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山里の祝言など簡素なもので、親しい人達が集まって祝いの膳を囲み、新夫婦が形ばかりの盃を交わせばそれで事足りる。特に今宵は仮祝言なので、一刻もしないうちに、るいは寝間着姿で離れに用意された寝所にいた。
もちろん、ここはるいの家なので、離れには何度も入ったことがある。るいが生まれる前に亡くなった祖父母が暮らしていた場所だそうだが、家族が父とるいだけになってしまった後はほとんど使われていなかった。その使われていない部屋を塵一つないくらいに掃き清め、あり合わせの材料でご馳走をこさえ、どこかにしまってあった母の打掛まで引っ張り出してきたのだから、忍び里のおかみさん集団の底力はすさまじい。
実のところ、途中で何度か戦いを挑もうとしたのだが、父はるいの嘘に騙されている側なので援軍にはならず、唯一事情を知っている仮祝言の相手が戦うことを放棄して適当に話を合わせることに終始していたので、まったく戦いにもならなかった。とは言え、もとは自分が蒔いた種なので、まさか雅勝に恨み言を言うわけにもいかない。これに懲りて、今後は安易な嘘を吐かないようにしようと固く心に誓う。
この後はようやく彼と二人だけで顔を合わせて、今後の算段をすることができる。ただ今、それが幸いなのかどうかわからなくて、るいは自分の他に誰もいない部屋の中央付近から視線を逸らした。
枕屏風の陰に夜具が二組。隙間なくきっちりと敷き詰められていて、枕二つが隣合わせで並んでいるのが妙に生々しい。
さすがにこの光景を直視できずに、縁側から外を眺めていると、半月なのに妙に明るい月だった。明野領で暮らしてみて知ったのだが、この山里から見える星は近い。誰かに刃物ですっぱり斬られたような半月よりもはるかに近いところで、大小様々の星が瞬いている。
季節は初夏に入りかけていて、夜風が寒くもなく温くもなく心地よい時期だ。もう少し経てばこの辺りでは蚊帳を吊るさないとやぶ蚊がひどくて寝られたものではないので、今が一番よい季節といえた。
どれくらいそうして一人で外を見ていただろうか。廊下から離れの部屋に入る襖が開いて、来るべき人が入ってきた。これもおかみさん達の手によるものだろう。寝間着に着替えている。るいが洗って手当てした狼の牙の傷は軽傷で、もう包帯に血も滲んでいないようだった。
法勝寺で着流し姿は何度か見たけれど、当然、寝間着姿など見たこともない。るいは部屋の中にあるものだけでなく、一緒にいる人の姿も直視ができなかった。
彼はおかみさん集団に戦いを挑んではいなかったのだが、少々疲れた顔をしているのは当然か。枕屏風の陰にあるものを無視して通り過ぎ、雅勝もまた縁側の柱に背を預けて座って、水差しの水で喉を潤している。
「……あれは結構疲れたな」
「あの、さっきはおばさん達がすみませんでした」
「確かにあれは凄まじかったが……、お前はこの里で熊殿や皆に慈しまれて育ったんだな」
仮祝言の時、るいの父にそちらのご両親はと問われて、即座に「二人とも既に身罷った」と答えていたことを思い出した。一瞬、この里に来る前に彼の故郷であったことを思い出して苦しくなりそうだったが、雅勝は今、至極穏やかな表情で夜風に吹かれている。
「そうですね。大切にしてもらったと思います」
実母の記憶は朧だけど、いつも側にはおかみさん達がいて、寂しいと思ったことはない。父には反発して冷たい態度を取ったこともあったけど、今日の父の言動に感じるものがなかったと言えば嘘になる。そんな母親代わりの女性たちと、たった一人の父親に嘘を吐いたのだと今更ながらに思い至って、胸の奥が痛くなった。そして何よりこんな茶番劇に付き合って、盃事の真似までしてくれたこの人に心底申し訳ないと思う。
「雅勝殿」
「どうした?」
「本当に色々とすみませんでした。明日の出立前にはきちんと父に話をして、わたしと父とで皆に否定します。話を合わせてくれて、ありがとうございました」
