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松の木の張り出した向こうに、大海原が広がっている。
見上げる空は青、空の色を映した海面もまた青い。幸いにもよく晴れてくれたので、太陽の光が波間に反射して、砕けた玻璃の欠片のように光っているのがやけに眩しいと感じる。白浜では地元の漁師達が船を出していて、勇ましい掛け声とかもめの声が祭囃子の太鼓のように、波打ち際で木霊していた。
「綺麗……、わたし海を見るのはじめてなんです」
るいの故郷は本領の山奥なので、恐らくそうだろうと思って誘ったのだ。かくいう雅勝も本領の出なので、明野領にやってきてはじめて海を見た。はじめて見た時、自分が何故この地にやってきたのか忘れるくらい驚いて、何度か一人で海を見に来たことがある。船がつく場所はあまり治安がいいとは言えず、女だけで行くことは勧められないが、さすがに自分がついていれば滅多なこともないだろう。これまで、よく考えれば世話になりっぱなしだった気がするので、最後に礼のつもりだった。
「すごい、船があんなに遠くに。船に乗って遠くに行くって、どんな気分なんでしょうね」
潮風になびく髪を抑えながら、かつて雅勝も思ったのと同じようなことを言う。
「……さあな。俺も行ったことがないからわからん」
すでに和尚には、法勝寺を出ることは伝えてあった。
法勝寺をねぐらにして三年、陣屋からも清水の邸からも近いし、子ども達の手習いを見るのも結構楽しかったのだが、多分、ひとところに長く居すぎたのだ。今度は少し離れたところに行って――これでもう綺麗さっぱり会うこともない。
るいに対し、可愛らしい娘だと思う程度の感情は雅勝にもある。忠雅の許嫁である菊乃を花のような娘だと思っていたが、るいのそれは小動物の可愛さだ。自分以外誰もいないと思っていた森の中で、不意に野兎か栗鼠に出くわした時の感覚に近いものがある。
もしもこちらが本当にただの素浪人の手習い所の師匠だったなら、別の気持ちも動いただろうか。影衆はいったん御役目に出れば食料調達も自分でしないとならないので、兎も栗鼠も捕えたことがある。だがもちろん、彼女は人間なので、まさか捕えて食ってしまうわけにもいかない。
陣屋から海までは大人の足で簡単に日帰りの距離なので、行き帰りは色々な話をした。特に忠雅が厨で餅を食っていた件については、大いに笑わせてもらった。あの昔馴染みは、どれほど地位と立場が変わっても言動が昔とそう変わらない。稀有な奴だとは思うのだが、しかし今はもう厨に忍び込んでものを食わなくともよいのに、まだそんなことをやっているのか。
ひとしきり笑って陣屋の石垣が見えるところまでやって来た時、不意に背後に何かを感じた。殺気はない。あればもっと早くに気が付いている。しかしそうとわかっていても咄嗟に刀を抜きそうになるほど、その気配は強烈だった。
考えるより先に身体が動いた。何かが迫ってくる方角と傍らに歩いていた相手との間に身を滑らせると、突風に巻かれた小石や枝が雅勝の背にぶつかって、地面にぱらぱらと散った。
いくら風が強いと言っても、普通はせいぜい草や葉っぱを巻き上げるくらいで、小石なんてものは巻き上げないだろう。大体、何の身構えもないところにこんなものが当たれば怪我をする。雅勝自身、この季節を迎えるのは八回目だが、この殺人的な突風はどうにかならないものかと常々思う。
「大丈夫か?」
風の攻撃をやり過ごした次の刹那、まったく思ってみなかった形で動揺した。先ほどまで、隣り合っていた白い頬との距離がやけに近い。動揺の結果、一瞬、体の均衡が崩れて、目の前の景色が斜めになって揺らいだ。
「――雅勝殿?」
雅勝は石壁に手を突いて自分の身体を支えようとした。るいは壁と雅勝との間で、ちょうど、顔を上げたところだった。
もともと、あってなかった距離がさらに狭くなる。それこそ、互いの目の中に映る自分の姿が見えるくらいに。
吐き出された呼気と呼気がぶつかって、それよりもっと暖かくて柔らかい感触がほんの一瞬、しかし確かにかすめて触れ合った。驚いて目を見開いた雅勝のすぐ目の前で、るいも同じように目を見開いている。
――今、何が起こった?
