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高橋家の邸は陣屋の東門を出てすぐのところにある。
元々、家臣の邸は領主の陣屋を取り囲むように建っており、一番近くに五代家老家の邸宅が、その次に近臣達の住宅と、陣屋からの距離でその家の家格もわかる。高橋家は初代道久がこの地にやって来た時に付き従ってきた家臣の子孫にあたり、明野領の中での家格も高い。そんな家の当主があっさりと裏切って反旗を翻すあたりに、明野領と本領との長年の確執の深さが垣間見える。
当主が切腹し、すべての家来、侍女に暇を出した高橋家の邸宅には寒々とした風が吹いていた。
季節はようやく春を迎え、里の桜ももうすぐ満開だ。田には水が引かれ、交易の荷が活発に動き出し――誰もが心浮きたつ季節に、主人を失くしたこの家だけが冷え切ったまま取り残されている。
迎えの時刻はとうに過ぎたのに、戸を叩く者も訪れを告げる者もいない。その日、御見の方から賜った御役目を果たすため、高橋家を訪れたるいは既に旅装束に身を包み、赤子を抱いた妻女を振り仰いだ。
「本家からのお迎えは今日の酉の刻のはず……ですよね?」
「そうなのですが……」
不安げな母の腕の中で赤子はきょとんと目を見開いている。子ども成長は早い。るいが背負って遣いに行ってからさほどの月日は経っていないのに、前に見た時より明らかに大きくなっている。
しばらく赤子の顔を眺めて、法勝寺でこの子を可愛がっていた男のことを思い出した。御見の方の侍女と影衆に接点はない。だけど何となく雅勝にだけは、この子との別れを惜しませてやりたかったような気がする。
「本日の酉の刻に迎えが来ると、確かに文にはそう書いてあったのですが」
だからこそ家財をすべて処分し、使用人すべてに暇を出し、母子二人、がらんどうとした邸で待っているのに、待てど暮らせど、迎えは来ない。
「その文は高橋様の本家から届いたのですか?」
「――いえ、次席家老の清水様からです」
その瞬間、背中を冷たい指で撫でられた気がした。
本家からの迎えの手紙が明野領の次席家老の手を経て届く。そのこと事態はありえないことではないが、迎えの時刻を記した文が途中で入れ替えられたとしても、誰にも気づかれることはない。――それほどまでに、彼女たちは孤独なのだ。
「――おるい様?」
「逃げましょう」
これは罠だ。謀反人の妻子を葬らんとする者が、明野領の中にいる。
逃げたところで、謀反人の妻子を表だってかばうものはいないだろう。それでも御見の方であれば最低限、彼女たちの命は守ってくれるはずだ。幸い、この邸から陣屋は近い。子連れの女の脚でもさほどかからずにたどり着ける。
るいが先に立ちって道に出て、周囲の気配をうかがった。武家屋敷が立ち並ぶ一角はひっそりと静まり返っている。人っ子一人――宵っ張りの野良猫一匹歩いていない。襲撃者が誰であれ、まだこの邸にまではたどり着いていないようだ。
「大丈夫です。――さあ、今のうちに」
ほっと息を吐いて手招きした瞬間、辺りが急に暗くなった。
先ほどまで気配すら感じさせなかったのに、どこから現れたのか。突然現れたその影は、人の形をしていた。
影が刀の鯉口を切った瞬間、白刃が月明かりを弾いて瞬く。悲鳴はなかった。白刃が光ったと思ったその次の刹那には、母と子は生きている人間では到底ありえない形で、地面に倒れ伏していた。
以前も見た通り、呆れるくらいの剣技だ。――無抵抗の女子供に振るうのがもったいないと感じるほどに。
遠くで犬の鳴く声がする。少し風が出て来たのか、血の匂いが風に乗って立ち昇る。立ち竦んだまま、るいは影を見た。影もるいを見た。いっそ闇夜ならよかったのに。中途半端に欠けた月に照らされたその影は、るいが見知った男と、とてもよく似た顔をしていた。
「あ……」
抑えた呟きはどちらのものだったのか。
