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「参ったな……」
雅勝が帰った後の陣屋の一室で、薄暗がりの中で懐手しながら、忠雅は先ほどの光景を脳裏で反芻していた。
――これが、雅道が言っていたことか。
いつになく深刻な顔をした弟分が清水の邸を訪ねてきたのは、数日前のことだった。
おるいの献身的な看護もあり、何とか自力で毒から回復したように見えていた雅勝が御役目の最中、刀を取り落したという。その時は相手が本領の隠密等ではなく、単なる素浪人の道場破りだったので、難なく蹴り倒して事なきをえたらしいが、影の弟達の中で最も注意深く思慮深い雅道の目に、それは一種、異様な光景として映ったらしい。
実際のところ、飛虫の毒というのは結構強い。後に障りが残ることも考えられないことではないのだが、現実に目してぞっとした。よりにもよって、領主が本領に向かう直前に、影衆一の遣い手の体調が危ういとは。
大体、通常の雅勝であれば女の平手打ちなど難なく避けるか掴み取るはずなので、多少呆けていたにしろ、まともにくらってしまったあたり、どこかおかしいのは間違いない。日にち薬とは体調が戻るまでゆっくり静養していられる人間のことであって、影衆にそんなものを求めるだけ無駄だ。
「しかし、わかっているのかね、あいつは……」
事故とはいえ不埒な行い直後の平手打ちではない。理由を問われた後の平手打ちであったということに忠雅は意味を感じる。自分から海を見に行こうと誘っておいてそんなつもりはないと言うのも噴飯ものだが、多分、雅勝がごく普通の言葉を――好いたとか可愛いとか――言っていたなら、平手打ちではないもっと別の結末があったのではないか。
と考えかけて、まあ、その件についてはどうでもいいかと思い直す。こと色恋沙汰に関しては、婚約して三年、許嫁を延々放置し続けている忠雅が他人にとやかく言える筋合いではない。
今考えるべきことはただ一つ。何としても奴を死なせない。それだけのことだ。
外して立てかけてあった大小の刀を手に、着物に寄った皺を軽く手で整える。
こんなとき、忠雅が向かう場所はいつも一つしかなかった。
奥座敷に通されると、その人はいつものように歓迎してくれた。
明野領主武智雅久正室・御見の方と忠雅は、彼女がまだ独身で、お紫乃様と呼ばれていたころから面識がある。はじめて会った時、彼女は忠雅の長兄の許嫁だった。本来清水家を継ぐはずだった長兄は妾腹の七男をいつも清々しく無視していたし、その他の兄達は気まぐれに思い出しては、殴ったり蹴ったり紐で繋いだりして苛んでいた。誰一人として手を差し伸べる者のなかった少年に、何故彼女だけが優しくしてくれたのか。今でもわからない。
加賀から取り寄せた上質の菓子とほうじ茶を味わいながら、事の次第を説明すると美貌の正室は柳眉を寄せた。影子時代から忠雅と雅勝はほぼ行動を共にしていたので、御見の方も雅勝には馴染みがある。
「飛虫の毒の後遺症とな」
「恐らくは」
一応、今では清水家の書院に忠雅以上に詳しくなった雅道と一緒に書物を漁り、何かよい対処方がないかと探してはみたが、南国の毒虫についての詳細はわからなかった。陣屋に出入りする医者をつかまえてそれとなく尋ねてみたのだが、患者を診ないことには判断できないと軽くあしらわれた。実際に連れていっても絶対に診てはくれないくせにとその時は腹が立ったが、今ここでそれを言っても仕方がない。すぐに症状の治癒改善を望めないのであれば、できることは一つしかない。
「となると、雅勝はしばらく御役目から外したほうがよいな」
「ありがとうございます。――お方様」
本来ならば、今回の件について最も心に憂いを帯びているのは御見の方のはずである。千代丸君が本家の養子となったならば、彼女は愛児と引き離されることとなる。遠い江戸へ――それも周囲が敵だらけの中に、まだ幼い我が子を送り出さなければならない心痛はいかばかりか。
「わかった忠雅、その件はわらわに任せよ。何とかしよう」
しかし今、心に帯びた憂いをまったく感じさせず、忠雅の頼みを請け負った正室の顔はとても頼もしかった。