るいが姿勢を正したので、雅勝もまた寄り掛かっていた柱から身を起こしてるいを見た。何か言おうと口を開いて、口をつぐんで、再び口を開く。その気になればいくらでも嘘八百並べられる人が、言葉を探しあぐねているように見える。
「……否定しないとならないか」
「はい?」
「いや、伊達や酔狂で、なかなかあの熊殿を舅殿とは呼べないぞ」
それはそうだろうと思うのだが、否定しなければ少なくともこの里においては、彼とるいとは夫婦ということになってしまう。まあ、雅勝がこの里にやってくることなど二度とないだろうから、構わないと言えないこともないのだが――いや、それは本当に構わないのだろうか。
「俺は構わない。もちろん、お前が嫌でなければの話だが」
「えっと、あの、雅勝殿、……なんだか求婚されてるみたいに聞こえますよ?」
本気で意味がわからなかったので、あえて冗談めかして言ってみる。しかし冗談だとしたらこれは随分と性質のよくない冗談だ。――少なくとも、るいにとっては。
正直なところ、今回の仮祝言騒動は心のどこかで辛かった。本当のことではないのに。本当に求められたわけでも、添えるわけでもないのに、よりにもよって想い人の隣で花嫁のふりをして、親しい人達から祝福を受けるなんてことは。
「みたいではなく、俺はそのつもりだが。もちろん、無理にとは言わない。急ぎもしないから、明野領に戻った後にでも気長に考えてみておいてくれ」
一瞬、言われたことの意味がわからずに目を瞬く。自分でも気づかぬうちに、どうして……と囁いていたらしい。るいと向き合った状態で、雅勝は少し照れたように口元を緩ませた。
「お前のお陰だからな」
「え?」
「俺も俺の人生に夢を見てみたくなったんだ」
冗談のようには聞こえなかった。るいはこの若い男の家族というものに対する強い思いを知っている。こんなことで冗談を言うような人ではないし、現実に雅勝の表情は嘘偽りを言っているようには見えない。
――もうできることは何もないかと思っていた。
御見の方から事情を聴いた時、すぐにこの地に湧く眼病の湯のことを思い出した。影衆の任務のすべてを知るわけではないけれど、目に異変を抱えながら務まる役目ではないことは容易に想像がつく。ただでさえ傷だらけの男がこれ以上傷つく――下手をすれば命を失うかもしれないと考えるのは、るいにとってたまらなく辛いことだった。
何もできない。でも何かしたいと思ってしまうことが、自己満足に過ぎないことは自覚している。だがこの後、明野領に戻ってしまえば、雅勝はこれまで通り影衆に戻り、るいには奥座敷の侍女としての生活がある。この先、るいにできることといえば、これ以上あまり傷つかないでほしいと祈ることくらいしかないかと思っていた。
だけどそんなことが許されるのか。――この先、誰よりも近くにいて、誰よりも最初にこの人の身を案じるなんてことを、彼はるいに許してくれるのか。
「あと、どこか野宿できそうなところを教えてくれ。一応、俺も男だしな。……あれは、まずい」
ずっとないものとして無視していた二組の布団からあからさまに目を逸らしているので、るいはそこではじめて、雅勝もまた、実はその場所を充分に意識していたのだと知った。
枕屏風の外の壁には長刀と脇差しが立てかけてあって、その横の乱れ箱に彼が着ていた着物が入っていた。そういえば破れた袖はどうしたのだろうと思う。大して広くはない部屋の中央にある夜具を見ないように慎重に視線を逸らしながら、雅勝は刀と着物に手を伸ばそうとした。
「……嬉しい」
「いや、俺はどこかここ以外で寝られるところを教えてくれと言ったのであって……、今お前なんと言った?」
「嬉しいです」
るいの言葉が彼のところに届くまで、随分と時間がかかったらしい。そのままの姿勢でしばらく固まった後、雅勝は伸ばしかけていた手を引いてゆっくりとこちらを向いた。
「いや、まったく急いでないから、焦るな。ゆっくり時間をかけて考えろ。焦ったっていいことなんか何もないぞ」
