茜さす

横山美香

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 猪瀬とは住人しか知らない忍び里の地名であり、猪瀬の熊とは、るいの父親の通称であるという。
 忍び里の長である熊殿は、娘とあまり似ていなかった。
 無論、似ていない父娘など珍しくもないし、第三者の雅勝に、他所の親子の姿形に感想を差し挟む資格も権利もない。それでも思わず、似なくてよかったなと言ってしまいそうになるほど、二人の風貌は異なっていた。
 身の丈は雅勝と同じくらいだが、幅は三人分くらいある。そしてとてつもなく毛深い。男の雅勝の目で見て、どこまでが髪でどこからがもみ上げで、そしてどの辺りからが髭なのか判別つかないのだから、相当なものだろう。よく見ると丸くて愛嬌のある瞳や、口を開くと驚くほど真っ白な歯が覗くところなど、誰が言い出した通り名かは知らないが、確かに見た目は熊そのものの御仁であった。
 るいの意味不明の発言には驚かされたが、その後にすぐに囁き声で、適当に話を合わせておいて下さいと言われたので、意図は理解ができた。あの時点で雅勝は既に鳥居の中に足を踏み入れてしまっており、忍び里と関係ない侵入者となれば、捕えられて殺されても文句はいえない。とっさについた彼女の嘘が助けになったことは間違いないのだが、話を合わせる以前に、完全に展開について行けず、何も言えなかったという方が現実に近い。しかし大事な一人娘が、いきなり訳の分からない浪人の男を連れて帰ってきたならば、ここが元忍びの里でなく、相手が熊殿でなかったとしても殺されそうな気がするのだが、その辺りを彼女はどう考えているのだろうか。
 完全に成り行きで山里までやって来て、身内だけで執り行われた十三回忌法要――読経を行ったのは僧侶ではなく熊殿であった――を部屋の隅で大人しく首を垂れてやりすごし、身の置き所がないという言葉の意味を噛みしめながら、なんとかその場を抜け出して庭に降りた時、顔のすぐ近くに何かが飛んで来た。殺気はない。小判でもない。とっさに手で受け止めた時、それは正真正銘の忍び道具――手裏剣だった。
 といっても、歯はすべて潰してあるので殺傷能力はない。そういえば以前、るいも似たようなものを使っていたが、あれはしっかりと研がれた戦闘能力のあるものだった。夜の闇の中で見事に敵の足の筋を断っていたので、なかなかの命中率だったように思う。
 るいの実家である忍び里の頭領の家は、普通の村の庄屋館くらいの規模があった。
 母屋があり離れがあり、建物に囲まれた中庭が予想外に広い。掴んだ手裏剣を手に振り返った時、庭の欅の木の向こうから、六、七歳くらいの男の子と三歳くらいの面立ちの似通った女の子が駆けてきた。
「これはお前のか?」
 男の子は妹を守るように前に立ち、歯を潰した手裏剣を差し出した雅勝の頭の上からつま先までをしげしげと不思議そうに眺めている。さすがは忍びの里だ。この手裏剣は子どもの遊び道具か。視線が腰の刀に移った時、少し怯えた顔をして身を竦ませた。――この山里の子ども達は、これまで侍を見たことがないのだろう。
 何しろ副業が手習い所の師匠なので――そして影衆には今でもこれくらいの幼子が売られてくることがあるので、子どもの相手をすることには慣れている。雅勝自身の精神年齢が子どもに近い所為なのかもしれないが、明野領で影衆を蔑む大人達と係っているよりも、とても何か言いたげで、だが言い出せないでいるらしい熊殿のまとわりつくような視線を感じているよりも、子ども達と一緒にいる方が、はるかに気が楽だ。
「そう怖がってくれるな。一緒に遊ぶか?」
 刀を外して、子どもの目を高さまでかがみこんで頭に手を置いた時、ここに来てはじめて、雅勝は身の置きどころを見つけたような気がした。


 荷を置き、着物を換え、実家へ渡すようにと御見の方が用意してくれた品物や文を父に渡して一息ついた時、一緒に来た人の姿は見えなくなっていた。
 ものすごく居心地の悪そうな顔をしているのはわかっていたので、探すべきなのか一瞬迷ったのだけれど、雅勝はまったくこの地に土地勘もなければ知り合いもいないのだから、まさか放っておくわけにも行かないだろう。致し方なかったとはいえ、嘘をついて彼を自分の夫扱いしてしまったという問題もある。
 るいが部屋を出て縁側に降りた時、探し人は庭にいた。
 どこに行ったのかと思えば、庭で子ども達と竹とんぼを作って遊んでいたらしい。一緒にいる少年と妹は、数年前に母親を亡くして里の皆で面倒をみている兄妹である。初対面でどうやってここまで仲良くなれたのか。切株の上に小刀と作りかけの竹とんぼが置いてあるあたり、年長の少年には竹とんぼの作り方を教えてやって、そして幼い妹は自らの膝の上に抱きかかえて、竹とんぼの飛ばし方を教えてやっている。  
「よし、ほらやってみろ。おお、そうだ。うまいもんだ」
 ――この人は……。
 そういえば手先が器用で、とても子ども好きな人だったと改めて思いだした。自分でこさえて飛ばした竹とんぼを追い駆けて、少年は庭中を楽しそうに駆け回っている。雅勝の膝の上から飛び降りた妹が、兄の後を追い駆けて嬉しそうに笑った。それを眺めている若者の顔にも屈託がない。
 そんな光景を少し離れたところで見て、不意に胸を衝かれたような気持になって、咄嗟に声をかけることができなかった。
 鳥居にいた猪はこの里の住人が子猪の頃から飼って慣らしたもので、時折飼い主と一緒に山を下りては、うかつに鳥居をくぐろうとした人間を襲ったり脅したりしている。本来、猪は犬のように人に慣れるものではないので、るいや他の住人はうかつに触れないし、実際、過去には大怪我をした人間もいたと聞いている。
 気の所為だったのかもしれない。気の所為であってほしい。だけどあの時あの一瞬、るいの目に、彼が戦うことをやめてしまったように見えた。それが何を意味するのか承知の上で、暗い陰の中にたった一人で落ち込んでしまったように。
「――ああ、るい。いたのか」
 ずっと黙って見つめていたので、気配を感じたらしい。るいを見つけて笑いかけてきた雅勝の表情に陰はない。子ども達とるいとは顔見知りなので、雅勝の足元に駆け戻ってきた子ども達がるいを認めて笑顔で小さな手を振った。
 できることならずっとこの光景を眺めていたい。それがかなわないと知っているからこそ、今、その明るい笑顔がやけに胸に痛かった。
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