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寺の小坊主から遣いが来たのはその日の午後のことだった。
やはり手習い部屋の朱色の手跡はあの男のものだったらしい。さすがはお師匠様である。少し癖があるけど止めもはねも完璧な読みやすい字だ。そこに書いてある場所を知らなかったので、侍女仲間に聞いて確かめると陣屋からさほど遠くないところにある小高い丘で、大きな桜の木がある場所らしい。
仕事を終えて奥座敷を抜けた時には、すでに日は沈みかかっていた。
西の空には燃えながら消えて行く太陽の残り火、そして東の空には見事にまん丸な満月が輝きながら登って行く。太陽と月の中間で、今まさに見どころを迎えた桜の花が数枚ひらひらと散っている。
るいがそこにたどり着いた時、先に来ていたらしい若者が、もたれかかっていた桜の幹から身を起こした。
「――よお。和尚に聞いたよ。昼間、来ていたんだってな。会えなくて悪かった」
「いえ、あのこれ」
どこかに置いておくこともできないので、ずっと懐にしまっていた守り袋を差し出すと、受け取って愛しそうに眼を眇めている。多分、大切なものなのだろうとは思っていた。だからこそ、こうしてるいをこの場所に呼び出したのだろう。
「やっぱりお前が拾ってくれたのか。ありがとう。……念の為聞いておくが、中のものに手を触れたか?」
「それ、附子の毒……ですよね」
忍びの山里で生まれ育ったるいには多少、薬草や薬の知識がある。附子はひとかけらで人の命を奪う猛毒だ。それがわかったから、誰かに託すことも部屋に置いてくることもできなかった。万が一にも毒だと知らない人間の手に渡ったなら、その人の命を奪ってしまいかねない。
「ああ。俺を売る時に母が俺に持たせてくれたものだ。……この先、生きることが死ぬより辛くなった時には、この毒を使えと」
樋口家は本領の下級武士の家であり、そして本領の武家の大半がそうであるように、貧しかった。
嫡男が七歳、その下の妹がまだ当歳の年に流行病で父親が亡くなり、かろうじて家の名は残ったものの、それまで藩から与えられていた扶持はなくなった。頼る者も頼るあてもなく三年が経って、追い詰められた母親は三歳の妹を遊郭に売ろうとした。妹が生まれた時、肥立ちが悪い母に代わってもらい乳をして歩いた十歳の兄はたまらず訴えた。代わりに自分を売ってくれと。
妹が成長して婿を取れば、かろうじて家の名は残る。今から九年前の当時、明野領では先代から当代への代替わりの最中で、男子であっても影衆に売ることで女子と変わらぬだけの金品と交換できたのだ。
売られた子どもが逃げ出せば売った金額の倍額が親に請求される。自害した場合も同様に。だから影衆に売られた子どもは自害することもできない。自害すれば子どもを売った親もまた死ぬしかない。だから母は同じ守り袋を二つ作った。二つの袋に二つの毒を入れて、一つを息子に持たせた。
――お前が死んだと報せが来たならば、その時は母も同じ毒で死にます。
この男は、そんな哀しい話をどうしてこんなに優しい顔で話すのだろう。
風に吹かれて舞い散る花びらの向こうに、見たこともない武家の家族の姿を思う。
貧しさ故に娘を売る決心をした母親も。妹を苦界に落としたくない一心で自分が身を売った少年も。息子に毒の入った守り袋を持たせるしかなかった母親とその毒を支えに生きて来た息子の選択が哀しいのではない。そのような選択肢が存在するこの世のありようそのものが、胸を掻き毟られるように哀しい。
一生、故郷の山里にいたならば、恐らくは知ることもなかった。月の綺麗な夜に桜の綺麗な場所で、垣間見た人生。
この時の光景を一生忘れないとるいは思った。
――あいつがあんなに震えているのを見たのは六年ぶりだったな。
清水家の邸の一室で、忠雅は読んでいた書物から顔を上げた。わずかに開いた障子の向こうに浮かぶ月は満月、庭の桜は今まさに見ごろを迎えた満開で、外に出ればさぞかし風情ある光景を眺められそうだが、心は重く沈んでいた。
