茜さす

横山美香

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 その寺は花街の西の外れにあった。
 寺の規模は法勝寺と同じくらいだが、住職はいない。この寺は花街で死んだ遊女達の供養を行う、いわゆる投げ込み寺である。
 その投げ込み寺の一角、神も仏もいない本堂から少し離れた部屋の片隅に美芳太夫――お秋はいた。
 その日、寺を訪れたるいと雅勝を見て、乱れた髪を撫でつけた女は、痩せこけ落ちくぼんだ目が明らかに病人だった。しかし、投げ込み寺は普通、死んだ後で投げ込まれる場所だから、生きている間に投げ込んでくれるというのは極めて珍しいことだ。
 加賀谷の花街では、病になった遊女をまだ息のあるうちにこの寺に投げ込み、可能な限りの療養をさせているのだという。正直、昨夜の段階では半信半疑だったのだが、高濱楼の用心棒は翌日、お秋の居所を知らせてきた。ただ、この寺が遊女の療養に使われていることは、絶対に外部に漏らしてはならないときつく念を押してきたあたり、割と本気で用心棒に勧誘されている気がしないでもない。
 正直、最初に聞いた時には、すべての花街でそうすればいいと思ったものだが、確かにそんなことをすれば客の側が黙っていないだろう。彼女たちが療養している間の生活費は無論、加賀谷の花街の他より高い値が充てられている。生活に困窮し娘を売りたい親など大勢いるのだから、病の遊女など捨て置いてもっと値を下げろと言ってくるに決まっている。
「お秋姉さん」
「おるいちゃん、駄目よ。若い娘さんがこんなところに来たら。……竹の奴が迷惑かけたんだってね。樋口様に聞いたよ。ごめんね」
 実のところ、行ってみてあまりに酷い場所なら、見つからなかったことにしようと思っていた。実際に目にしてこれなら大丈夫かと判断したのだが、雅勝の思う酷いとるいの思う酷いとの間には相当な開きがあるらしい。寺に足を踏み入れるなり、彼女は相当な衝撃を受けたようだった。
 恐らく畳替えなどしていないのだろう。お秋が寝ている部屋の畳はところどこを穴が開いていて、壁には黴が生えている。少しは風通しがよくなるかと障子を空けようとして、立て付けの悪い格子ごと外れてしまった。今日はまだ曇りだから良いようなものの、天気が荒れれば雨風も染み込んでくるのではないか。
 だが、それでも。
 ――俺が売られて来て最初に暮らしていた場所よりも、まだいくらかましだ。
「お秋姉さん、どこが悪いの?うちの父様なら、きっとお医者を呼んでくれる。お願い、里に帰って、ゆっくり養生して」
「……おるいちゃん、それはできないんだよ」
 薄い夜具に身を起こした元太夫の顔が、苦笑としか言いようのない形に歪んだ。いくら他の花街よりましだとはいえ、彼女はこの街に金で買われたのだ。年季が明けるまで、加賀谷の花街以外に居る場所はない。
 己の人生の舵を手放す。――人が金で売られるというのは、そういうことだ。
 お秋が外を見たいと言うので、るいが肩から着物をかけてやっている。立ち上がろうとした時に一瞬、足元がふらついて転びそうになった。とっさに手を差し伸べた時、乱れた襟元から彼女の後ろ首がまともに見えた。かつては白一色であっただろう肌は荒れている。いや、荒れているというより、これはむしろ……。
 雅勝がわかったということがお秋にもわかった。再び顔を上げた時、彼女は元忍び里の娘ではなく、色町で働く女の顔になっていた。
 ――この痩せよう。体の瘡。花街で働く女の廓病か。
「樋口様」
「……」
「……おるいちゃんには、言わないでね」
 さすがは元太夫というべきか。顔を寄せてささやく表情には、一瞬、こちらがたじろぐほどの色香があった。この手の病にそれほど詳しいわけではないが、話にくらいは聞いたことがある。身体に瘡が出るとなると、病はかなり進行している。――恐らく彼女の命はそう長くない。