「……どうして」
この状況で、囁き声で問われたところで、答えられるわけもない。はっきりいって完全に混乱して困惑して呆けていたので、口から出たのはごく素直な言の葉だけだった。
「さあ……」
黒い瞳の縁に強い光が浮いた、と思った次の瞬間、繰り出された強烈な平手打ちを、雅勝はまともに食らっていた。
約束の時刻に陣屋の一室に行くと、忠雅は文字通り爆笑した。
腹を抱え、身をよじり、目に涙まで浮かべて笑っている。清水の家督を継いで以来、忠雅は眉をしかめた難しい顔をすることが多くなったので、付き合いの長い雅勝でさえ、これほど笑っているのを見たのは久しぶりだ。しかし御役目絡みで人を呼び出しておいて、要件も言わずひたすら笑い続けるのはやめてもらいたい。
「――忠雅、お前、もういい加減笑い止め」
女の細腕とはいえ至近距離でまともに食らったので、結構、痛い。忠雅は爆笑しながらもどこかから氷をもらって来てくれたので、手拭いで包んで顔の左側を冷やしてみる。これで多分、歯痛を患っている人間くらいの顔にはなるだろう。
「しかし、雅勝お前、いつの間に二人で海に行くような仲になっていたんだよ」
「だから、そういうのではないと、さっきから何度も言っているだろうが」
さすがに次席家老殿も引き際は心得ている。袂から懐紙を取り出して大笑いの名残をふき取って、途端、真顔になった。
「――来月、殿が本領に行く。千代丸君の養子縁組について、泰久候と正式に話し合うおつもりだ」
藩主武智泰久の男子は嫡男の嗣久ただ一人、その嗣久は病弱で、正室にも側室にも男子はいないが、かつて江戸藩邸に仕える奥女中に生ませた姫が一人だけあった。姫は現在六歳なので、今年三歳の千代丸君を嗣久の養子とし、将来的に姫と娶せ君水藩を継がせる――ということはかなり以前から、本領でも明野領でも語られていたことではあった。
「まあ、普通に考えてそれが一番無難……なんだろうな」
本領の下級武士の嫡男――今は影衆の分際で御家の事情に口を挟む気など毛頭ないが、一般的にそれが一番無難な形なのだろうと雅勝も思う。末期養子は基本御法度なので、後継を定めないまま藩主と嫡子に万が一のことがあると、君水藩そのものがお取り潰しになる。最悪の事態を避ける為、早めに跡目は決めておいた方がいい――のだが。
「あちらさんが認めないのはまだわかるんだけど、うちのご老体達からも異論が続出しそうなんよなあ」
途方に暮れたような友の呟きに、さもありなんと息を吐き出す。明野領の家臣は高齢になればなるほど本領の家督に固執する傾向が強い。行く行く千代丸君が藩主になるのでは満足せずに、明野領主雅久を泰久候の後継に定めるべきと騒ぎ立てるのは目に見えている。
現在、明野領の五大家老――筆頭家老川口家、次席家老清水家と佐竹、上原、飯野の他三家のうち、御見の方の実家である川口家の当主・川口忠道と上原・飯野両家には特にその傾向が強い。席次は二番目でも年若く影衆上がりの忠雅の発言権は弱く、その意味でも佐竹家の菊乃と縁組は意味のあるものなのだ。
彼らの解釈では、武智家の家督は本領側に不当に奪われたことになっている。奪われたものだから当然奪い返す権利があると考えているらしいのだが、そもそも初代藩主を決めたのは幕府なのだから、その件について本当に反意を抱くのであれば江戸の将軍家に対してだろうと雅勝は思う。
「いつもいつも、二言目には『戦国の世ならば初代は智久候ではなく道久候だったはずだ』ってな。ったく、戦国の世にはあんたらだって生まれてないか、まだ子どもだっただろうが」
妾腹に生まれ影衆を経験し、今は家老職として気苦労の多い友の本音には苦笑しかない。友の苦労に惜しみなく同情しながら、雅勝は先の算段を行うことにした。
「まずは殿の身を守って一緒に本領に向かう人員確保か。千代丸君側にも少し人員を増やした方がいいしな。あと、本領を動ける人間も今より少し増やしたい」
