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明野領から犬脇峠を越えて君水藩本領に向かうには、渡し船を使って渡良瀬川を渡らなければならない。その渡し場にあるのが加賀谷の街である。この辺りは君水藩の親戚筋である生野藩の領内だが、明野領と君水藩の往来については例外的に往来手形なしでの通交が許されていた。飛び地領から本領に向かう時には必ず通る場所なので、雅勝もこの九年、何度もこの街に来たことがある。
明野領同様、交通の要衝の街なので、いつ来ても街中には大勢の人がいる。渡し船を待つ人々の為の宿が立ち並び、飯屋や居酒屋が立ち並ぶ界隈の向こうには、この辺りで一番大きな花街もあった。
渡し船の運行や乗せる客の数は川の水量に左右される為、旅人は通常、この街で数日間待たされる。その日、脚絆手甲の旅装束で加賀谷にやって来た雅勝は、あらかじめ取ってあった宿に荷をあずけ、建物の外に出た。脳裏には、出立直前にやりあった忠雅との会話が、苦々しいくらい明確によみがえっていた。
「俺を殿の本領行きから外すだと?――忠雅、お前、何を考えてるんだよ!」
領主武智雅久の本領行きを十日後に控え、影衆の割り振りは既に忠雅には伝えてあった。今回、雅久が向かうのは武智家の本家なのだが、意識の上では敵地に近い。影衆の中でも実践経験豊富な者を優先的に割り振れば、もちろん、最年長である雅勝自身が本領に付き従うことになる。
その最年長を本領行きから外し、ならば明野領で嫡子千代丸君の護衛に回るのかと思えば、その任からも外して別なところに出立せよと言う。雅勝でなくとも疑問に思うし、正直、下の者達に何と伝えてよいのか言葉さえ思いつかない。
「雅勝、お前は過保護すぎるんだ。少しは雅道達のことも信用しろ。今回は雅道、雅明、雅規の三人で殿を守る。異論は許さん」
「他のことならいくらでも任せるが、こればかりは無理だ。敵地のど真ん中だぞ。あの三人だけで務まるか」
「お前がいれば、あいつらは無意識にお前をかばうだろう!むしろ今はお前がいる方が足手まといなんだよ!」
大音声で怒鳴られて、清水の邸の立派な柱が軋んだ音を立てる。忠雅と雅勝の付き合いはもう十年近くになるが、はじめてあった時からウマがあったので、ここまで意見が分かれたのは初めてのことだ。何か言い返そうと息を吸い込んで、とっさに返す言葉が思いつかず、結果、雅勝は黙り込んでしまった。
本当は、忠雅が何を言いたいのかはわかっていた。
飛虫の毒から回復してしばらく経つが、いまだにめまいの発作が収まらない。頻度は数日に一度程度で、症状も一瞬のふらつき程度にまでは改善した。日常生活はまったく問題がないし、ならず者をこらしめる程度であれば今まで通り戦うこともできる。だがこと相手が本領の隠密となった場合、その一瞬が命取りになる。
「あの三人を信頼してないのはお前だろう、忠雅。あいつらなら、俺が目の前で死んだとしても立派に御役目を果たす。千代丸君の養子縁組を藩の人間が容易に認めるとは思えない。……行かせてくれ、忠雅」
忠雅が取り仕切るようになって以来一度もないが、その前は影衆にとって、ただ意味もなく死に行くだけの御役目が何度もあった。帰って来られないと承知で旅立っていた年長者の背中を彼らは共に何度も見送ってきたのだ。
はたから見れば短い人生であろうとも、逝くときは年長者から先に逝くべきだ。命を落とす危険が高いとわかっている場所に赴く弟分の背を見送る方が、今の雅勝にとっては耐えがたいことだった。
「駄目だ」
「忠雅!」
「少なくとも来年までは、お前に死なれるわけにはいかないんだ。お前には別なところに行ってもらう。――御役目だ」
御役目と命じられれば、例えそれが死ぬことであったとしても従うのが影衆だ。いつの間にか立場が変わって、御役目を告げる側と受ける側になってしまったが、少なくとも雅勝にとって、今でも忠雅は友だ。これからも友でありたいと願う。せめてそらくらい願っていなければ、明野領で過ごしたこの九年間がまったく救いのないものになってしまう。
「忠雅、本当は前からずっと言おうと思っていたんだがな」
「……」
「お前、俺の人生で自分の夢をかなえようとするのはやめろ」
雅勝の言葉はあやまたず、忠雅の最も痛いところをついたらしい。まともに傷ついた眼をされて、雅勝の心もまだ痛んだ。だが、どうしてもこれだけは言わなければならない。せっかく大手を振って表の世界に帰ったのだ。友には友の人生を生きてほしい。例えそれが、雅勝が死んだ後の世であったとしても。
