茜さす

横山美香

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 ――先生がご病気なの。
 子ども達にそう告げると、彼らは自身の家から次々と必要なものを持ってきてくれた。使わなくなった火鉢やほつれた浴衣、縁のかけた盥や手拭いが何もなかった部屋に運び込まれて、狭い部屋がいっそう狭くなったように感じる。日頃、子どもがお世話になっている先生だからと、子どもの親が熱冷ましを持ってきてくれた時は、涙が出そうなくらいうれしかった。明野領で、影衆の命がいかに軽く扱われているかはよくわかった。だけど手習い所の師匠としての樋口雅勝は、こんなにも大勢の人に慕われているのだ。
 ――この人は知るべきだ。
 彼の歩んできた人生は過酷なもので、誰かに顧みられることもなく、これまでそのことに疑念を抱くことすらなかったのかもしれない。だけどそれだけがすべてではない。あの厨でちまき餅を食べていた青年だって、るいと彼の関係を誤解していたにしろ、何かしらの情がなければ、るいをこの寺にまで連れてこなかっただろう。
 そのことを知らないままで死ぬべきではない。死なせてはいけない。半ばるいの意地で生かされる側は、たまったものではないかもしれない。抗議の言葉は後でいくらでも聞くことにして、るいは今はただ必死で、男を生かすことだけを考えることにした。
 毒消しの薬だけは手に入るあてがなかったので、手習い所の子ども達に手伝ってもらって薬草を煎じて飲ませた。琉球の毒虫とやらに、るいが知る薬草が効くかどうかはわからない。そもそも身体中に毒が回った後では通常、毒消しは気休め程度の効果しかない。熱があるのは身体が毒と戦っている証なので、簡単に下げない方がいいだろうが、いくら体力のある若い男でも高熱が何日も続けばそのこと自体が肉体を損ねてしまう。どこで熱冷ましを与えるべきかの見極めができなくて、るいは泣きたくなった。
 るいの故郷の山里には医者がおらず、病人や怪我人を医者に見せようと思うと片道一日かかる麓の街まで呼びに行かねばならない。呼びに行くのに一日、連れてくるのに一日、二日は里の者だけで看病をして、医者がやってくるのをひたすら待つ。元忍び里には薬草だけは色々あるので、やってきた医者にいつも患者の様態を見ては、いつどの時期にどの薬を与えるか指示してくれた。患者が回復するかどうかは当人の体力や運に左右されるものだから、医者というのは見極めをするものなのだ。だがこの明野領では、医者は影を診てはくれない。
 灯明の下で、男の額の手拭いを変えると相変わらず熱は高い。汗をかいているのは熱が下がる前ぶれなので悪い兆候ではないだろうが、前見た時よりも呼吸が荒くなっているのが気にかかる。
 これ以上もうどうしてやればいいのかわからなくて、とにかく水を汲んで来ようとその場を離れようとした時――強い力で手を掴まれた。
「雅勝殿……?」
 当の本人に意識はない。なのに、掴む力だけが強い。熱を帯びた大きな掌がるいの手を掴んで放さない。――まるで、行くなと言うかのように。


 影衆に売られた子どもは、影子から影衆になったその年の内に、必ず、死ぬか死にかける。
 それは忠雅と雅勝も例外ではなく、忠雅が二度、雅勝が一度、きっちり死にかけた。
 特に雅勝が死にかけた一度――十三の冬に本領に潜入し、あちらの隠密に正体がばれて右肩を袈裟懸にばっさり斬られた時は、同輩の忠雅だけでなく、年長の影衆の誰もがこれはもう助からないと思ったらしい。
 当時、本領の山城の側にあった廃寺で、割れた屋根から降りしきる雪の中、ただ一人で莚に包って、痛くて苦しくて寒くて、そして何より――寂しかった。
 少し前までは半泣き顔の忠雅が常に側にいて、自分の分の莚をかけてくれたり、外の雪で冷やした手拭いを額に乗せてくれたりしていたのだが、その忠雅も数日前から姿を見かけなくなった。次の御役目に向かったのか、奴の方が先に死んだか、それとも置いて行かれたのか。
 影衆は徹底的に現実主義なので、経験がない者とある者、怪我のある者とない者、死にかけの者と生きている者がいれば、常に後者を優先する。雅勝も以前、年長者に命じられ、傷を負った同輩を置き捨てて逃げたことがある。置き捨てられた者は戻らなかった。きっとあのまま骸になったか、山の獣の腹にでも収まったのだろう。
 貧しい武家に生まれ、狭い家で家族に囲まれて育った雅勝は、それまで真の意味で独りになったことがなかった。影衆に売られた後も周囲には同年齢の影子が大勢いたし、影子達が櫛の歯が欠けるように消えた後も、同輩の忠雅だけは、常に気配を感じていた。
 今、その忠雅にまで去られたと知って、孤独が人を苛むものであることを、雅勝は初めて身に染みて知った。かろうじて動く左手で首から下げた守り袋を手繰り寄せる。生きることが死ぬより辛くなった時の為に、母から与えられた毒。今はただ、苦痛よりも孤独の方が耐えがたかった。
「母上、早紀……」 
 朧になった視界の向こうに懐かしい人の姿を見る。ひとおもいに袋の中身を口にしようとして、その手が中空で止まった。血と泥で汚れて冷えた手が誰かの手で掴まれている。――まるで死ぬなと言うかのように。
 だったら助けてくれよと言いそうになって、不意に雅勝は泣き出したくなった。死にたくない、助けてくれ。はじめて斬った山賊も、置いていかれた同輩もそう言っていた。それを死なせてきたのだ。今更助けを求めたところで、誰が助けてくれるはずもない。
 振り払おうにも力が入らず、押しとどめる手の力は緩まない。次第に意識が白濁し、逆にその手を掴んで引き寄せていた。この手が誰のものかわからない。だけど自分以外の誰かがいることが暖かい。失いたくない。離したくない。死ぬことはそれほど怖くないけれど、一人きりで死ぬのは嫌だ。
 孤独と苦痛の中、ただ一つ与えられた温もりに縋りついて、雅勝は意識を失っていた。


