茜さす

横山美香

文字の大きさ
上 下
8 / 102

2-4

しおりを挟む
 寺の小坊主から遣いが来たのはその日の午後のことだった。
 やはり手習い部屋の朱色の手跡はあの男のものだったらしい。さすがはお師匠様である。少し癖があるけど止めもはねも完璧な読みやすい字だ。そこに書いてある場所を知らなかったので、侍女仲間に聞いて確かめると陣屋からさほど遠くないところにある小高い丘で、大きな桜の木がある場所らしい。
 仕事を終えて奥座敷を抜けた時には、すでに日は沈みかかっていた。
 西の空には燃えながら消えて行く太陽の残り火、そして東の空には見事にまん丸な満月が輝きながら登って行く。太陽と月の中間で、今まさに見どころを迎えた桜の花が数枚ひらひらと散っている。
 るいがそこにたどり着いた時、先に来ていたらしい若者が、もたれかかっていた桜の幹から身を起こした。
「――よお。和尚に聞いたよ。昼間、来ていたんだってな。会えなくて悪かった」
「いえ、あのこれ」
 どこかに置いておくこともできないので、ずっと懐にしまっていた守り袋を差し出すと、受け取って愛しそうに眼を眇めている。多分、大切なものなのだろうとは思っていた。だからこそ、こうしてるいをこの場所に呼び出したのだろう。
「やっぱりお前が拾ってくれたのか。ありがとう。……念の為聞いておくが、中のものに手を触れたか?」
「それ、附子の毒……ですよね」
 忍びの山里で生まれ育ったるいには多少、薬草や薬の知識がある。附子はひとかけらで人の命を奪う猛毒だ。それがわかったから、誰かに託すことも部屋に置いてくることもできなかった。万が一にも毒だと知らない人間の手に渡ったなら、その人の命を奪ってしまいかねない。
「ああ。俺を売る時に母が俺に持たせてくれたものだ。……この先、生きることが死ぬより辛くなった時には、この毒を使えと」
 樋口家は本領の下級武士の家であり、そして本領の武家の大半がそうであるように、貧しかった。
 嫡男が七歳、その下の妹がまだ当歳の年に流行病で父親が亡くなり、かろうじて家の名は残ったものの、それまで藩から与えられていた扶持はなくなった。頼る者も頼るあてもなく三年が経って、追い詰められた母親は三歳の妹を遊郭に売ろうとした。妹が生まれた時、肥立ちが悪い母に代わってもらい乳をして歩いた十歳の兄はたまらず訴えた。代わりに自分を売ってくれと。
 妹が成長して婿を取れば、かろうじて家の名は残る。今から九年前の当時、明野領では先代から当代への代替わりの最中で、男子であっても影衆に売ることで女子と変わらぬだけの金品と交換できたのだ。
 売られた子どもが逃げ出せば売った金額の倍額が親に請求される。自害した場合も同様に。だから影衆に売られた子どもは自害することもできない。自害すれば子どもを売った親もまた死ぬしかない。だから母は同じ守り袋を二つ作った。二つの袋に二つの毒を入れて、一つを息子に持たせた。
 ――お前が死んだと報せが来たならば、その時は母も同じ毒で死にます。
 この男は、そんな哀しい話をどうしてこんなに優しい顔で話すのだろう。
 風に吹かれて舞い散る花びらの向こうに、見たこともない武家の家族の姿を思う。
 貧しさ故に娘を売る決心をした母親も。妹を苦界に落としたくない一心で自分が身を売った少年も。息子に毒の入った守り袋を持たせるしかなかった母親とその毒を支えに生きて来た息子の選択が哀しいのではない。そのような選択肢が存在するこの世のありようそのものが、胸を掻き毟られるように哀しい。
 一生、故郷の山里にいたならば、恐らくは知ることもなかった。月の綺麗な夜に桜の綺麗な場所で、垣間見た人生。
 この時の光景を一生忘れないとるいは思った。