雅勝が大きく身を引いたので、るいは彼に向け、手を伸ばしかけていたことに気が付いた。伸ばしてどうなるはずもない。飛び道具も懐剣も持ってはきたけれど、それでこの男にかなう訳もない。雅勝がるいをも消す気になれば、ただそれで終わりだ。だがこの時、明らかにるいよりも、雅勝の方が怯えた目をしていた。
――そういうわけにはいかんだろうなぁ。何しろ、命じられればどこへでも行き、誰であっても斬るのが俺達の務めだ。
前に本人が言っていた。これがその務めか。だけど気が付かなかったはずがない。あれほど近くに――抱き上げて頬ずりせんばかりに、可愛がっていたというのに。
迷いはないのか。胸は痛まないのか。ほんのわずかも、刃を振るう手に躊躇いはなかったのか。
しばし無言で見合った後、雅勝は踵を返してその場を後にした。男が去った後の地面に骸が二つ。少し離れたところに何かが落ちている。拾い上げて手にするとそれは袱紗でできた小さな守り袋だった。恐らくはあの隠密の落とし物だ。随分と年期が入っている。
「ごめんね。……ごめんなさい」
謝罪の言葉を紡ぎながら、見開いたまま虚空を見つめる目を閉ざしてやる。せめて苦しまないように――というくらいの思いはあったのか、二人とも一太刀で首の筋を斬られている。
るいに謝られたところで母子の無念は晴れないだろう。どうせ命を奪うなら、最初から処罰しておけばいいのに。一度は許すと言っておきながら、どうして後で隠れて命を絶たねばならなない。はじめから処罰しておけば――あの男が今この場所にやってくる必要もなかったのに。
目の前で惨劇を見て、それでもなお、るいには、自分の心がわからなかった。あの若者を憎むべきなのか、それとも、恐れるべきなのか。目の前で血を流して死んだ母子は哀れだ。だけど、どうしてもるいには、見開いた男の瞳の中にも母子と同じ色の血が流れていたような気がしてならなかった。
落とし物の守り袋を男に返すべきか。三日三晩、眠れないくらいに悩んだ。
高橋家の妻子の死は自害と処理され、一見、明野領には平穏が戻ってきた。御見の方だけは何かがおかしいと気付いただろうが、それでも敢えてるいに尋ねてはこなかった。もっとも尋ねられたところで、答えられなかっただろう。るいにできたのは、ただ自分の知らないところで移りゆく周囲の景色を眺めていることだけだった。
意を決した四日目の昼日中、訪れた法勝寺は騒がしかった。さほど広くはない部屋に長机がずらっと並んでいて、年齢も性別も着物もバラバラの子ども達が、読んだり書いたり喋ったりしている。壁には子ども達の手習いが貼ってあって、朱色の筆で間違った字を直してある。少し角ばっているけれど読みやすいあの字は――あの男の手跡だろうか。
時間が空いた時だけ手習いを見ているという隠密はいなかった。和尚にもうすぐ帰ってくると言われて手習い部屋の隅で待っていたのだが、普段はいない人間の存在が気になって仕方がないらしい。子ども達が手習いに集中せずに、次々にるいにまとわりついてくる。三つくらいの男の子が膝によじ登ってきて、その子の姉らしい、七歳くらいの女の子に「おるいさんは先生のお嫁さんになるの?」と問われた時、苦笑して和尚が近づいてきた。
「ここでは騒がしすぎですね。あいつの落とし物でしたら、こちらで預かりましょうか?」
正直に言うなら、それも考えなかったわけではない。恐らく雅勝は、今、るいに会いたくはないだろう。だけど今、素直に和尚に守り袋を預けてしまうことができないのは、その中身を見てしまった所為だ。
「あ、いえ、直接渡したほうがいいと思います」
「……わかりました。雅勝の部屋に案内しますから、そこで待っていて下さい」
「え、勝手にいいんでしょうか?」
「まあ、何もない部屋ですから。間もなくあいつも戻るでしょう」
何もない部屋と言った和尚の言葉に嘘はなかった。畳三つほどの部屋には文机が一つあるだけで、部屋の隅に畳んだ夜具がつい立てて囲んである。塵一つ落ちていないが、生活感もまるでない。まだ朝晩は冷える日もあるのに火鉢の一つさえもない。