さらにうまく養子縁組がまとまった暁には、江戸で暮らすことになる千代丸君を守る専属の影衆も必要だろう。何しろまだ三歳なので、できるだけ年齢の近い者を何人か。無論、それだけでは戦力として劣るので、彼らを統括できる力のある影衆もつけて江戸に遣りたい。
脳裏に年若の影衆や影子の顔と能力を思い起こす。忠雅はすでに影衆を離れているので、現在の彼らの実力がわからない。誰をどこに遣るのか、人選はもっぱら雅勝が行うこととなる。
「人選はしておく。決まったら報告するよ」
「頼んだ。――ところで、もう次のねぐらは決まったのか?」
「まだだ。まあ、しばらくは野宿でもいいしな」
影衆には人別張がないので、気軽に長屋を借りて暮らすことはできない。幸い、これからは暖かくなる一方なので、しばらくは洞穴でも神社の軒先でも凍えはしないだろう。最悪、法勝寺の和尚に身元引受人になってもらうことはできるので、秋までに決まればいいと思っていた。
「なあ雅勝、これを期にあの話、もう一度考えてみないか」
「……清水の家臣になる話か」
最年長の雅勝が影衆を抜け、清水家の正式な家臣になる。それは二人の間では、前々から話し合われていたことだった。
家督を継いだとはいっても清水家では忠雅の父が存命だし、影衆ごときを家臣の列に加えるとなると、相当な軋轢があるだろう。当の雅勝は清水の家中でかなり居辛い思いをすることになるだろうが、今ならやってやれないことはない。何しろ、現在の清水の家長は忠雅なのだから。
――影衆を明野領の家臣として認めさせる。それが最終的な俺の夢だ。
それはかつて、清水の後継となることが決まった時、忠雅が雅勝にだけ語った壮大な夢物語だった。
家臣どころか、ほとんど人としてさえ認められていない影衆が、明野領武智家の正式な家臣となり、扶持を得る身になる。雅勝どころか忠雅の寿命が尽きるまでに叶うかどうか危うい夢だが、忠雅は本気らしい。実際この三年間、命を失った影衆はいたが、上の者の気まぐれで捨て駒となって無駄死にした者は一人もいなかった。影衆を統括する清水家の当主が影衆上がりで、最年長の影衆と個人的に親しいなどという奇跡はこの先どうあっても起こりそうもない。影衆のまま二十歳まで生き延びて、その先は真剣に考えるにしても、今のうちにできるだけの道筋はつけておきたい。
「それについては、来年以降だな。――考えておく」
「おう」
話が終わって立ちあがろうとした時、ぐらりと視界が揺らいだ。
相手が完全に気心の知れた人間なので、気が抜けていた所為もあるだろう。膝から崩れ落ちそうになって忠雅の肩に支えられ、深く息を吐き出す。すぐ間近にある忠雅の顔にしばらく目の焦点が合わなかった。
「おい、大丈夫か?お前、まだそれ、続いてんのか」
それは飛虫の毒にやられて寝込んで以来、時折、起こるようになっためまいの発作だった。ここに来る前の平手打ちの原因となった一件も、恐らくそうだったのだろうと思う。忠雅の前では初めてのはずだが、雅道あたりから聞いていたか。
「……何なんだろうな、これ」
今、目の前で手を開いて握ってみても視界に揺らぎはない。回復したての頃は今より頻度も多く、立っていられず座り込んでしまったこともあったのだが、最近ではかなり回数も減って、症状も軽くなっている。このまま日にち薬で落ち着いて行けばいいのだが、正直に言って、あまり気分の良いものではない。
「とりあえず、今のところは法勝寺に帰ってゆっくり休んでおけ」
「……ああ。そうだな」
支えてくれた友に向けて手を上げ、障子紙を開けた時、太陽の光がやけに目にしみると感じた。
見上げる空は青、空の色を映した海面もまた青い。幸いにもよく晴れてくれたので、太陽の光が波間に反射して、砕けた玻璃の欠片のように光っているのがやけに眩しいと感じる。白浜では地元の漁師達が船を出していて、勇ましい掛け声とかもめの声が祭囃子の太鼓のように、波打ち際で木霊していた。