予定通り謀反者の妻子を始末した雅勝が、前触れなくこの邸にやってきたのは三日前の夜ことだった。
母子を斬るところを人に見られたあげく、その目撃者を殺すでも脅すでもなく逃げ出し、あまつさえ売られる時母親に持たされたと言って、後生大事に持ち歩いていた袱紗の守り袋を落としてきたと聞いて、馬鹿野郎と叫んで頭を張ってしまった。影衆でも人である以上、無抵抗の女子供を手にかけることに心は痛む。もっとも、影達は人の命よりも己の心を殺し慣れているものだ。その雅勝あれほど動揺するとは。目撃者の娘が騒ぎ立てなかったので何とか事を収められたが、場合によっては面倒な事態に陥っていた可能性があった。
かつて、奴があれほど震えているのを見たのはただ一度、忠雅と雅勝が十三歳の夏、当時犬脇峠を荒らしまわっていた山賊の討伐で、はじめて人を斬った時のことだ。
武家の生まれで剣術の心得のあった雅勝はその頃から腕がよく、度胸がある、切り口が綺麗だと当時はまだ何人もいた影の先輩達に褒められていたけれど、当の本人は胃の中のものをすべて吐き出して、一晩中がたがたと震えていた。寒いはずもない、葉月のはじめのことだ。忘れもしない。なぜなら、忠雅が初めて人を斬ったのもまったく同じ日のことだったからだ。
――まずい……のかもしれないな。
影衆が二十歳まで生きられないと言われる本当の理由を、忠雅は誰よりもよく理解している。
影は生きることに倦むのだ。影衆には希望がない。普通の人間が一年に一つずつしか失わない若さを、一足飛びに四つ五つと失って行き、しまいには死期を悟った老人のように、己の生に頓着しなくなる。そうして二十歳前に死んでいった影衆達がこれまで何人いたことだろう。
雅勝の動揺の理由が、単にその娘――確か、おるいとか言ったか――に手を汚す姿を見られたくなかったというだけのことならば、いくらでも笑ってからかってやる。だが奴までもが、ついに生きることに倦みだしたのだとしたら。
今、最年長の雅勝が十九歳まで生き残ったことで、その下の影衆達には、わずかばかりの希望が生まれつつある。雅勝が二十歳まで生き延びれば、影を二十歳以上まで生かす必要はないと考えている上の人間達に、忠雅がずっと温めて来た願望を認めさせる端緒にもなる。
だからこそ、奴には何としても生きていてもらわねばならない。
――少なくとも、来年までは。
やはり手習い部屋の朱色の手跡はあの男のものだったらしい。さすがはお師匠様である。少し癖があるけど止めもはねも完璧な読みやすい字だ。そこに書いてある場所を知らなかったので、侍女仲間に聞いて確かめると陣屋からさほど遠くないところにある小高い丘で、大きな桜の木がある場所らしい。
仕事を終えて奥座敷を抜けた時には、すでに日は沈みかかっていた。
西の空には燃えながら消えて行く太陽の残り火、そして東の空には見事にまん丸な満月が輝きながら登って行く。太陽と月の中間で、今まさに見どころを迎えた桜の花が数枚ひらひらと散っている。
るいがそこにたどり着いた時、先に来ていたらしい若者が、もたれかかっていた桜の幹から身を起こした。
「――よお。和尚に聞いたよ。昼間、来ていたんだってな。会えなくて悪かった」
「いえ、あのこれ」
どこかに置いておくこともできないので、ずっと懐にしまっていた守り袋を差し出すと、受け取って愛しそうに眼を眇めている。多分、大切なものなのだろうとは思っていた。だからこそ、こうしてるいをこの場所に呼び出したのだろう。
「やっぱりお前が拾ってくれたのか。ありがとう。……念の為聞いておくが、中のものに手を触れたか?」
「それ、附子の毒……ですよね」
忍びの山里で生まれ育ったるいには多少、薬草や薬の知識がある。附子はひとかけらで人の命を奪う猛毒だ。それがわかったから、誰かに託すことも部屋に置いてくることもできなかった。万が一にも毒だと知らない人間の手に渡ったなら、その人の命を奪ってしまいかねない。
「ああ。俺を売る時に母が俺に持たせてくれたものだ。……この先、生きることが死ぬより辛くなった時には、この毒を使えと」