少しだけ空いた窓から風が吹き込んで、かすかに手習い部屋の喧騒が響いて来た。わいわいがやがや喧々だくだく……少し離れたところで聞いていて、何故か前に、あの男の傷の手当てをした時のことを思い出した。
あの時、ほんのわずかばかり歩いたところでは、怪我人が治療を受け、温かい炊き出しが行われていた。誰もが傷つき打ち捨てられた場所ならば、まだ心持も違うだろう。だけどすぐ手の届くところに手厚い救護を受けられる場所があって、そこには行けない――その場所が自分にだけは開かれていないと知ってしまうのは、やはり悲しくて辛いことではないのだろうか。
そんなことを思いながら、何もない部屋の文机の上にたった一つ、ぽつんと置かれた小さなものを見る。
それは掌に乗るくらいの大きさの白い木仏だった。鬼子母神なのだろうか。大人の仏は穏やかそうな笑みを浮かべて腕に赤子を抱いている。恐らく手彫りだろう。――器用な男だ。
することもないのでずっと木仏を見つめていて、不意に何かに気が付いた。
「これって……」
穏やかに微笑む母の腕に抱かれた赤子の顔立ちに、見覚えがあるような気がした。そのつもりで見ると間違いない。母親の面立ちも似通っている。あの日あの時――武家屋敷の片隅で雅勝が殺した母子に、その木仏はあまりにもよく似ていた。
かたん、と文机が鳴って、るいは自分が立ち上がりかけていたことに気が付いた。立ち上がった――というより逃げ出したのかもしれない――時に文机の脚を蹴ってしまい、転がり落ちた木仏が壁にぶつかって壁と窓の間の一角がぽっかりと空いた。
「隠し戸……?」
一応、元忍びの里の出なので、多少のからくりや隠し戸ならば見慣れているけれど、実際に開くところを目にしてなお、どういった仕組みかわからなかった。それも当然か。既に忍びの技も廃れたるいの故郷とは違い、この部屋の住人は現役の隠密だ。だが、隠し戸の中にあったのは武具ではなかった。明らかに先ほどの母子像と同じ手による無数の木仏が棚の上に何体も並んでいて、静かな対の目でじっとるいを見つめている。
一体や二体という数ではない。いったい何年かけてこれだけの数を彫って――どれだけの人間の命を奪ってきたのだろう。
あの男のしたことを責めることは簡単だ。だけどるいにはできそうもない。この取り残されたような部屋で、自分が殺した人間の木仏に囲まれて生きる人生など、これまで想像してみたことさえない。
――もうそれ以上、この部屋にいることはできなかった。
元々、家臣の邸は領主の陣屋を取り囲むように建っており、一番近くに五代家老家の邸宅が、その次に近臣達の住宅と、陣屋からの距離でその家の家格もわかる。高橋家は初代道久がこの地にやって来た時に付き従ってきた家臣の子孫にあたり、明野領の中での家格も高い。そんな家の当主があっさりと裏切って反旗を翻すあたりに、明野領と本領との長年の確執の深さが垣間見える。
当主が切腹し、すべての家来、侍女に暇を出した高橋家の邸宅には寒々とした風が吹いていた。
季節はようやく春を迎え、里の桜ももうすぐ満開だ。田には水が引かれ、交易の荷が活発に動き出し――誰もが心浮きたつ季節に、主人を失くしたこの家だけが冷え切ったまま取り残されている。
迎えの時刻はとうに過ぎたのに、戸を叩く者も訪れを告げる者もいない。その日、御見の方から賜った御役目を果たすため、高橋家を訪れたるいは既に旅装束に身を包み、赤子を抱いた妻女を振り仰いだ。
「本家からのお迎えは今日の酉の刻のはず……ですよね?」
「そうなのですが……」
不安げな母の腕の中で赤子はきょとんと目を見開いている。子ども成長は早い。るいが背負って遣いに行ってからさほどの月日は経っていないのに、前に見た時より明らかに大きくなっている。
しばらく赤子の顔を眺めて、法勝寺でこの子を可愛がっていた男のことを思い出した。御見の方の侍女と影衆に接点はない。だけど何となく雅勝にだけは、この子との別れを惜しませてやりたかったような気がする。