「綺麗……、わたし海を見るのはじめてなんです」
るいの故郷は本領の山奥なので、恐らくそうだろうと思って誘ったのだ。かくいう雅勝も本領の出なので、明野領にやってきてはじめて海を見た。はじめて見た時、自分が何故この地にやってきたのか忘れるくらい驚いて、何度か一人で海を見に来たことがある。船がつく場所はあまり治安がいいとは言えず、女だけで行くことは勧められないが、さすがに自分がついていれば滅多なこともないだろう。これまで、よく考えれば世話になりっぱなしだった気がするので、最後に礼のつもりだった。
「すごい、船があんなに遠くに。船に乗って遠くに行くって、どんな気分なんでしょうね」
潮風になびく髪を抑えながら、かつて雅勝も思ったのと同じようなことを言う。
「……さあな。俺も行ったことがないからわからん」
すでに和尚には、法勝寺を出ることは伝えてあった。
法勝寺をねぐらにして三年、陣屋からも清水の邸からも近いし、子ども達の手習いを見るのも結構楽しかったのだが、多分、ひとところに長く居すぎたのだ。今度は少し離れたところに行って――これでもう綺麗さっぱり会うこともない。
るいに対し、可愛らしい娘だと思う程度の感情は雅勝にもある。忠雅の許嫁である菊乃を花のような娘だと思っていたが、るいのそれは小動物の可愛さだ。自分以外誰もいないと思っていた森の中で、不意に野兎か栗鼠に出くわした時の感覚に近いものがある。
もしもこちらが本当にただの素浪人の手習い所の師匠だったなら、別の気持ちも動いただろうか。影衆はいったん御役目に出れば食料調達も自分でしないとならないので、兎も栗鼠も捕えたことがある。だがもちろん、彼女は人間なので、まさか捕えて食ってしまうわけにもいかない。
陣屋から海までは大人の足で簡単に日帰りの距離なので、行き帰りは色々な話をした。特に忠雅が厨で餅を食っていた件については、大いに笑わせてもらった。あの昔馴染みは、どれほど地位と立場が変わっても言動が昔とそう変わらない。稀有な奴だとは思うのだが、しかし今はもう厨に忍び込んでものを食わなくともよいのに、まだそんなことをやっているのか。
ひとしきり笑って陣屋の石垣が見えるところまでやって来た時、不意に背後に何かを感じた。殺気はない。あればもっと早くに気が付いている。しかしそうとわかっていても咄嗟に刀を抜きそうになるほど、その気配は強烈だった。
考えるより先に身体が動いた。何かが迫ってくる方角と傍らに歩いていた相手との間に身を滑らせると、突風に巻かれた小石や枝が雅勝の背にぶつかって、地面にぱらぱらと散った。
いくら風が強いと言っても、普通はせいぜい草や葉っぱを巻き上げるくらいで、小石なんてものは巻き上げないだろう。大体、何の身構えもないところにこんなものが当たれば怪我をする。雅勝自身、この季節を迎えるのは八回目だが、この殺人的な突風はどうにかならないものかと常々思う。
「大丈夫か?」
風の攻撃をやり過ごした次の刹那、まったく思ってみなかった形で動揺した。先ほどまで、隣り合っていた白い頬との距離がやけに近い。動揺の結果、一瞬、体の均衡が崩れて、目の前の景色が斜めになって揺らいだ。
「――雅勝殿?」
雅勝は石壁に手を突いて自分の身体を支えようとした。るいは壁と雅勝との間で、ちょうど、顔を上げたところだった。
もともと、あってなかった距離がさらに狭くなる。それこそ、互いの目の中に映る自分の姿が見えるくらいに。
吐き出された呼気と呼気がぶつかって、それよりもっと暖かくて柔らかい感触がほんの一瞬、しかし確かにかすめて触れ合った。驚いて目を見開いた雅勝のすぐ目の前で、るいも同じように目を見開いている。
――今、何が起こった?
