茜さす

横山美香

文字の大きさ
上 下
21 / 102

6-2

しおりを挟む
 暮れ六つの鐘が鳴っても、空には陽の光が残っていた。
 西の空には暮れながら消えて行く太陽の名残火、そして東の空から夕闇が少しずつ広がっていて、遠いところにわずかに一つ、淡い色の星が見える。それでもほんの少し前までは、この時間はもう外は真っ暗だったので、最近はずいぶんと日がある時間が長くなった。
 水谷の街の武家屋敷が並ぶ一角も黄昏の色が濃い。亡くなった母親と同じくらいの年齢だろうか。風呂敷包みを手に長屋へ入ろうとした武家の女性に、るいは声をかけた。
「あの、恐れ入ります。お尋ねしたいことがあるのですが」
「はい?どうされました?」
「以前、こちらの武家長屋にお住まいだった、樋口様の奥様と娘様が今どちらにいらっしゃるがご存知ありませんか?」
 ただすれ違うくらいでは気づかれなくとも、さすがにかつて住んでいた界隈で、樋口家の長男と同じ年頃の若い男が、家族の行く先を聞いて回れば勘付かれる可能性が高い。だから雅勝には離れていてもらって、十年以上この辺りに住んでいそうな年齢の婦人に狙いを定め、何人も話しかけてみた。たった一人旅装束で、あてもなく人の行方を尋ねる若い娘の姿を哀れに思ったのか、武家の妻女達は皆、丁寧に話を聞いてはくれたけれど、樋口家の母娘の行く先を教えてくれる者は一人もいなかった。
「樋口様……?以前って、どれくらいかしら?」
「九年前まではこちらにお住まいをだったと聞いています」
「ごめんなさいね。うちは越してきたのが五年前だから、そんなに前のことは知らないわね。お嬢さん、宿はあるの?もう暗くなるから、宿に戻った方がいいわよ」
「……そうですか。大丈夫です。ありがとうございます」
 この数刻、何度も繰り返したやり取りを再び繰り返し、少し離れた武家屋敷の壁に寄り掛かっている若者のところに戻ると、るいを見て、彼もまた先ほどとそっくり同じことを言った。
「るい、もういい。やめよう」
「でも!」
 本当は気になって仕方ないはずの人がもうやめようと言い、そのたびにるいが半ば意地になって飛び出して行く。このやり取りも、もう何度繰り返しただろう。
 だけど、どうしても気になる。さきほどの女性は確かに何も知らなかったのだろうが、るいに呼び止められたうちの何人かは、樋口の名に明らかに反応した。その前に呼び止めた母娘――あるいは嫁姑と思しき二名連れの婦人など、明らかに一人が何か言おうとして、もう一人が目顔で止めていた。
 彼が家を出てから九年もたっているのだから、無論、家移りをした可能性はある。だが大きな邸ならばともかく、何世帯もが軒を連ねてくらす長屋でご近所付き合いなしで暮せないのは、町屋であっても武家であっても同じだろう。そして通常の家移りであれば、ご近所が行く先を知らないということはまずありえない。特に一家の主婦の情報網はすさまじいものがあるから、十年くらい前なら、行く先を知っていてもまったく不思議はないのに。
 ――母上、早紀……。
 以前、一度だけ耳にした。あれは雅勝が毒虫の熱で苦しんでいた時のことだ。袱紗の守り袋を今も大切にしているように、その存在は今もこの若者にとっての拠り所なのだ。本領の城下と明野領を何度も行き来している人が、さほど遠くないところにある生まれ故郷に一度も足を踏み入れなかったのも同じ理由だろう。彼が今、何を思ってこの場所に来てみる気になったのかはわからない。――だけど、どうしても気にかかる。
 この人が自分の人生を投げ打ってまで守りたかった人達の身に、一体何が起こったのか。
「さすがにもう無理だ。――日が暮れる」
 本当ならば今頃の時刻には、るいは故郷の山に向かい、雅勝とは別行動を取っているはずだった。この時間になってしまえばもう街を出ることはできないから、どこかで宿を探さなければならないし、日が暮れてしまえば、るいが声をかけられるような武家の妻女が外を出歩くこともなくなる。
 もうどうすることもできなくて傍らの男を見上げた時、人気のない武家屋敷の塀に囲まれた石畳の道に突然、人の気配がした。
 それまでまるで気配を感じていなかったのは、るいだけではなかったらしい。るいの隣で、雅勝が一瞬、刀の柄に手をかけた。殺気とはこのような気のことを言うのか。背筋が震えるほどの鋭い気が男の全身を駆け巡り、しかしすぐに雅勝は刀の柄から手を離した。現役の隠密が帯びた殺気をものともせず、彼らの側に歩いてきた人間の姿を確認し、二人で思わず顔を見合わせる。
 それはるいの腰の高さくらいまでしかないような小柄な老婆だった。白とも灰ともつかない総髪の上から手拭いを姉さん被りして腰を曲げ、手押し車を押している。手押し車の端から土の被った葱や蕪が見えるあたり、近在の農家の老婆が野菜を売りにきたように見えなくもないが、今は夕暮れ時――いわゆる逢魔が時だ。普通、このような時刻に野菜の担ぎ売りなどしないだろう。しかもこの道は一本道であり、道の向こうにある武家長屋の方角をるいはずっと見ていたはずなのに、木戸が開く瞬間を見た覚えがない。両側を塀に囲まれた夕暮れのど真ん中に、老婆は突如、降って沸いたように存在していた。
「あのお婆さん、以前、こちらの武家長屋にお住まいだった樋口様のご家族様をご存じありませんか?」
 走り寄ったるいを認め、老婆がゆっくりと顔を上げる。短い間に大分日が暮れて、ものが見えづらくなった為なのか。顔を上げてもなお、その表情は判然としなかった。これは本当に老婆なのか。――それとも人ならざるものなのか。
「……樋口のご家族は、確か、今津屋に行かれたはずじゃが」
 しわがれた唇から紡がれる声もまた、男のようにも女のようにも、若いようにも老いているようにも聞こえる。しかしこの場所を訪れてはじめての手がかりらしい手がかりである。それまでるいの後ろにいた雅勝が半歩前に出て、隣に並んだ。
「お婆さん、それはいつ頃の話ですか?」
「さてな。成之殿がのうなってから、半年くらい後のことだったか……」
 その時、傍らにいた人の身体が、まるで急に誰かにぶたれたかのように大きくびくりと震えたので、るいの視線は一瞬、老婆から離れて雅勝を見た。隠しきれなかった動揺をそれでも押し隠すように、雅勝は不自然なくらい露骨に顔をそむけている。彼の態度も気になるが、老婆の存在と発言も気にかかる。しかし再びそちらに視線を戻した時、そこにはただ先ほどと同じ、誰もいない道が続いているだけだった。
「え?あれ、お婆さんは……?」
 西の空で燃えていた太陽は熾火となり、完全に山の稜線の彼方に消えたようだった。今はもう二人しかいない道の片隅に夕闇が落ちかかる。武家長屋で夕餉の煮炊きが始まったのか、風に乗ってかすかに魚の焼ける匂いがした。
 狐が狸か――それとも逢魔が時の魍魎に化かされてでもいたのか。しかし老婆が口にしたのは、紛れもなく、樋口家の母娘の消息だった。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