 女二人で積もる話もあるだろうと思って席をはずして庭に出ると、案の定、投げ込み寺の草木は荒れていた。法勝寺では毎年春から夏にかけて、手習い所の子ども達と小坊主と雅勝とで、草をむしったり枝を落としたり藪を刈ったりしている。昨年はたまたまそんな時に忠雅が訪ねてきたので、鎌を手渡して日暮れ時まで大いに働いてもらった。次席家老殿に庭仕事をさせたとあって、さすがに和尚は顔をしかめていたが、当の本人は結構楽しそうに子ども達と草をむしっていた。
 空に日が高いこの時刻、花街はまだ死んだように眠っているのだろう。誰の気配もなく、人の声もなく、ただ風に吹かれて枝で揺れている葉擦れの音を聞いていると、出立前に忠雅とやりあった時のことが思い出された。
 いつかは言わなければならないと思っていた。伝えた言葉にも想いにも嘘はなかったのだが、言い方と言う時を間違えたような気がしてならない。雅勝と忠雅の付き合いは長く、互いに気ごころも知り尽くしていて、――そして依存があることは、かなり前から自覚していた。
 ――雅勝、お前って基本、一人でいられない奴だよなぁ。
 あれはいつのことだったろう。他でもない、忠雅当人に言われたことがある。正直、一人では面倒くさくて生き延びる努力をする気が失せるので、誰かが近くいてくれた方がありがたいという思いはある。しかし一番の依存相手が、同じ年齢の元同輩というのはいかがなものなのか。忠雅は雅勝とは違って一人でも平気で生きていける人間だし、奴には可愛らしい許嫁もいるのだから、いい加減、付き合い方を考えるべき時が来ているのかもしれない。
「……雅勝殿」
 ぼんやりと今後の友との付き合い方などに思いを馳せていたので、背後の気配に気づくのが遅れた。振り返った瞬間、雲の合間から差し込む陽光がまともに目に飛び込んできて、視界がおかしな方角にぶれて歪んで行く。またあれかと思ったが、さすがにもう大分慣れてきたので、わずかに拳で眉間を押さえただけで、彼女には気づかれずに済んだようだ。
「もう話は終わったのか」
「疲れたみたいで、少し休むって言っていました。年季がまだ残っているので里に戻るのは無理みたいです。――やっぱり、必要ですよね」
「何がだ?」
「いつか、法勝寺のような手習い所をわたしの里でもできないかと思うんです。読み書きができればお秋姉さんのお父さんも騙されずに済んだでしょうし、姉さんも……花街に行かずに済んだ」
 現在、るいの故郷に手習い所はない。るいは幸い、父親が若い頃に明野領で働いていた為、多少の読みを習うことはできたのだが、里の子ども達は大多数が、今なお読み書きも算盤もできないままでいるという。
 雅勝自身は貧しいとはいえ武家の出なので、子どもの頃に手跡指南所にも剣術の道場にも通ったが、影衆に売られてくる子どもも、そのほとんどが無筆だ。誰もが最低限の読み書きだけでも身に着けられれば、確かにるいのいう通り、不幸な未来は大分、減らすことができるだろう。
 しかし最近、やけに熱心に法勝寺に通ってくると思っていたら、そんなことを考えていたのか。
 どうせ乗ることのできる渡し船は明日だし、することがないと忠雅とやりあった時のことを思い出してしまいそうだったし、そしてあまりこの娘と二人きりになりたくなかったという、後ろ向きな理由で今回の件に係っていた雅勝にとって、るいの言葉は新鮮だった。彼女の目は未来を見ている。――どんな時もその先に続くものだけを。
「雅勝殿、お願いがあります」
 その目の持つ強い意志の力に、気圧されてしまったらしい。お願いの内容を聞く前に、雅勝は頷いてしまっていた。


 高濱楼の一部屋を居抜きで借りたい。
 妓楼にとって滅多にないであろうその申し出に、やり手の番頭は相応の値をつけてきた。
 無論、安くはない。しかし酒も食事も遊女もなく一部屋借りるだけであれば、行き帰りの路銀を考えて、かろうじて持ち金の範囲内で収まりそうだった。正確には多少足が出そうな気がしないでもないのだが、まあその程度であれば、法勝寺の部屋の隠し戸の底には多少の蓄えもあるので、何とか事足りるだろう。