 目覚めて最初に感じたのは苦痛だった。
 雅勝が法勝寺をねぐらにしたのは、それまで寝起きを共にしていた忠雅が清水の後継に決まった後からだから、三年近くになる。御役目で留守にすることも多いし、そもそも出かけたら帰って来られない可能性が高いので、極力、部屋に私物は置かないようにしていた。唯一、私物と呼べるのは隠し扉の向こうの物だけだが、あれの存在は和尚も忠雅も知っている。雅勝が地獄に落ちた後には、彼らがきっとうまく処分してくれることだろう。
 だから目を開けて最初に見たのが自分の部屋の中なのに、一瞬、どこにいるのかわからなかった。見覚えのない火鉢がある。これまた見覚えのない盥には手拭いがかけてあって、文机の上に千代紙やら反故紙で折った折り鶴がずらっと並んでいる。子ども達が折ったのだろうか。白い折り鶴に墨汁で何故か目と眉毛が描いてあって、こちらをじっと見ているのがやけに微笑ましい。
 身体中の節という節が悲鳴を上げていて、身を起こすことが出来なかった。喉の渇きを自覚して、枕もとにあったこれまた見覚えのない水差しに手を伸ばそうとして、今度は意識が飛びそうになった。
 狭い部屋の中、雅勝の寝ていた夜具の左側に突っ伏して、一人の娘が静かな寝息を立てている。
 ――なんだって、この娘がここにいるんだ。
 毒の熱の狭間で、初めて死にかけた時の夢を見たことは覚えていた。あの手が誰のものだったのかは今でもわからない。忠雅や他の影衆達が戻ってきたのは翌日のことなので、あの晩は本当に一人きりだったはずなのに、雅勝はあの時、確かに近くに誰かの気配を感じていた。
 何事にも慣れとはあるもので、その後も何度か死にかけたが、次第に初めての時ほど何も感じなくなっていった。どうせこの先、いつかは御役目の果てにくたばるのだろうが、さほど慌てないだろうとも思っている。今はもう一人きりで死ぬのが嫌だなどとほざくつもりもないのに、今、確かに、雅勝のものより一回り小さな手が彼の手を掴んでいる。――まるで逝くなと言わんばかりに。
「――雅勝、目が覚めたのか」
 ほとんど意識がまとまらずにいるうちに、障子紙が開いて和尚が顔を出した。艶やかな頭の向こうに青い空と白い雲が見える。陽は高いように見えるが――今は何刻だろう。
「寝かせておいてやれ。お前が寝付いた後、陣屋とこの寺をずっと行き来していたんだ。疲れたのだろう」
 いや、おい、知っていたのなら何とかしろ。いくらこちらに意識がなかったとはいえ、勝手に人の部屋に女を入れるなと言いたくなったが、実際には引きつれたうめき声がもれただけだった。
「可愛らしい娘さんではないか。……お前のことを好いているようだ」
 和尚に注いでもらった湯冷ましを呑んで、いや、さすがにそれはないだろうと雅勝は思った。雅勝がこの娘と直接係ったのは片手の指で足りるくらい――ほんの数度だけのことだ。その数度があまりに印象深くて、心の奥に残ってしまったわけだが、さすがに惚れた腫れたのという間柄には程遠い。第一、好かれるような振る舞いをした覚えもない。それを言うなら、最初に出会った時の振る舞いがあれだ。嫌われていると言われた方がまだしも理解ができる。
「――雅勝、わかっているな」
 たしなめられて、雅勝はるいに向け、無意識に指を伸ばしかけていたことに気が付いた。伸ばしてどうするつもりもなかった。ただ白い頬に張り付いた後れ毛が気になって、のけてやりたくなっただけだ。
 伸ばしかけの指を握りしめ、手を伸ばすのではなく引くべきだったと思い当たった。まだ繋いだままの左手をそっと引き抜いて、自分のものではない指のあまりの細さにはっとする。
「……ああ、わかってるよ」
 わかっている。こんな細い指にしがみついたなら、きっとこちらの重みに耐えかねて骨が折れてしまう。いつかの夢のように、この手に縋りつくことなどできはしない。だけど今、握り返すことのできない手が離れて行くのが、とても寂しいと感じた。
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