大和の風を感じて2〜花の舞姫〜【大和3部作シリーズ第2弾】

藍原 由麗
歴史・時代
息長(おきなが)筋の皇女の忍坂姫(おしさかのひめ)は今年15歳になった。 だがまだ嫁ぎ先が決まっていないのを懸念していた父の稚野毛皇子(わかぬけのおうじ)は、彼女の夫を雄朝津間皇子(おあさづまのおうじ)にと考える。 また大和では去来穂別大王(いざほわけのおおきみ)が病で崩御し、弟の瑞歯別皇子(みずはわけのおうじ)が新たに大王として即位する事になった。 忍坂姫と雄朝津間皇子の婚姻の話しは、稚野毛皇子と瑞歯別大王との間で進められていたが、その事を知った雄朝津間皇子はこの婚姻に反対する。 そんな事になっているとは知らずに、忍坂姫は大王の指示で、雄朝津間皇子に会いに行く事になった。 忍坂姫一行が皇子の元へと向かっている最中、彼女達は盗賊に襲われてしまう。 それを助けたのが、1人の見知らぬ青年だった。 そして宮にて対面した雄朝津間皇子は、何と彼女を盗賊から救ってくれたあの青年だった。 母親から譲り受けた【見えないものを映す鏡】とは? この不思議な鏡の導きによって、彼女はどんな真実を知ることになるのだろうか。 前作『大和の風を感じて~運命に導かれた少女~』の続編にあたる日本古代ファンタジーの、大和3部作シリーズ第2弾。 《この小説では、テーマにそった物があります。》 ★運命に導く勾玉の首飾り★ 大和の風を感じて~運命に導かれた少女~ 【大和3部作シリーズ第1弾】 ★見えないものを映す鏡★ 大和の風を感じて2〜花の舞姫〜 【大和3部作シリーズ第2弾】 ★災いごとを断ち切る剣★ 大和の風を感じて3〜泡沫の恋衣〜 【大和3部作シリーズ第3弾】 ☆また表紙のイラストは小説の最後のページにも置いてます。 ☆ご連絡とお詫び☆ 2021年10月19日現在 今まで大王や皇子の妻を后と表記してましたが、これを后と妃に別けようと思います。 ◎后→大王の正室でかつ皇女(一部の例外を除いて) ◎妃→第2位の妻もしくは、皇女以外の妻(豪族出身) ※小説内の会話は原則、妃にたいと思います。 これから少しずつ訂正していきます。 ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません。m(_ _)m