 着物と化粧は、紅格子の向こう側で美芳太夫の名前に反応した遊女が融通してくれた。美芳太夫がまだこの楼に居た頃、可愛がっていた妹分であるという。無論、太夫として名が売れていた頃には及ばないのだろうが、髪を結い、化粧をし、唇に紅を差した彼女は、彼女の病を知っている雅勝ですら一瞬、息を呑んで見惚れそうになるほど美しかった。
 るいの願いの内容は、お秋の最後の願いを叶えてほしいというものだった。一人前の大工になる為、上方に旅立つ弟がこれ以上馬鹿なことをしでかさないように、一目、会って別れを告げたい。その場所にかつて一世一代の太夫と名を売った高濱楼を選んだのは、彼女のせめての矜持だろうか。
 その夜、美芳太夫の弟――竹次を連れて高濱楼の一室を訪れた時、十五歳の少年が、幼子のように姉に飛びついて行った。大人になりかかった少年が、妓楼で遊女に跳びかかっているという見方によっては何とも微妙な光景だが、それでも姉弟の再会には、純粋に、人の心を打つものがあった。
「――姉ちゃん!」
「竹!この馬鹿!樋口様に聞いたよ。旅籠に盗み入るなんて、あんたなんて馬鹿な事したんだい!」
 取りすがられた姉の側は、思いの他張りのある声で威勢よく弟を叱り飛ばしている。怒鳴られた弟が、即座に叱られた仔犬のように項垂れたのが、姉弟の力関係を見せつけられたようでおもしろかった。雅勝自身は妹が物心つく前に家を出てしまったので、まともな兄妹関係は築けなかった。あのまま生家で共に育っていたらどうなっただろう。――どう考えても、妹に甘い兄にしかならなかったような気がする。
 ひとしきり叱り飛ばした後で、幼子にするように頭を撫で、弟の濡れた頬を袖でぬぐっている。
「もう馬鹿なことするんじゃないよ。あんたが一人前になって帰って来るまで、姉ちゃんはずっと待っているからね」
 お秋がようやく優しい姉の顔になって、竹次との再会を喜び出した時、視界の隅で、るいが席を立って部屋の外に出て行くのが見えた。さすがに妓楼に遊女抜きで滞在する変わり者など今宵の彼らだけだろうが、場所が場所だ。前後もわからぬほど酔った客に遊女と間違われて部屋に引っ張り込まれでもしたら事である。
 さほど行かぬうちに階段の踊り場の薄暗がりに、小袖姿の細い背中を見つけた。気配に気づいたのだろう。振り返って雅勝を見た彼女の目の縁に涙が見える。だが涙の滴は目の内に留まったまま、頬を伝ってはいなかった。
 そういえば、この娘が泣いているのを見たことがないな、と思う。千代丸君が襲われ、あわや斬られそうになった折も。雅勝が目の前で無抵抗の女子供を斬った時も、それより少し前、街中でいきなり見ず知らずの男に着物を脱がされかけた時も。さぞかし恐ろしかったろうに、彼女は決して涙を見せなかった。
「るい、どうした?」
「わたし、お秋姉さんに、こんなことしかしてあげられない……」
 恐らく、るいは気が付いている。お秋の命が長くはないことを。しかしそのことを面に出さない芯の強さに、雅勝は好感を持った。この強さは天性のものだろう。この強さがあれば、きっとこの先どんなことがあっても、闇に落ちることなく、まっとうに日の当たる道を歩んで行くのだろう。
 何か言ってやりたいと思って胸の内を探ってみても、思い浮かんだのはごく素直な言の葉だけだった。
 竹次は大工見習として上方に旅立ち、お秋はこのまま里に戻ることもなく、投げ込み寺で朽ち果てる。確かに未来は変わらない。今ここでるいと雅勝が行ったことは、何もできなかったに等しいのかもしれない。
 それでも何かしてやりたいと思うのは、相手のことを人として思えばこそのことだ。例え結果は変わらずとも、心は通じただろう。通じたと信じたい。
「お前は太夫を人として扱った。――割と嬉しいものだぞ。そういうのは」
 言って肩に手を置いた時、るいがはっとしたように顔を上げた。雅勝にもそれ以上、彼女に言えることなど何もない。そのまま二人でしばらくの間、どこかの部屋から聞こえてくる三味線の音と長唄を聞いていた。
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