 ――あいつがあんなに震えているのを見たのは六年ぶりだったな。
 清水家の邸の一室で、忠雅は読んでいた書物から顔を上げた。わずかに開いた障子の向こうに浮かぶ月は満月、庭の桜は今まさに見ごろを迎えた満開で、外に出ればさぞかし風情ある光景を眺められそうだが、心は重く沈んでいた。
 予定通り謀反者の妻子を始末した雅勝が、前触れなくこの邸にやってきたのは三日前の夜ことだった。
 母子を斬るところを人に見られたあげく、その目撃者を殺すでも脅すでもなく逃げ出し、あまつさえ売られる時母親に持たされたと言って、後生大事に持ち歩いていた袱紗の守り袋を落としてきたと聞いて、馬鹿野郎と叫んで頭を張ってしまった。影衆でも人である以上、無抵抗の女子供を手にかけることに心は痛む。もっとも、影達は人の命よりも己の心を殺し慣れているものだ。その雅勝あれほど動揺するとは。目撃者の娘が騒ぎ立てなかったので何とか事を収められたが、場合によっては面倒な事態に陥っていた可能性があった。
 かつて、奴があれほど震えているのを見たのはただ一度、忠雅と雅勝が十三歳の夏、当時犬脇峠を荒らしまわっていた山賊の討伐で、はじめて人を斬った時のことだ。
 武家の生まれで剣術の心得のあった雅勝はその頃から腕がよく、度胸がある、切り口が綺麗だと当時はまだ何人もいた影の先輩達に褒められていたけれど、当の本人は胃の中のものをすべて吐き出して、一晩中がたがたと震えていた。寒いはずもない、葉月のはじめのことだ。忘れもしない。なぜなら、忠雅が初めて人を斬ったのもまったく同じ日のことだったからだ。
 ――まずい……のかもしれないな。
 影衆が二十歳まで生きられないと言われる本当の理由を、忠雅は誰よりもよく理解している。
 影は生きることに倦むのだ。影衆には希望がない。普通の人間が一年に一つずつしか失わない若さを、一足飛びに四つ五つと失って行き、しまいには死期を悟った老人のように、己の生に頓着しなくなる。そうして二十歳前に死んでいった影衆達がこれまで何人いたことだろう。
 雅勝の動揺の理由が、単にその娘――確か、おるいとか言ったか――に手を汚す姿を見られたくなかったというだけのことならば、いくらでも笑ってからかってやる。だが奴までもが、ついに生きることに倦みだしたのだとしたら。
 今、最年長の雅勝が十九歳まで生き残ったことで、その下の影衆達には、わずかばかりの希望が生まれつつある。雅勝が二十歳まで生き延びれば、影を二十歳以上まで生かす必要はないと考えている上の人間達に、忠雅がずっと温めて来た願望を認めさせる端緒にもなる。
 だからこそ、奴には何としても生きていてもらわねばならない。
 ――少なくとも、来年までは。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

超克の艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
「合衆国海軍ハ 六〇〇〇〇トン級戦艦ノ建造ヲ計画セリ」 米国駐在武官からもたらされた一報は帝国海軍に激震をもたらす。 新型戦艦の質的アドバンテージを失ったと判断した帝国海軍上層部はその設計を大幅に変更することを決意。 六四〇〇〇トンで建造されるはずだった「大和」は、しかしさらなる巨艦として誕生する。 だがしかし、米海軍の六〇〇〇〇トン級戦艦は誤報だったことが後に判明。 情報におけるミスが組織に致命的な結果をもたらすことを悟った帝国海軍はこれまでの態度を一変、貪欲に情報を収集・分析するようになる。 そして、その情報重視への転換は、帝国海軍の戦備ならびに戦術に大いなる変化をもたらす。