「お前の夢はお前の人生でかなえろ。――忠雅」
明野領同様、交通の要衝の街なので、いつ来ても街中には大勢の人がいる。渡し船を待つ人々の為の宿が立ち並び、飯屋や居酒屋が立ち並ぶ界隈の向こうには、この辺りで一番大きな花街もあった。
渡し船の運行や乗せる客の数は川の水量に左右される為、旅人は通常、この街で数日間待たされる。その日、脚絆手甲の旅装束で加賀谷にやって来た雅勝は、あらかじめ取ってあった宿に荷をあずけ、建物の外に出た。脳裏には、出立直前にやりあった忠雅との会話が、苦々しいくらい明確によみがえっていた。
「俺を殿の本領行きから外すだと?――忠雅、お前、何を考えてるんだよ!」
領主武智雅久の本領行きを十日後に控え、影衆の割り振りは既に忠雅には伝えてあった。今回、雅久が向かうのは武智家の本家なのだが、意識の上では敵地に近い。影衆の中でも実践経験豊富な者を優先的に割り振れば、もちろん、最年長である雅勝自身が本領に付き従うことになる。
その最年長を本領行きから外し、ならば明野領で嫡子千代丸君の護衛に回るのかと思えば、その任からも外して別なところに出立せよと言う。雅勝でなくとも疑問に思うし、正直、下の者達に何と伝えてよいのか言葉さえ思いつかない。
「雅勝、お前は過保護すぎるんだ。少しは雅道達のことも信用しろ。今回は雅道、雅明、雅規の三人で殿を守る。異論は許さん」
「他のことならいくらでも任せるが、こればかりは無理だ。敵地のど真ん中だぞ。あの三人だけで務まるか」
「お前がいれば、あいつらは無意識にお前をかばうだろう!むしろ今はお前がいる方が足手まといなんだよ!」
大音声で怒鳴られて、清水の邸の立派な柱が軋んだ音を立てる。忠雅と雅勝の付き合いはもう十年近くになるが、はじめてあった時からウマがあったので、ここまで意見が分かれたのは初めてのことだ。何か言い返そうと息を吸い込んで、とっさに返す言葉が思いつかず、結果、雅勝は黙り込んでしまった。
本当は、忠雅が何を言いたいのかはわかっていた。
飛虫の毒から回復してしばらく経つが、いまだにめまいの発作が収まらない。頻度は数日に一度程度で、症状も一瞬のふらつき程度にまでは改善した。日常生活はまったく問題がないし、ならず者をこらしめる程度であれば今まで通り戦うこともできる。だがこと相手が本領の隠密となった場合、その一瞬が命取りになる。
「あの三人を信頼してないのはお前だろう、忠雅。あいつらなら、俺が目の前で死んだとしても立派に御役目を果たす。千代丸君の養子縁組を藩の人間が容易に認めるとは思えない。……行かせてくれ、忠雅」
忠雅が取り仕切るようになって以来一度もないが、その前は影衆にとって、ただ意味もなく死に行くだけの御役目が何度もあった。帰って来られないと承知で旅立っていた年長者の背中を彼らは共に何度も見送ってきたのだ。
はたから見れば短い人生であろうとも、逝くときは年長者から先に逝くべきだ。命を落とす危険が高いとわかっている場所に赴く弟分の背を見送る方が、今の雅勝にとっては耐えがたいことだった。
「駄目だ」
「忠雅!」
「少なくとも来年までは、お前に死なれるわけにはいかないんだ。お前には別なところに行ってもらう。――御役目だ」
御役目と命じられれば、例えそれが死ぬことであったとしても従うのが影衆だ。いつの間にか立場が変わって、御役目を告げる側と受ける側になってしまったが、少なくとも雅勝にとって、今でも忠雅は友だ。これからも友でありたいと願う。せめてそらくらい願っていなければ、明野領で過ごしたこの九年間がまったく救いのないものになってしまう。
「忠雅、本当は前からずっと言おうと思っていたんだがな」
「……」
「お前、俺の人生で自分の夢をかなえようとするのはやめろ」
雅勝の言葉はあやまたず、忠雅の最も痛いところをついたらしい。まともに傷ついた眼をされて、雅勝の心もまだ痛んだ。だが、どうしてもこれだけは言わなければならない。せっかく大手を振って表の世界に帰ったのだ。友には友の人生を生きてほしい。例えそれが、雅勝が死んだ後の世であったとしても。
「お前の夢はお前の人生でかなえろ。――忠雅」
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