樋口家は本領の下級武士の家であり、そして本領の武家の大半がそうであるように、貧しかった。
嫡男が七歳、その下の妹がまだ当歳の年に流行病で父親が亡くなり、かろうじて家の名は残ったものの、それまで藩から与えられていた扶持はなくなった。頼る者も頼るあてもなく三年が経って、追い詰められた母親は三歳の妹を遊郭に売ろうとした。妹が生まれた時、肥立ちが悪い母に代わってもらい乳をして歩いた十歳の兄はたまらず訴えた。代わりに自分を売ってくれと。
妹が成長して婿を取れば、かろうじて家の名は残る。今から九年前の当時、明野領では先代から当代への代替わりの最中で、男子であっても影衆に売ることで女子と変わらぬだけの金品と交換できたのだ。
売られた子どもが逃げ出せば売った金額の倍額が親に請求される。自害した場合も同様に。だから影衆に売られた子どもは自害することもできない。自害すれば子どもを売った親もまた死ぬしかない。だから母は同じ守り袋を二つ作った。二つの袋に二つの毒を入れて、一つを息子に持たせた。
――お前が死んだと報せが来たならば、その時は母も同じ毒で死にます。
この男は、そんな哀しい話をどうしてこんなに優しい顔で話すのだろう。
風に吹かれて舞い散る花びらの向こうに、見たこともない武家の家族の姿を思う。
貧しさ故に娘を売る決心をした母親も。妹を苦界に落としたくない一心で自分が身を売った少年も。息子に毒の入った守り袋を持たせるしかなかった母親とその毒を支えに生きて来た息子の選択が哀しいのではない。そのような選択肢が存在するこの世のありようそのものが、胸を掻き毟られるように哀しい。
一生、故郷の山里にいたならば、恐らくは知ることもなかった。月の綺麗な夜に桜の綺麗な場所で、垣間見た人生。
この時の光景を一生忘れないとるいは思った。
――あいつがあんなに震えているのを見たのは六年ぶりだったな。
清水家の邸の一室で、忠雅は読んでいた書物から顔を上げた。わずかに開いた障子の向こうに浮かぶ月は満月、庭の桜は今まさに見ごろを迎えた満開で、外に出ればさぞかし風情ある光景を眺められそうだが、心は重く沈んでいた。
予定通り謀反者の妻子を始末した雅勝が、前触れなくこの邸にやってきたのは三日前の夜ことだった。
母子を斬るところを人に見られたあげく、その目撃者を殺すでも脅すでもなく逃げ出し、あまつさえ売られる時母親に持たされたと言って、後生大事に持ち歩いていた袱紗の守り袋を落としてきたと聞いて、馬鹿野郎と叫んで頭を張ってしまった。影衆でも人である以上、無抵抗の女子供を手にかけることに心は痛む。もっとも、影達は人の命よりも己の心を殺し慣れているものだ。その雅勝あれほど動揺するとは。目撃者の娘が騒ぎ立てなかったので何とか事を収められたが、場合によっては面倒な事態に陥っていた可能性があった。
かつて、奴があれほど震えているのを見たのはただ一度、忠雅と雅勝が十三歳の夏、当時犬脇峠を荒らしまわっていた山賊の討伐で、はじめて人を斬った時のことだ。
武家の生まれで剣術の心得のあった雅勝はその頃から腕がよく、度胸がある、切り口が綺麗だと当時はまだ何人もいた影の先輩達に褒められていたけれど、当の本人は胃の中のものをすべて吐き出して、一晩中がたがたと震えていた。寒いはずもない、葉月のはじめのことだ。忘れもしない。なぜなら、忠雅が初めて人を斬ったのもまったく同じ日のことだったからだ。
――まずい……のかもしれないな。
影衆が二十歳まで生きられないと言われる本当の理由を、忠雅は誰よりもよく理解している。
影は生きることに倦むのだ。影衆には希望がない。普通の人間が一年に一つずつしか失わない若さを、一足飛びに四つ五つと失って行き、しまいには死期を悟った老人のように、己の生に頓着しなくなる。そうして二十歳前に死んでいった影衆達がこれまで何人いたことだろう。
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