茜さす

横山美香

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 渡良瀬川の支流である鬼名川は、かつて君水藩の暴れ川として知られていた。
 特に十二年前、梅雨時に起こった大水の被害は甚大で、河堤を破った濁流が周辺の家々を押し流し、地域一帯が壊滅的な被害を被った。その後に流行った疫病の犠牲者も合わせて、死者は数百から数千人と言われている。――あまりに被害が甚大過ぎて、藩でも正確な死者数を把握しきれなかったらしい。
 その後、藩主武智泰久が鬼名川の護岸工事を決断し、堤防や堤を改めて築き直した為、ここ十年程は大規模な氾濫は起きなかった。それでも人々が大水の記憶を忘れまいと、水谷の街に作ったのが石碑である。町役人の手を経ず、住人達の寄進で出来た石碑には、大水の際、この石碑のある場所まで水がやってきたことが記されていた。
「――本当に、こんなところまで水が来たんですね」
 加賀谷の街から渡良瀬川を渡り、一日ほど歩いたところにあるのが水谷の街である。この辺りはすでに君水藩の本領であり、西の街道を半日ほど行けば藩主が住まう山城がある城下町に、そして東に向かうとるいの故郷である元忍びの山里に向かう。その日、鬼名川を越える橋を渡り、水谷の街へと続く道途中の石碑で足を止めたるいは、周囲の景色を見渡していた。
 城下に近いだけあって、家の数も多く、界隈には大きな商家や旅籠が数多く立ち並んでいる。あまり古い建物が見当たらないように思うのは、一度大水ですべて流された為なのか。確かにこんな街中まで水がやって来たのであれば、被害はさぞ甚大であったことだろう。
「いや、正確に言うと石碑よりまだ先までだな。何しろ、この街には高台が少ないから、東の山の下くらいまでは水が来た」
 足を止めたるいの斜め後ろで、同じく旅装束の若者が石碑に刻まれた文字に目を眇めている。
 十二年前、るいはまだ四歳だったが、街に炭売りに言っていた里の住人が、鬼名川が大変なことになったと言っていたのを覚えている。雅勝はるいより三つ年長なので当時七歳か。多少物心ついていたにしろ、どこまで水が来たかなど、随分詳しく知っているようだ。それとも影衆とは明野領だけでなく、君水藩の過去のあらゆる事態にも精通しているのだろうか。
 疑問がそのまま表情に出たらしい。るいの顔を見て、雅勝はほんの少しだけ表情を緩ませた。
「いや、俺の場合は知っているというより、単に覚えているだけだ」
「え?」
「何しろ住んでいたからな。――その頃、この街に」
 言って、多分、笑ったつもりだったのだろう。息を吐き、口の端を軽く持ち上げた表情が、何故だか少し苦しそうに見えた。


  ふかした芋に味噌を塗って焼いた芋田楽は、水谷の街の名産品である。
 この辺りは元々大豆の産地なので、美味い味噌を作る店がたくさんある。そんな味噌問屋の一つが、自店の味噌を売り込む為に、熱々にふかした芋に甘辛い味噌を塗って客に振舞ったところ評判を呼んだのがはじまりであったらしい。
 もちろん、生まれてから十歳までこの街で育ったので、雅勝も芋田楽は何度も食べたことがある。いや、水谷で暮らしていて、芋田楽を一度も食べたことのない人間などいないだろう。大して値もはらず、食事にも子どもおやつにも酒のつまみにもなる、きわめて万能な一品である。
 焼いた里芋の焦げ目に味噌が絡み、一口頬張ると口の中で熱々の芋の粘り気と味噌のうま味が混じりあう。食べなれた味への郷愁を抜きにしても大そう美味い。
 その日、水谷の街の目抜き通りにある田楽やで、昼食代わりの芋田楽を頬張りながら、雅勝は自らの記憶にある街と今の街との違いに密かに驚いていた。
 雅勝の父は普請方にいたので、大水の後はお救い小屋を作るのにひたすら走り回っていた。藩も物資を届けようとしたようだが、何しろ橋が落ちているので木材も水も食料も必要な量は手に入らなかったらしい。水がまだ充分に引かないうちに疫病が蔓延し、多くの人間が胃から水を吐き、顔を紙のように真っ白にして死んでいった。
 雅勝の記憶にある水谷の街は、大水からの復興途中で、空き地や瓦礫の山があちこちに残っていた。道行く人々の顔にもまだ悲壮感が残っていたように思う。いや、それは単に疫病で父が死んだ後の困窮した生活を元に、こちらが勝手に記憶を改ざんしている所為だろうか。
「雅勝殿、水谷の生まれだったんですね。でしたら、この辺りのことに詳しいはずですね」
 雅勝の斜向かいの席に座って、るいもまた芋田楽を頬張っている。元忍び里には外部の人間の立ち入りができないので、この先、山に入る入口付近まで送っていって、二日後にまた同じところで待ち合わせることになっていた。
「いや、さすがに九年もたってるからな。もう俺の記憶からはずいぶん変わっているみたいだし、今のこの街のことはわからん」
「え、九年間、一度も来た事がなかったんですか?」
「……ああ、まあな」
 この街と城下は近いので、一人で明野領と本領を行き来するようになってからは、来ようと思えば来られなかったわけではない。この街を出た当初ならともかく、十歳の少年と十九の今とでは、顔かたちも声も変わっているから、さすがに昔の知り合いとすれ違ったとしても、それが元普請方樋口家の嫡男とは気づかれないだろう。来られなかったのではなく、来なかったのだと自分ではずっとそう思っていたのだが。忠雅と御見の方がこんな御役目を振ってこなければ、この先も水谷には足を踏み入れなかったかもしれない。
 ――もしかしたら、もっと早くに一度来てみるべきだったのかもしれない。
 あの日、投げ込み寺の庭の片隅で、るいが里に手習い所をつくりたいと言った時、雅勝はこれまでに感じたことのなかった衝撃を受けた。人はこのように未来を語るのか、と。弟分達に未来を見せる為、そして影衆が二十まで生きられないという不文律を終わらせる為にも、半ば意地のように生き延びようとしていたが、正直、生きていたところでその先にしたいことも、かなえたい目的もない。ただ昨日の続きで今日を生きているだけであれば、それはもしかすると生きているとは言えないのかもしれない。
 一人では決して思いつきもしなかった。彼の人生に彼女という異分子が入り込んで、はじめて感じた衝動。入り込んでしまったことの是非はともかく、確かにちょうどよい機会かもしれない。
「るい、食べ終わったら、少しだけ寄り道してもいいか」
「はい?」
 芋田楽の串を皿に戻し、相変わらず小動物めいた仕草で、どこへ?と問うてくる。
「――俺の家だ」
 あの後、大水も大火もなかったのなら、今でも恐らく場所は変わっていないだろう。今のこの場所からなら、大した時間もかかりはしないはずだ。
 だが実際に行ってみると、雅勝の記憶にある武家長屋に樋口という家はなかった。
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