三國志 on 世説新語

ヘツポツ斎
歴史・時代
三國志のオリジンと言えば「三国志演義」? あるいは正史の「三國志」? 確かに、その辺りが重要です。けど、他の所にもネタが転がっています。 それが「世説新語」。三國志のちょっと後の時代に書かれた人物エピソード集です。当作はそこに載る1130エピソードの中から、三國志に関わる人物(西晋の統一まで)をピックアップ。それらを原文と、その超訳とでお送りします! ※当作はカクヨムさんの「世説新語 on the Web」を起点に、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさん、エブリスタさんにも掲載しています。

連合航空艦隊

ypaaaaaaa
歴史・時代
1929年のロンドン海軍軍縮条約を機に海軍内では新時代の軍備についての議論が活発に行われるようになった。その中で生れたのが”航空艦隊主義”だった。この考えは当初、一部の中堅将校や青年将校が唱えていたものだが途中からいわゆる海軍左派である山本五十六や米内光政がこの考えを支持し始めて実現のためにの政治力を駆使し始めた。この航空艦隊主義と言うものは”重巡以上の大型艦を全て空母に改装する”というかなり極端なものだった。それでも1936年の条約失効を持って日本海軍は航空艦隊主義に傾注していくことになる。 デモ版と言っては何ですが、こんなものも書く予定があるんだなぁ程度に思ってい頂けると幸いです。

竜頭

神光寺かをり
歴史・時代
幕末の信州上田藩。 藤井松平家の下級藩士・芦田家に、柔太郎と清次郎の兄弟が居た。 兄・柔太郎は儒学を学ぶため昌平黌《しょうへいこう》へ、弟・清次郎は数学を学ぶため瑪得瑪弟加塾《まてまてかじゅく》へ、それぞれ江戸遊学をした。 嘉永6年(1853年)、兄弟は十日の休暇をとって、浦賀まで「黒船の大きさを測定する」ための旅に向かう。 品川宿で待ち合わせをした兄弟であったが、弟・清次郎は約束の時間までにはやってこなかった。 時は経ち――。 兄・柔太郎は学問を終えて帰郷し、藩校で教鞭を執るようになった。 遅れて一時帰郷した清次郎だったが、藩命による出仕を拒み、遊学の延長を望んでいた。 ---------- 神童、数学者、翻訳家、兵学者、政治思想家、そして『人斬り半次郎』の犠牲者、赤松小三郎。 彼の懐にはある物が残されていた。 幕末期の兵学者・赤松小三郎先生と、その実兄で儒者の芦田柔太郎のお話。 ※この作品は史実を元にしたフィクションです。 ※時系列・人物の性格などは、史実と違う部分があります。 【ゆっくりのんびり更新中】

幕末博徒伝

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
江戸時代、五街道の内の一つ、甲州街道が整備され、宿場町として賑わった勝沼は、天領、つまり、徳川幕府の直轄地として代官所が置かれていた。この頃、江戸幕府の財政は厳しく、役人の数も少なかったので、年貢の徴収だけで手がいっぱいになり、治安までは手が回らなかった。その為、近隣在所から無宿人、博徒、浪人などが流れ込み、無政府状態になっていた。これは、無頼の徒が活躍する任侠物語。