「……どうして」
この状況で、囁き声で問われたところで、答えられるわけもない。はっきりいって完全に混乱して困惑して呆けていたので、口から出たのはごく素直な言の葉だけだった。
「さあ……」
黒い瞳の縁に強い光が浮いた、と思った次の瞬間、繰り出された強烈な平手打ちを、雅勝はまともに食らっていた。
約束の時刻に陣屋の一室に行くと、忠雅は文字通り爆笑した。
腹を抱え、身をよじり、目に涙まで浮かべて笑っている。清水の家督を継いで以来、忠雅は眉をしかめた難しい顔をすることが多くなったので、付き合いの長い雅勝でさえ、これほど笑っているのを見たのは久しぶりだ。しかし御役目絡みで人を呼び出しておいて、要件も言わずひたすら笑い続けるのはやめてもらいたい。
「――忠雅、お前、もういい加減笑い止め」
女の細腕とはいえ至近距離でまともに食らったので、結構、痛い。忠雅は爆笑しながらもどこかから氷をもらって来てくれたので、手拭いで包んで顔の左側を冷やしてみる。これで多分、歯痛を患っている人間くらいの顔にはなるだろう。
「しかし、雅勝お前、いつの間に二人で海に行くような仲になっていたんだよ」
「だから、そういうのではないと、さっきから何度も言っているだろうが」
さすがに次席家老殿も引き際は心得ている。袂から懐紙を取り出して大笑いの名残をふき取って、途端、真顔になった。
「――来月、殿が本領に行く。千代丸君の養子縁組について、泰久候と正式に話し合うおつもりだ」
藩主武智泰久の男子は嫡男の嗣久ただ一人、その嗣久は病弱で、正室にも側室にも男子はいないが、かつて江戸藩邸に仕える奥女中に生ませた姫が一人だけあった。姫は現在六歳なので、今年三歳の千代丸君を嗣久の養子とし、将来的に姫と娶せ君水藩を継がせる――ということはかなり以前から、本領でも明野領でも語られていたことではあった。
「まあ、普通に考えてそれが一番無難……なんだろうな」
本領の下級武士の嫡男――今は影衆の分際で御家の事情に口を挟む気など毛頭ないが、一般的にそれが一番無難な形なのだろうと雅勝も思う。末期養子は基本御法度なので、後継を定めないまま藩主と嫡子に万が一のことがあると、君水藩そのものがお取り潰しになる。最悪の事態を避ける為、早めに跡目は決めておいた方がいい――のだが。
「あちらさんが認めないのはまだわかるんだけど、うちのご老体達からも異論が続出しそうなんよなあ」
途方に暮れたような友の呟きに、さもありなんと息を吐き出す。明野領の家臣は高齢になればなるほど本領の家督に固執する傾向が強い。行く行く千代丸君が藩主になるのでは満足せずに、明野領主雅久を泰久候の後継に定めるべきと騒ぎ立てるのは目に見えている。
現在、明野領の五大家老――筆頭家老川口家、次席家老清水家と佐竹、上原、飯野の他三家のうち、御見の方の実家である川口家の当主・川口忠道と上原・飯野両家には特にその傾向が強い。席次は二番目でも年若く影衆上がりの忠雅の発言権は弱く、その意味でも佐竹家の菊乃と縁組は意味のあるものなのだ。
彼らの解釈では、武智家の家督は本領側に不当に奪われたことになっている。奪われたものだから当然奪い返す権利があると考えているらしいのだが、そもそも初代藩主を決めたのは幕府なのだから、その件について本当に反意を抱くのであれば江戸の将軍家に対してだろうと雅勝は思う。
「いつもいつも、二言目には『戦国の世ならば初代は智久候ではなく道久候だったはずだ』ってな。ったく、戦国の世にはあんたらだって生まれてないか、まだ子どもだっただろうが」
