茜さす

横山美香

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 当初の予定を大幅に遅れて帰ってきた娘が連れてきた若者は、明らかに常人ではなかった。
 最近ではほとんど忍びの仕事はなくなったとはいえ、猪瀬の熊――親からもらった名前は熊吉という――は忍び里の長である。相手が刀を抜かなくとも、体格や身のこなしから大体の技量は推し量ることができる。元は水谷の普請方の下級武士の嫡男で、今は明野領の法勝寺で手習い所の師匠をしていると語っていたが、ただの浪人が刀を持たず徒手空拳だけで、野生の狼の動きについて行けるはずがない。
 身のこなしは柔術。拳の使い方は琉球拳法の流れだろうか。
 ――これが、ただの素浪人の手習いの師匠であってたまるか。
 年若い浪人が実は剣術の達人だった――というだけならば、あり得ない話ではない。だがその浪人が柔術や拳法や、恐らくその他のあらゆる体術を身に着けているとしたら、それはもうただ者であるはずがない。
 お前はどこで、こんなとんでもない男を見つけてきたんだ。思わず我が娘の横顔をしげしげと眺めてしまったのだが、るいは大小の刀を懐に抱き、ただひたすら若者を見つめている。よほど男の身が案じられてならないのか、父親の視線など気づきもしない。橙に染まり始めた斜光に照らされた横顔は、親の目で見ても艶やかだった。
 るいがとんでもないことを言って若い浪人を連れて帰ってきた時、熊吉はすぐにそこに何か理由があるのだろうと思った。そしていくらなんでも父である自分が問いただせば、きちんと訳を話してくれるだろうとも。だが様々な感情を押し殺してきわめて穏やかに、本当は恋仲でも許嫁でもないのだろう、さあ理由を言って見ろと諭した父親の目を真っ直ぐに見て、言ってくれたのだ、この跳ねっ返りは。
 ――わたしは、あの方をお慕いしています。それが理由です。
 捕らわれ檻に入れられていた狼には、はじめから人間に対する敵意がある。檻から出ると同時に牙をむき出しにして跳びかかってきた野生の獣を相手に、何度か相対しただけで、動きを読み切ったらしい。狼の牙に引っ掛けられて、裂けた着物の袖を縛った時、男の双眸には明らかにこれまでとは違う認識の色があった。
 忍び里の住人ほどではないにしろ、この若者もかなり身は軽い。うなり声を上げ、喉元を目がけて跳びかかってくる狼に向けて、若者は右手の拳を握りしめた。急所を見極めれば、拳で狼を倒すことは不可能ではない。まさかもう急所が分かったのか、と思って見ていると、その拳で相手を打ちのめすのでなく、二つの鋭い牙が待ち受ける口の中に、勢い良く突っ込んだ。
 さすがにこれには驚いた。一滴の血を流さずに倒せと言ったのは他でもない熊吉だが、狼の口の中に拳を突っ込んで、気道を――恐らく内側から鼻の骨を砕いている――塞いで窒息させるなど、現役の忍びだって考えはしない。
 しばらくそのまま気道を塞いでいたので、狼は口から泡を吹き、完全に絶命している。そこから引き抜かれた若者の腕は当然のことながら皮膚が裂け、幾筋も血が流れて滴っていた。
 しばし声もなく見つめていたるいが、長刀と脇差しを押し付けてきたので、今度は熊吉がそれらを受け取ってしまった。一応、これは大切な武士の魂だろう。あの若い武士だってそれなりの思いがあってるいに預けたのだろうに、断りもなく父親に押し付けていいのだろうか。
 熊吉が何か言うより先に、るいは若者の許に駆け寄っていた。袖の破れた男の腕にしがみつき、少し離れたところにいる熊吉の耳まで届くほどの大音声で――怒鳴りつけている。
「何、馬鹿なことやってるんですか!」
「え、いや、刀を使わず、血を流さず……上手くいったんだから、別にいいだろう」
「いいわけないでしょう!悪くすれば、腕を喰いちぎられてますよ!わかってるんですか!」
 無論、熊吉はるいの気の強さはよく知っているし、その気の強さがいつか逆に彼女を傷つけないかと親として心配もしていた。しかし娘よ、気持ちはわかるが、今ここで怒鳴り散らすのはいかがなものか。いくらなんでも、可愛げが足りないのではないか。ほら見ろ、婿殿が引いているぞと言いたくなったが、怒鳴られている当の若者はさほど驚いた風でもなく、自分の腕にしがみついている娘を穏やかになだめていた。
「――わかった。わかったから、もうそんなに怒鳴るな」
「……お願いですから、こんな無茶なことしないで。お願い……」
 傷ついた若者の右手の甲に一滴、涙が滴った。血まみれの男の手に取りすがって、堰が切れてしまったように泣いている。るいは成長すると人前で涙を見せたがらなくなったので、父親である熊吉でさえ、最後に娘の涙を見たのがいつ以来か覚えていない。胸が詰まるように痛ましいと思うのと同時に、目の前の娘と若者の姿に昔、妻と出会った頃のことを思い出して照れくささを感じもしたのだが、しかしお前はここに父親がいることを忘れていないか。さすがに若者――樋口雅勝はこちらの視線が気になるようだが、やはり、るいには熊吉の存在など目にも入っていないようだった。
 こうなった、もとい、こうなってしまった娘に親ができることは何もない。熊吉は突如として、自分が今娘にしてやれることが、たった一つしか残されていないことを悟った。
 預かっていた刀を切株の上に置いて、熊吉が近づいていったので、若者はるいの手を押しのけて熊吉に向き直った。事ここに至ってようやく父親の存在を認識したらしいるいが、慌てたように手の甲で自分の涙をぬぐっている。
「樋口殿。どうか娘を……るいをよろしくお頼み申す」
 自分の年齢の半分くらいしか生きていない若い男に向け、深々と頭を垂れる。
 気が強くて芯が強くて、親の言うことさえあまり聞かなくて、最近は父親さえも扱いに困ってしまうほどの跳ねっ返りではあるが、熊吉にとってはたった一人、亡くなった妻が残してくれた可愛い娘だ。いつか嫁に出すのであれば、想う相手のところに行かせてやりたいと思っていた。――覚悟していたより、少し時期は早かったけれど。
 大切にしてやってくれ。幸せになってくれ。そして出来るなら、あまり泣かせないでやってくれ。
「お頼み申す……」
「――舅殿、どうか顔を上げて下され」
 顔を伏せたまま震えた熊吉の肩に、若者の掌が触れる。若者にはじめて舅と呼ばれ、そうか自分に息子ができたのかと悟った時、どこかで烏の鳴く声がした。