「わたしは焦ってないですし、時間をかけたって、答えは変わりませんけど」
どちらかといえば、今、焦っているのは雅勝の側だろう。態度を取り繕う余裕さえなくなったのか、その場にあぐらをかいて座って、額にかかる前髪を節くれだった指でかき分けている。
しばし愕然といった感じで押し黙った後、どうやらもう一度水を飲んで落ち着こうとしたようなのだが、先ほど水を飲んでいた湯飲み茶碗を取ろうとした手が、すぐそこにあるものを掴み損ねた。茶碗が縁側の木床を転がって、板と板の隙間に残っていた水が染み込んで行く。この男らしからぬ間の抜けた行動に、るいはまた彼のことが心配になってしまった。
「あの、雅勝殿?大丈夫ですか?」
一瞬、まさか見えていなかったのかと思って本気で心配になったのだが、そういうわけではなかったらしい。転がった湯呑を正確に拾って戻して、大真面目に問いかけてきた。
「るい、お前……正気か?」
まさか正気を疑われているとは思わなかったので、思わず吹き出してしまった。吹き出しながら雅勝の表情を見て、あからさまな困り顔を見つけてまたおかしくなる。
この人のこれまで見たことのない表情を見ることが、これほどまでに楽しいとは知らなかた。笑い過ぎて目の縁から溢れた涙に向けて、男の指が伸びてきた。涙をぬぐった手で肩を掴まれ上向きにされる。ものすごく近い位置で、涙の浮いた目をまじまじと覗き込みながら、今度は眉間に皺を寄せた難しい顔をしている。
「お前が構わないなら、戻ったら本気で殿とお方様に許しを得る方法を考えるぞ。いいのか?」
「――はい」
答えと同時に抱き寄せられた。これまでにも抱き締められたことはあったけど、以前のような力任せの抱擁ではない。どちらかと言えばおずおずと――多分、振り払おうと思えば振り払えるくらいの力加減で、男の腕がるいの背を引き寄せている。肩を掴んでいた手が後頭部に移動して、指先が梳き流した後ろ首の髪に絡んだ。
抱き締められるのは初めてではないけれど、互いに寝間着姿でなんてことはもちろん初めてのことだ。るいの鼓動が早いのはわかるのだが、雅勝の鼓動も少し早い気がするのは気の所為だろうか。これまでは突然だったり、心情的にそれどころでなかったり、ゆっくり実感することができなかったので、男の腕の中で相手の胸元にそっと額を寄せてみる。薄い布越しに互いの体温を感じ、息遣いが耳ではなく肌で感じられる感触が心地よいと感じた時、低い囁きが肌を通じて伝わってきた。
「……本気か?」
「はい」
正気の次は本気を疑われて、これはもう怒ったほうがいいだろうかと、それこそ本気で考えかけた時、ほんの少し体を離して口付けられた。はじめは触れるだけの口付けが、るいが背中に腕を回して応じると、だんだんと深く力強くなって行く。
一度目は純然たる事故だった。二度目の口付けは多分、なかったことにされている。でもこれをなかったことのするのは難しい。それとも、なかったことにしなくてもいいのだろうか。慣れない行為に呼吸が追い付かず、頭の芯が痺れて何も考えられなくなった頃、あれほど苦労して無視していた布団の上に横たえられた。帯を解かれる時には震えていたるいが、襟に手をかけられた瞬間に思い出し笑いをしたので、男の動きが止まった。
「どうした?」
「いえ、最初に会った時にもこんなことがあったなと思って……」
「いや、あれは……」
もちろんいくらなんでも、あの時と今の状況がまるで違うことくらいはわかっている。るいが笑ったままでいたので、雅勝もここは笑うべきだと気付いたらしい。二人で顔を見合わせてひとしきり笑い合った。
記憶はいつもそれを思い出す人間の瞳の中にだけあって、同じ場所に立ったところで、同じものが見られるわけではない。だから今、この夜の中で、互いが同じ出来事を思い出していると確信できるのは、きっと途方もなく幸せことなのだろう。