「本日の酉の刻に迎えが来ると、確かに文にはそう書いてあったのですが」
だからこそ家財をすべて処分し、使用人すべてに暇を出し、母子二人、がらんどうとした邸で待っているのに、待てど暮らせど、迎えは来ない。
「その文は高橋様の本家から届いたのですか?」
「――いえ、次席家老の清水様からです」
その瞬間、背中を冷たい指で撫でられた気がした。
本家からの迎えの手紙が明野領の次席家老の手を経て届く。そのこと事態はありえないことではないが、迎えの時刻を記した文が途中で入れ替えられたとしても、誰にも気づかれることはない。――それほどまでに、彼女たちは孤独なのだ。
「――おるい様?」
「逃げましょう」
これは罠だ。謀反人の妻子を葬らんとする者が、明野領の中にいる。
逃げたところで、謀反人の妻子を表だってかばうものはいないだろう。それでも御見の方であれば最低限、彼女たちの命は守ってくれるはずだ。幸い、この邸から陣屋は近い。子連れの女の脚でもさほどかからずにたどり着ける。
るいが先に立ちって道に出て、周囲の気配をうかがった。武家屋敷が立ち並ぶ一角はひっそりと静まり返っている。人っ子一人――宵っ張りの野良猫一匹歩いていない。襲撃者が誰であれ、まだこの邸にまではたどり着いていないようだ。
「大丈夫です。――さあ、今のうちに」
ほっと息を吐いて手招きした瞬間、辺りが急に暗くなった。
先ほどまで気配すら感じさせなかったのに、どこから現れたのか。突然現れたその影は、人の形をしていた。
影が刀の鯉口を切った瞬間、白刃が月明かりを弾いて瞬く。悲鳴はなかった。白刃が光ったと思ったその次の刹那には、母と子は生きている人間では到底ありえない形で、地面に倒れ伏していた。
以前も見た通り、呆れるくらいの剣技だ。――無抵抗の女子供に振るうのがもったいないと感じるほどに。
遠くで犬の鳴く声がする。少し風が出て来たのか、血の匂いが風に乗って立ち昇る。立ち竦んだまま、るいは影を見た。影もるいを見た。いっそ闇夜ならよかったのに。中途半端に欠けた月に照らされたその影は、るいが見知った男と、とてもよく似た顔をしていた。
「あ……」
抑えた呟きはどちらのものだったのか。
雅勝が大きく身を引いたので、るいは彼に向け、手を伸ばしかけていたことに気が付いた。伸ばしてどうなるはずもない。飛び道具も懐剣も持ってはきたけれど、それでこの男にかなう訳もない。雅勝がるいをも消す気になれば、ただそれで終わりだ。だがこの時、明らかにるいよりも、雅勝の方が怯えた目をしていた。
――そういうわけにはいかんだろうなぁ。何しろ、命じられればどこへでも行き、誰であっても斬るのが俺達の務めだ。
前に本人が言っていた。これがその務めか。だけど気が付かなかったはずがない。あれほど近くに――抱き上げて頬ずりせんばかりに、可愛がっていたというのに。
迷いはないのか。胸は痛まないのか。ほんのわずかも、刃を振るう手に躊躇いはなかったのか。
しばし無言で見合った後、雅勝は踵を返してその場を後にした。男が去った後の地面に骸が二つ。少し離れたところに何かが落ちている。拾い上げて手にするとそれは袱紗でできた小さな守り袋だった。恐らくはあの隠密の落とし物だ。随分と年期が入っている。
「ごめんね。……ごめんなさい」
謝罪の言葉を紡ぎながら、見開いたまま虚空を見つめる目を閉ざしてやる。せめて苦しまないように――というくらいの思いはあったのか、二人とも一太刀で首の筋を斬られている。
るいに謝られたところで母子の無念は晴れないだろう。どうせ命を奪うなら、最初から処罰しておけばいいのに。一度は許すと言っておきながら、どうして後で隠れて命を絶たねばならなない。はじめから処罰しておけば――あの男が今この場所にやってくる必要もなかったのに。