【完結】限界離婚

仲 奈華 (nakanaka)
大衆娯楽
もう限界だ。 「離婚してください」 丸田広一は妻にそう告げた。妻は激怒し、言い争いになる。広一は頭に鈍器で殴られたような衝撃を受け床に倒れ伏せた。振り返るとそこには妻がいた。広一はそのまま意識を失った。 丸田広一の息子の嫁、鈴奈はもう耐える事ができなかった。体調を崩し病院へ行く。医師に告げられた言葉にショックを受け、夫に連絡しようとするが、SNSが既読にならず、電話も繋がらない。もう諦め離婚届だけを置いて実家に帰った。 丸田広一の妻、京香は手足の違和感を感じていた。自分が家族から嫌われている事は知っている。高齢な姑、離婚を仄めかす夫、可愛くない嫁、誰かが私を害そうとしている気がする。渡されていた離婚届に署名をして役所に提出した。もう私は自由の身だ。あの人の所へ向かった。 広一の母、文は途方にくれた。大事な物が無くなっていく。今日は通帳が無くなった。いくら探しても見つからない。まさかとは思うが最近様子が可笑しいあの女が盗んだのかもしれない。衰えた体を動かして、家の中を探し回った。 出張からかえってきた広一の息子、良は家につき愕然とした。信じていた安心できる場所がガラガラと崩れ落ちる。後始末に追われ、いなくなった妻の元へ向かう。妻に頭を下げて別れたくないと懇願した。 平和だった丸田家に襲い掛かる不幸。どんどん倒れる家族。 信じていた家族の形が崩れていく。 倒されたのは誰のせい? 倒れた達磨は再び起き上がる。 丸田家の危機と、それを克服するまでの物語。 丸田 広一…65歳。定年退職したばかり。 丸田 京香…66歳。半年前に退職した。 丸田 良…38歳。営業職。出張が多い。 丸田 鈴奈…33歳。 丸田 勇太…3歳。 丸田 文…82歳。専業主婦。 麗奈…広一が定期的に会っている女。 ※7月13日初回完結 ※7月14日深夜 忘れたはずの思い~エピローグまでを加筆修正して投稿しました。話数も増やしています。 ※7月15日【裏】登場人物紹介追記しました。 ※7月22日第2章完結。 ※カクヨムにも投稿しています。

大和の風を感じて2〜花の舞姫〜【大和3部作シリーズ第2弾】

藍原 由麗
歴史・時代
息長(おきなが)筋の皇女の忍坂姫(おしさかのひめ)は今年15歳になった。 だがまだ嫁ぎ先が決まっていないのを懸念していた父の稚野毛皇子(わかぬけのおうじ)は、彼女の夫を雄朝津間皇子(おあさづまのおうじ)にと考える。 また大和では去来穂別大王(いざほわけのおおきみ)が病で崩御し、弟の瑞歯別皇子(みずはわけのおうじ)が新たに大王として即位する事になった。 忍坂姫と雄朝津間皇子の婚姻の話しは、稚野毛皇子と瑞歯別大王との間で進められていたが、その事を知った雄朝津間皇子はこの婚姻に反対する。 そんな事になっているとは知らずに、忍坂姫は大王の指示で、雄朝津間皇子に会いに行く事になった。 忍坂姫一行が皇子の元へと向かっている最中、彼女達は盗賊に襲われてしまう。 それを助けたのが、1人の見知らぬ青年だった。 そして宮にて対面した雄朝津間皇子は、何と彼女を盗賊から救ってくれたあの青年だった。 母親から譲り受けた【見えないものを映す鏡】とは? この不思議な鏡の導きによって、彼女はどんな真実を知ることになるのだろうか。 前作『大和の風を感じて~運命に導かれた少女~』の続編にあたる日本古代ファンタジーの、大和3部作シリーズ第2弾。 《この小説では、テーマにそった物があります。》 ★運命に導く勾玉の首飾り★ 大和の風を感じて~運命に導かれた少女~ 【大和3部作シリーズ第1弾】 ★見えないものを映す鏡★ 大和の風を感じて2〜花の舞姫〜 【大和3部作シリーズ第2弾】 ★災いごとを断ち切る剣★ 大和の風を感じて3〜泡沫の恋衣〜 【大和3部作シリーズ第3弾】 ☆また表紙のイラストは小説の最後のページにも置いてます。 ☆ご連絡とお詫び☆ 2021年10月19日現在 今まで大王や皇子の妻を后と表記してましたが、これを后と妃に別けようと思います。 ◎后→大王の正室でかつ皇女(一部の例外を除いて) ◎妃→第2位の妻もしくは、皇女以外の妻(豪族出身) ※小説内の会話は原則、妃にたいと思います。 これから少しずつ訂正していきます。 ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません。m(_ _)m

処理中です...