世の中には辛いことや悲しいことが溢れているけれど、今この夜の中にだけは、敵意も悪意もない。恐ろしいものや悲しいものが迫ってくることもない。だからあとは、ただ頭の中に夜が溢れるのに任せて目を閉じた。
もちろん、ここはるいの家なので、離れには何度も入ったことがある。るいが生まれる前に亡くなった祖父母が暮らしていた場所だそうだが、家族が父とるいだけになってしまった後はほとんど使われていなかった。その使われていない部屋を塵一つないくらいに掃き清め、あり合わせの材料でご馳走をこさえ、どこかにしまってあった母の打掛まで引っ張り出してきたのだから、忍び里のおかみさん集団の底力はすさまじい。
実のところ、途中で何度か戦いを挑もうとしたのだが、父はるいの嘘に騙されている側なので援軍にはならず、唯一事情を知っている仮祝言の相手が戦うことを放棄して適当に話を合わせることに終始していたので、まったく戦いにもならなかった。とは言え、もとは自分が蒔いた種なので、まさか雅勝に恨み言を言うわけにもいかない。これに懲りて、今後は安易な嘘を吐かないようにしようと固く心に誓う。
この後はようやく彼と二人だけで顔を合わせて、今後の算段をすることができる。ただ今、それが幸いなのかどうかわからなくて、るいは自分の他に誰もいない部屋の中央付近から視線を逸らした。
枕屏風の陰に夜具が二組。隙間なくきっちりと敷き詰められていて、枕二つが隣合わせで並んでいるのが妙に生々しい。
さすがにこの光景を直視できずに、縁側から外を眺めていると、半月なのに妙に明るい月だった。明野領で暮らしてみて知ったのだが、この山里から見える星は近い。誰かに刃物ですっぱり斬られたような半月よりもはるかに近いところで、大小様々の星が瞬いている。
季節は初夏に入りかけていて、夜風が寒くもなく温くもなく心地よい時期だ。もう少し経てばこの辺りでは蚊帳を吊るさないとやぶ蚊がひどくて寝られたものではないので、今が一番よい季節といえた。
どれくらいそうして一人で外を見ていただろうか。廊下から離れの部屋に入る襖が開いて、来るべき人が入ってきた。これもおかみさん達の手によるものだろう。寝間着に着替えている。るいが洗って手当てした狼の牙の傷は軽傷で、もう包帯に血も滲んでいないようだった。
法勝寺で着流し姿は何度か見たけれど、当然、寝間着姿など見たこともない。るいは部屋の中にあるものだけでなく、一緒にいる人の姿も直視ができなかった。
彼はおかみさん集団に戦いを挑んではいなかったのだが、少々疲れた顔をしているのは当然か。枕屏風の陰にあるものを無視して通り過ぎ、雅勝もまた縁側の柱に背を預けて座って、水差しの水で喉を潤している。
「……あれは結構疲れたな」
「あの、さっきはおばさん達がすみませんでした」
「確かにあれは凄まじかったが……、お前はこの里で熊殿や皆に慈しまれて育ったんだな」
仮祝言の時、るいの父にそちらのご両親はと問われて、即座に「二人とも既に身罷った」と答えていたことを思い出した。一瞬、この里に来る前に彼の故郷であったことを思い出して苦しくなりそうだったが、雅勝は今、至極穏やかな表情で夜風に吹かれている。
「そうですね。大切にしてもらったと思います」
実母の記憶は朧だけど、いつも側にはおかみさん達がいて、寂しいと思ったことはない。父には反発して冷たい態度を取ったこともあったけど、今日の父の言動に感じるものがなかったと言えば嘘になる。そんな母親代わりの女性たちと、たった一人の父親に嘘を吐いたのだと今更ながらに思い至って、胸の奥が痛くなった。そして何よりこんな茶番劇に付き合って、盃事の真似までしてくれたこの人に心底申し訳ないと思う。
「雅勝殿」
「どうした?」
「本当に色々とすみませんでした。明日の出立前にはきちんと父に話をして、わたしと父とで皆に否定します。話を合わせてくれて、ありがとうございました」
るいが姿勢を正したので、雅勝もまた寄り掛かっていた柱から身を起こしてるいを見た。何か言おうと口を開いて、口をつぐんで、再び口を開く。その気になればいくらでも嘘八百並べられる人が、言葉を探しあぐねているように見える。