妾腹に生まれ影衆を経験し、今は家老職として気苦労の多い友の本音には苦笑しかない。友の苦労に惜しみなく同情しながら、雅勝は先の算段を行うことにした。
「まずは殿の身を守って一緒に本領に向かう人員確保か。千代丸君側にも少し人員を増やした方がいいしな。あと、本領を動ける人間も今より少し増やしたい」
さらにうまく養子縁組がまとまった暁には、江戸で暮らすことになる千代丸君を守る専属の影衆も必要だろう。何しろまだ三歳なので、できるだけ年齢の近い者を何人か。無論、それだけでは戦力として劣るので、彼らを統括できる力のある影衆もつけて江戸に遣りたい。
脳裏に年若の影衆や影子の顔と能力を思い起こす。忠雅はすでに影衆を離れているので、現在の彼らの実力がわからない。誰をどこに遣るのか、人選はもっぱら雅勝が行うこととなる。
「人選はしておく。決まったら報告するよ」
「頼んだ。――ところで、もう次のねぐらは決まったのか?」
「まだだ。まあ、しばらくは野宿でもいいしな」
影衆には人別張がないので、気軽に長屋を借りて暮らすことはできない。幸い、これからは暖かくなる一方なので、しばらくは洞穴でも神社の軒先でも凍えはしないだろう。最悪、法勝寺の和尚に身元引受人になってもらうことはできるので、秋までに決まればいいと思っていた。
「なあ雅勝、これを期にあの話、もう一度考えてみないか」
「……清水の家臣になる話か」
最年長の雅勝が影衆を抜け、清水家の正式な家臣になる。それは二人の間では、前々から話し合われていたことだった。
家督を継いだとはいっても清水家では忠雅の父が存命だし、影衆ごときを家臣の列に加えるとなると、相当な軋轢があるだろう。当の雅勝は清水の家中でかなり居辛い思いをすることになるだろうが、今ならやってやれないことはない。何しろ、現在の清水の家長は忠雅なのだから。
――影衆を明野領の家臣として認めさせる。それが最終的な俺の夢だ。
それはかつて、清水の後継となることが決まった時、忠雅が雅勝にだけ語った壮大な夢物語だった。
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「それについては、来年以降だな。――考えておく」
「おう」
話が終わって立ちあがろうとした時、ぐらりと視界が揺らいだ。
相手が完全に気心の知れた人間なので、気が抜けていた所為もあるだろう。膝から崩れ落ちそうになって忠雅の肩に支えられ、深く息を吐き出す。すぐ間近にある忠雅の顔にしばらく目の焦点が合わなかった。
「おい、大丈夫か?お前、まだそれ、続いてんのか」
それは飛虫の毒にやられて寝込んで以来、時折、起こるようになっためまいの発作だった。ここに来る前の平手打ちの原因となった一件も、恐らくそうだったのだろうと思う。忠雅の前では初めてのはずだが、雅道あたりから聞いていたか。
「……何なんだろうな、これ」
今、目の前で手を開いて握ってみても視界に揺らぎはない。回復したての頃は今より頻度も多く、立っていられず座り込んでしまったこともあったのだが、最近ではかなり回数も減って、症状も軽くなっている。このまま日にち薬で落ち着いて行けばいいのだが、正直に言って、あまり気分の良いものではない。
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幕末期の兵学者・赤松小三郎先生と、その実兄で儒者の芦田柔太郎のお話。
※この作品は史実を元にしたフィクションです。
※時系列・人物の性格などは、史実と違う部分があります。
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