部分を斬られた自分の着物を差し出して、雅勝はるいに問いかけてみた。
「……これ、直らないものか?」
「はい?」
 一度は出て行くつもりだった法勝寺の和尚には、二人で暮らす家が決まるまで今しばらく置いてくれと伝えてあった。衣食住のうち、住は手習い所を手伝うことが家賃代わりで、寺の食事の味気無さを耐えれば食も確保できる。しかし当然ながら衣は自分で何とかしないとならないので、古着屋でいつもできるだけ安い着物を買い求めるのだが、御役目上、しょっちゅう斬られたり刺されたり引っ掛けたりして布が駄目になる。元々手先は器用なので、継ぎを当てたり、裂けたところを直したりは自分でやってきたのだが、すっぱり斬られた着物を刃傷とわからないように直すというのは、男の雅勝の手には余った。
「まさか刃傷のあるまま子ども達の前に、着て出るわけにもいかないからな。直るものなら直してもらえると有難いんだが」
「わかりました。やってみます。……一回、解いてみてもいいですか?」
「ああ、それはまったく構わない」
 真剣な顔をして布を見ていたるいが顔を上げる。雅勝の場合、袖丈の合った着物はたいてい身幅が余るので、何なら詰めてしまっても構いはしない。
 買った時から古着で、その後も何度か水を潜ってへたっている着物を手に抱き、るいは何故か楽しそうに笑った。
「お方様に感謝しないと。わたし、元々あんまりお針は得意じゃなかったんです」
 忍び里のおかみさん達に一通りのことは習ったし、やってできない訳ではないのだが、これまであまり熱心にやってこなかったので縫い上げるのに時間がかかる。最初に明野領にやってきた時、御見の方からそれでは嫁いだ時に家族全員の着物の世話をできないときつくお達しを受け、領主や嫡子の着る物を手ずから縫い上げる正室に、お針を一から習い直したのだという。お陰で今では浴衣や単衣を何とか一人で仕上げられるようになったのだと言った。
 本当は苦手なことはしないでいいと言ってやれればいいのだろうが、この先、雅勝一人の稼ぎで二人分の口を養うとなると、妻には繕いものや仕立てものをしてもらわないと現実問題として暮らしていけないだろう。それで果たして暮して行けるのかどうか、やってみないとわからないのが情けないところではあるが。
「あの……一枚、新しいものも縫ってみていいですか?」
「俺のをか?」
「はい。袷はまだ無理なんで単衣だけでも。でも今からわたしが縫うと、着られるのは来年の夏になりますけどね」
 その言葉に胸を衝かれた気がして、咄嗟に何も言えなかった。
 ――俺に来年の夏があるのか。
 何しろ、当面の目標が来年の年明けまで生き延びることだったので、来年の夏に自分が何をしているかなど具体的に考えたことはなかった。だが所帯を持つと決めた以上、これまでのように刹那的に今を生きているだけではいけないのだろう。――何しろ、この先は一人ではないのだから。
 しかし奥座敷勤めで最低限の衣食住は確保されているとはいえ、彼女が自由になる時間はそうあるわけではない。その貴重な時間を俺なんかの着るものに使ってしまっていいのだろうか。
「本当はちょっと、うらやましかったんです。お方様がお殿様の着物を縫っているのを見て、わたしも縫ってみたいなぁって。だから嬉しいです」
 あまりにも嬉しそうに返されて、思わず彼女の手の中の自分の着物ごと抱き締めてしまった。――抱き寄せた雅勝の腕の中で、るいはとても幸せそうに笑っていた。
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