「……否定しないとならないか」
「はい?」
「いや、伊達や酔狂で、なかなかあの熊殿を舅殿とは呼べないぞ」
それはそうだろうと思うのだが、否定しなければ少なくともこの里においては、彼とるいとは夫婦ということになってしまう。まあ、雅勝がこの里にやってくることなど二度とないだろうから、構わないと言えないこともないのだが――いや、それは本当に構わないのだろうか。
「俺は構わない。もちろん、お前が嫌でなければの話だが」
「えっと、あの、雅勝殿、……なんだか求婚されてるみたいに聞こえますよ?」
本気で意味がわからなかったので、あえて冗談めかして言ってみる。しかし冗談だとしたらこれは随分と性質のよくない冗談だ。――少なくとも、るいにとっては。
正直なところ、今回の仮祝言騒動は心のどこかで辛かった。本当のことではないのに。本当に求められたわけでも、添えるわけでもないのに、よりにもよって想い人の隣で花嫁のふりをして、親しい人達から祝福を受けるなんてことは。
「みたいではなく、俺はそのつもりだが。もちろん、無理にとは言わない。急ぎもしないから、明野領に戻った後にでも気長に考えてみておいてくれ」
一瞬、言われたことの意味がわからずに目を瞬く。自分でも気づかぬうちに、どうして……と囁いていたらしい。るいと向き合った状態で、雅勝は少し照れたように口元を緩ませた。
「お前のお陰だからな」
「え?」
「俺も俺の人生に夢を見てみたくなったんだ」
冗談のようには聞こえなかった。るいはこの若い男の家族というものに対する強い思いを知っている。こんなことで冗談を言うような人ではないし、現実に雅勝の表情は嘘偽りを言っているようには見えない。
――もうできることは何もないかと思っていた。
御見の方から事情を聴いた時、すぐにこの地に湧く眼病の湯のことを思い出した。影衆の任務のすべてを知るわけではないけれど、目に異変を抱えながら務まる役目ではないことは容易に想像がつく。ただでさえ傷だらけの男がこれ以上傷つく――下手をすれば命を失うかもしれないと考えるのは、るいにとってたまらなく辛いことだった。
何もできない。でも何かしたいと思ってしまうことが、自己満足に過ぎないことは自覚している。だがこの後、明野領に戻ってしまえば、雅勝はこれまで通り影衆に戻り、るいには奥座敷の侍女としての生活がある。この先、るいにできることといえば、これ以上あまり傷つかないでほしいと祈ることくらいしかないかと思っていた。
だけどそんなことが許されるのか。――この先、誰よりも近くにいて、誰よりも最初にこの人の身を案じるなんてことを、彼はるいに許してくれるのか。
「あと、どこか野宿できそうなところを教えてくれ。一応、俺も男だしな。……あれは、まずい」
ずっとないものとして無視していた二組の布団からあからさまに目を逸らしているので、るいはそこではじめて、雅勝もまた、実はその場所を充分に意識していたのだと知った。
枕屏風の外の壁には長刀と脇差しが立てかけてあって、その横の乱れ箱に彼が着ていた着物が入っていた。そういえば破れた袖はどうしたのだろうと思う。大して広くはない部屋の中央にある夜具を見ないように慎重に視線を逸らしながら、雅勝は刀と着物に手を伸ばそうとした。
「……嬉しい」
「いや、俺はどこかここ以外で寝られるところを教えてくれと言ったのであって……、今お前なんと言った?」
「嬉しいです」
るいの言葉が彼のところに届くまで、随分と時間がかかったらしい。そのままの姿勢でしばらく固まった後、雅勝は伸ばしかけていた手を引いてゆっくりとこちらを向いた。
「いや、まったく急いでないから、焦るな。ゆっくり時間をかけて考えろ。焦ったっていいことなんか何もないぞ」
「わたしは焦ってないですし、時間をかけたって、答えは変わりませんけど」
どちらかといえば、今、焦っているのは雅勝の側だろう。態度を取り繕う余裕さえなくなったのか、その場にあぐらをかいて座って、額にかかる前髪を節くれだった指でかき分けている。