 
 夕暮れが広がる前に家に入った時、そこにはありとあらゆる山の幸が並んでいた。
 猪肉の鍋に山で採れる山菜の和え物、川魚の天ぷらだけでなく、炊いた白飯がたっぷりとある。山肌を切り開いて作った田では充分な量の米の収穫は見込めないので、日頃、この里の主食は米よりも稗や粟などの雑穀がほとんどだ。白米をたっぷりと食することができるのは、正月や婚礼などごくわずかな祝い事の時だけである。
 一瞬、父が用意したのかと思ったのだが、この家の主であるはずのるいの父もまた目を丸くしている。もちろん、父娘と一緒に家に入ってきた雅勝に状況がわかるはずもなく、三人ともしばし声もなく、ぽかんと顔を見合せているしかなかった。
「――ああ、おるいちゃん、戻ったんだね。お帰り。熊吉さん、何そこでぼーっと突っ立ってるんだい、あんた、早く着替えておいで」
 台所から膳を運んできたのは、この里で暮らすおかみさん達だった。母親を早くに亡くしたるいもまたあの兄妹同様、おかみさん達に交代で面倒を見てもらったので無論、馴染みはある。馴染みはあるのだが、何故今、そのおかみさん達が、この館に集まっているのだろうか。
「よかったねぇ。おるいちゃん、年頃になっても全然浮いた話なかったから、あたしらみんな心配してたんだよ」
「そうだよ、おるいちゃんがお嫁に行くなんて、こんな目出度いこと、熊吉さんもなんであたし達に言ってくれなかったんだい」
「おるいちゃんは、あたしらの全員の娘みたいなもんだ。できることはしてやりたいじゃないか」
「しかしまあ、いい男だねえ。若いお武家様なんてあたしゃ、何十年ぶりかに見たよ」
 膳を運びにきたのか、それとも里長一家を取り囲みにきたのか。猪瀬の熊殿はおかみさん達に背を叩かれて、ただひたすら目を白黒している。すぐ隣で顔かたちも身分も違う若者が、同じように困り果てているのが、本当の父子のようでおかしい――などと微笑ましく思う余裕はなかった。お願いだから少し黙ってほしい。というか、何の話をしているのだ、彼女たちは。
 そうこうしている間にも勝手口から声がして、また新たなおかみさん達が次々に家の中に入って来る。もともと里の住人全員が家族みたいなものであり、特に里長の家は住人全体の家のようなところがある。だからこそ勝手に台所を使ってご馳走をこさえることもできるわけだが、今日ばかりは街の家のように鍵をかけてしんばり棒をしておいた方がよかったかもしれない。
 数を増やしたおかみさん集団の勢いはむかうところ敵なしといった感じで、忍びの里の長も現役の隠密でさえも完全に白旗を上げて引いてしまっている。男達がこの戦場ではまるで戦えないことを悟って、るいは何とか彼女たちの中に割って入った。お針を教えてもらったり、食事の支度を教わったり、もっと幼い頃、風邪をひいて寝込んだ時に看病してもらったこともある。るいにとって、全員が母親代わりであることは間違いないのだが、本気で今、彼女たちが何を言っているのかわからない。
「あの、おばさん達、さっきから何の話をしてるの?」
「仮祝言だよ、仮祝言。相手がお武家様じゃ、本式の祝言は無理だけど、ほら、花嫁さんがいつまでもそんな恰好してるんだい。あっちにあんたのお母さんが祝言の時に来た打掛を出して干しといたから、おいで。髪も結ってあげるからね」
「いえ、あの、ちょっと待って――」
 必死に訴えたるいの言葉が聞こえていたのかどうか。満面の笑みを浮かべたおかみさん達に腕を取られて、自分の家の廊下を引きずられながら、吐いた嘘に足が生えて勝手に歩いて行っただけでなく、羽が生えて空まで飛んでしまったのを感じ、るいは今度こそ本当に心の底から途方にくれた。
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