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

超克の艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
「合衆国海軍ハ 六〇〇〇〇トン級戦艦ノ建造ヲ計画セリ」 米国駐在武官からもたらされた一報は帝国海軍に激震をもたらす。 新型戦艦の質的アドバンテージを失ったと判断した帝国海軍上層部はその設計を大幅に変更することを決意。 六四〇〇〇トンで建造されるはずだった「大和」は、しかしさらなる巨艦として誕生する。 だがしかし、米海軍の六〇〇〇〇トン級戦艦は誤報だったことが後に判明。 情報におけるミスが組織に致命的な結果をもたらすことを悟った帝国海軍はこれまでの態度を一変、貪欲に情報を収集・分析するようになる。 そして、その情報重視への転換は、帝国海軍の戦備ならびに戦術に大いなる変化をもたらす。

暁のミッドウェー

三笠 陣
歴史・時代
 一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。  真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。  一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。  そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。  ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。  日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。  その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。 (※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

幕末博徒伝

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
江戸時代、五街道の内の一つ、甲州街道が整備され、宿場町として賑わった勝沼は、天領、つまり、徳川幕府の直轄地として代官所が置かれていた。この頃、江戸幕府の財政は厳しく、役人の数も少なかったので、年貢の徴収だけで手がいっぱいになり、治安までは手が回らなかった。その為、近隣在所から無宿人、博徒、浪人などが流れ込み、無政府状態になっていた。これは、無頼の徒が活躍する任侠物語。

【完結】限界離婚

仲 奈華 (nakanaka)
大衆娯楽
もう限界だ。 「離婚してください」 丸田広一は妻にそう告げた。妻は激怒し、言い争いになる。広一は頭に鈍器で殴られたような衝撃を受け床に倒れ伏せた。振り返るとそこには妻がいた。広一はそのまま意識を失った。 丸田広一の息子の嫁、鈴奈はもう耐える事ができなかった。体調を崩し病院へ行く。医師に告げられた言葉にショックを受け、夫に連絡しようとするが、SNSが既読にならず、電話も繋がらない。もう諦め離婚届だけを置いて実家に帰った。 丸田広一の妻、京香は手足の違和感を感じていた。自分が家族から嫌われている事は知っている。高齢な姑、離婚を仄めかす夫、可愛くない嫁、誰かが私を害そうとしている気がする。渡されていた離婚届に署名をして役所に提出した。もう私は自由の身だ。あの人の所へ向かった。 広一の母、文は途方にくれた。大事な物が無くなっていく。今日は通帳が無くなった。いくら探しても見つからない。まさかとは思うが最近様子が可笑しいあの女が盗んだのかもしれない。衰えた体を動かして、家の中を探し回った。 出張からかえってきた広一の息子、良は家につき愕然とした。信じていた安心できる場所がガラガラと崩れ落ちる。後始末に追われ、いなくなった妻の元へ向かう。妻に頭を下げて別れたくないと懇願した。 平和だった丸田家に襲い掛かる不幸。どんどん倒れる家族。 信じていた家族の形が崩れていく。 倒されたのは誰のせい? 倒れた達磨は再び起き上がる。 丸田家の危機と、それを克服するまでの物語。 丸田 広一…65歳。定年退職したばかり。 丸田 京香…66歳。半年前に退職した。 丸田 良…38歳。営業職。出張が多い。 丸田 鈴奈…33歳。 丸田 勇太…3歳。 丸田 文…82歳。専業主婦。 麗奈…広一が定期的に会っている女。 ※7月13日初回完結 ※7月14日深夜 忘れたはずの思い~エピローグまでを加筆修正して投稿しました。話数も増やしています。 ※7月15日【裏】登場人物紹介追記しました。 ※7月22日第2章完結。 ※カクヨムにも投稿しています。

竜頭

神光寺かをり
歴史・時代
幕末の信州上田藩。 藤井松平家の下級藩士・芦田家に、柔太郎と清次郎の兄弟が居た。 兄・柔太郎は儒学を学ぶため昌平黌《しょうへいこう》へ、弟・清次郎は数学を学ぶため瑪得瑪弟加塾《まてまてかじゅく》へ、それぞれ江戸遊学をした。 嘉永6年(1853年)、兄弟は十日の休暇をとって、浦賀まで「黒船の大きさを測定する」ための旅に向かう。 品川宿で待ち合わせをした兄弟であったが、弟・清次郎は約束の時間までにはやってこなかった。 時は経ち――。 兄・柔太郎は学問を終えて帰郷し、藩校で教鞭を執るようになった。 遅れて一時帰郷した清次郎だったが、藩命による出仕を拒み、遊学の延長を望んでいた。 ---------- 神童、数学者、翻訳家、兵学者、政治思想家、そして『人斬り半次郎』の犠牲者、赤松小三郎。 彼の懐にはある物が残されていた。 幕末期の兵学者・赤松小三郎先生と、その実兄で儒者の芦田柔太郎のお話。 ※この作品は史実を元にしたフィクションです。 ※時系列・人物の性格などは、史実と違う部分があります。 【ゆっくりのんびり更新中】

処理中です...