しばし愕然といった感じで押し黙った後、どうやらもう一度水を飲んで落ち着こうとしたようなのだが、先ほど水を飲んでいた湯飲み茶碗を取ろうとした手が、すぐそこにあるものを掴み損ねた。茶碗が縁側の木床を転がって、板と板の隙間に残っていた水が染み込んで行く。この男らしからぬ間の抜けた行動に、るいはまた彼のことが心配になってしまった。
「あの、雅勝殿?大丈夫ですか?」
一瞬、まさか見えていなかったのかと思って本気で心配になったのだが、そういうわけではなかったらしい。転がった湯呑を正確に拾って戻して、大真面目に問いかけてきた。
「るい、お前……正気か?」
まさか正気を疑われているとは思わなかったので、思わず吹き出してしまった。吹き出しながら雅勝の表情を見て、あからさまな困り顔を見つけてまたおかしくなる。
この人のこれまで見たことのない表情を見ることが、これほどまでに楽しいとは知らなかた。笑い過ぎて目の縁から溢れた涙に向けて、男の指が伸びてきた。涙をぬぐった手で肩を掴まれ上向きにされる。ものすごく近い位置で、涙の浮いた目をまじまじと覗き込みながら、今度は眉間に皺を寄せた難しい顔をしている。
「お前が構わないなら、戻ったら本気で殿とお方様に許しを得る方法を考えるぞ。いいのか?」
「――はい」
答えと同時に抱き寄せられた。これまでにも抱き締められたことはあったけど、以前のような力任せの抱擁ではない。どちらかと言えばおずおずと――多分、振り払おうと思えば振り払えるくらいの力加減で、男の腕がるいの背を引き寄せている。肩を掴んでいた手が後頭部に移動して、指先が梳き流した後ろ首の髪に絡んだ。
抱き締められるのは初めてではないけれど、互いに寝間着姿でなんてことはもちろん初めてのことだ。るいの鼓動が早いのはわかるのだが、雅勝の鼓動も少し早い気がするのは気の所為だろうか。これまでは突然だったり、心情的にそれどころでなかったり、ゆっくり実感することができなかったので、男の腕の中で相手の胸元にそっと額を寄せてみる。薄い布越しに互いの体温を感じ、息遣いが耳ではなく肌で感じられる感触が心地よいと感じた時、低い囁きが肌を通じて伝わってきた。
「……本気か?」
「はい」
正気の次は本気を疑われて、これはもう怒ったほうがいいだろうかと、それこそ本気で考えかけた時、ほんの少し体を離して口付けられた。はじめは触れるだけの口付けが、るいが背中に腕を回して応じると、だんだんと深く力強くなって行く。
一度目は純然たる事故だった。二度目の口付けは多分、なかったことにされている。でもこれをなかったことのするのは難しい。それとも、なかったことにしなくてもいいのだろうか。慣れない行為に呼吸が追い付かず、頭の芯が痺れて何も考えられなくなった頃、あれほど苦労して無視していた布団の上に横たえられた。帯を解かれる時には震えていたるいが、襟に手をかけられた瞬間に思い出し笑いをしたので、男の動きが止まった。
「どうした?」
「いえ、最初に会った時にもこんなことがあったなと思って……」
「いや、あれは……」
もちろんいくらなんでも、あの時と今の状況がまるで違うことくらいはわかっている。るいが笑ったままでいたので、雅勝もここは笑うべきだと気付いたらしい。二人で顔を見合わせてひとしきり笑い合った。
記憶はいつもそれを思い出す人間の瞳の中にだけあって、同じ場所に立ったところで、同じものが見られるわけではない。だから今、この夜の中で、互いが同じ出来事を思い出していると確信できるのは、きっと途方もなく幸せことなのだろう。
世の中には辛いことや悲しいことが溢れているけれど、今この夜の中にだけは、敵意も悪意もない。恐ろしいものや悲しいものが迫ってくることもない。だからあとは、ただ頭の中に夜が溢れるのに任せて目を閉じた。
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