雅勝が帰った後の陣屋の一室で、薄暗がりの中で懐手しながら、忠雅は先ほどの光景を脳裏で反芻していた。
――これが、雅道が言っていたことか。
いつになく深刻な顔をした弟分が清水の邸を訪ねてきたのは、数日前のことだった。
おるいの献身的な看護もあり、何とか自力で毒から回復したように見えていた雅勝が御役目の最中、刀を取り落したという。その時は相手が本領の隠密等ではなく、単なる素浪人の道場破りだったので、難なく蹴り倒して事なきをえたらしいが、影の弟達の中で最も注意深く思慮深い雅道の目に、それは一種、異様な光景として映ったらしい。
実際のところ、飛虫の毒というのは結構強い。後に障りが残ることも考えられないことではないのだが、現実に目してぞっとした。よりにもよって、領主が本領に向かう直前に、影衆一の遣い手の体調が危ういとは。
大体、通常の雅勝であれば女の平手打ちなど難なく避けるか掴み取るはずなので、多少呆けていたにしろ、まともにくらってしまったあたり、どこかおかしいのは間違いない。日にち薬とは体調が戻るまでゆっくり静養していられる人間のことであって、影衆にそんなものを求めるだけ無駄だ。
「しかし、わかっているのかね、あいつは……」
事故とはいえ不埒な行い直後の平手打ちではない。理由を問われた後の平手打ちであったということに忠雅は意味を感じる。自分から海を見に行こうと誘っておいてそんなつもりはないと言うのも噴飯ものだが、多分、雅勝がごく普通の言葉を――好いたとか可愛いとか――言っていたなら、平手打ちではないもっと別の結末があったのではないか。
と考えかけて、まあ、その件についてはどうでもいいかと思い直す。こと色恋沙汰に関しては、婚約して三年、許嫁を延々放置し続けている忠雅が他人にとやかく言える筋合いではない。
今考えるべきことはただ一つ。何としても奴を死なせない。それだけのことだ。
外して立てかけてあった大小の刀を手に、着物に寄った皺を軽く手で整える。
こんなとき、忠雅が向かう場所はいつも一つしかなかった。
奥座敷に通されると、その人はいつものように歓迎してくれた。
明野領主武智雅久正室・御見の方と忠雅は、彼女がまだ独身で、お紫乃様と呼ばれていたころから面識がある。はじめて会った時、彼女は忠雅の長兄の許嫁だった。本来清水家を継ぐはずだった長兄は妾腹の七男をいつも清々しく無視していたし、その他の兄達は気まぐれに思い出しては、殴ったり蹴ったり紐で繋いだりして苛んでいた。誰一人として手を差し伸べる者のなかった少年に、何故彼女だけが優しくしてくれたのか。今でもわからない。
加賀から取り寄せた上質の菓子とほうじ茶を味わいながら、事の次第を説明すると美貌の正室は柳眉を寄せた。影子時代から忠雅と雅勝はほぼ行動を共にしていたので、御見の方も雅勝には馴染みがある。
「飛虫の毒の後遺症とな」
「恐らくは」
一応、今では清水家の書院に忠雅以上に詳しくなった雅道と一緒に書物を漁り、何かよい対処方がないかと探してはみたが、南国の毒虫についての詳細はわからなかった。陣屋に出入りする医者をつかまえてそれとなく尋ねてみたのだが、患者を診ないことには判断できないと軽くあしらわれた。実際に連れていっても絶対に診てはくれないくせにとその時は腹が立ったが、今ここでそれを言っても仕方がない。すぐに症状の治癒改善を望めないのであれば、できることは一つしかない。
「となると、雅勝はしばらく御役目から外したほうがよいな」
「ありがとうございます。――お方様」
本来ならば、今回の件について最も心に憂いを帯びているのは御見の方のはずである。千代丸君が本家の養子となったならば、彼女は愛児と引き離されることとなる。遠い江戸へ――それも周囲が敵だらけの中に、まだ幼い我が子を送り出さなければならない心痛はいかばかりか。
「わかった忠雅、その件はわらわに任せよ。何とかしよう」
しかし今、心に帯びた憂いをまったく感じさせず、忠雅の頼みを請け負った正室の顔はとても頼もしかった。
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