目の前で惨劇を見て、それでもなお、るいには、自分の心がわからなかった。あの若者を憎むべきなのか、それとも、恐れるべきなのか。目の前で血を流して死んだ母子は哀れだ。だけど、どうしてもるいには、見開いた男の瞳の中にも母子と同じ色の血が流れていたような気がしてならなかった。
落とし物の守り袋を男に返すべきか。三日三晩、眠れないくらいに悩んだ。
高橋家の妻子の死は自害と処理され、一見、明野領には平穏が戻ってきた。御見の方だけは何かがおかしいと気付いただろうが、それでも敢えてるいに尋ねてはこなかった。もっとも尋ねられたところで、答えられなかっただろう。るいにできたのは、ただ自分の知らないところで移りゆく周囲の景色を眺めていることだけだった。
意を決した四日目の昼日中、訪れた法勝寺は騒がしかった。さほど広くはない部屋に長机がずらっと並んでいて、年齢も性別も着物もバラバラの子ども達が、読んだり書いたり喋ったりしている。壁には子ども達の手習いが貼ってあって、朱色の筆で間違った字を直してある。少し角ばっているけれど読みやすいあの字は――あの男の手跡だろうか。
時間が空いた時だけ手習いを見ているという隠密はいなかった。和尚にもうすぐ帰ってくると言われて手習い部屋の隅で待っていたのだが、普段はいない人間の存在が気になって仕方がないらしい。子ども達が手習いに集中せずに、次々にるいにまとわりついてくる。三つくらいの男の子が膝によじ登ってきて、その子の姉らしい、七歳くらいの女の子に「おるいさんは先生のお嫁さんになるの?」と問われた時、苦笑して和尚が近づいてきた。
「ここでは騒がしすぎですね。あいつの落とし物でしたら、こちらで預かりましょうか?」
正直に言うなら、それも考えなかったわけではない。恐らく雅勝は、今、るいに会いたくはないだろう。だけど今、素直に和尚に守り袋を預けてしまうことができないのは、その中身を見てしまった所為だ。
「あ、いえ、直接渡したほうがいいと思います」
「……わかりました。雅勝の部屋に案内しますから、そこで待っていて下さい」
「え、勝手にいいんでしょうか?」
「まあ、何もない部屋ですから。間もなくあいつも戻るでしょう」
何もない部屋と言った和尚の言葉に嘘はなかった。畳三つほどの部屋には文机が一つあるだけで、部屋の隅に畳んだ夜具がつい立てて囲んである。塵一つ落ちていないが、生活感もまるでない。まだ朝晩は冷える日もあるのに火鉢の一つさえもない。
少しだけ空いた窓から風が吹き込んで、かすかに手習い部屋の喧騒が響いて来た。わいわいがやがや喧々だくだく……少し離れたところで聞いていて、何故か前に、あの男の傷の手当てをした時のことを思い出した。
あの時、ほんのわずかばかり歩いたところでは、怪我人が治療を受け、温かい炊き出しが行われていた。誰もが傷つき打ち捨てられた場所ならば、まだ心持も違うだろう。だけどすぐ手の届くところに手厚い救護を受けられる場所があって、そこには行けない――その場所が自分にだけは開かれていないと知ってしまうのは、やはり悲しくて辛いことではないのだろうか。
そんなことを思いながら、何もない部屋の文机の上にたった一つ、ぽつんと置かれた小さなものを見る。
それは掌に乗るくらいの大きさの白い木仏だった。鬼子母神なのだろうか。大人の仏は穏やかそうな笑みを浮かべて腕に赤子を抱いている。恐らく手彫りだろう。――器用な男だ。
することもないのでずっと木仏を見つめていて、不意に何かに気が付いた。
「これって……」
穏やかに微笑む母の腕に抱かれた赤子の顔立ちに、見覚えがあるような気がした。そのつもりで見ると間違いない。母親の面立ちも似通っている。あの日あの時――武家屋敷の片隅で雅勝が殺した母子に、その木仏はあまりにもよく似ていた。
かたん、と文机が鳴って、るいは自分が立ち上がりかけていたことに気が付いた。立ち上がった――というより逃げ出したのかもしれない――時に文机の脚を蹴ってしまい、転がり落ちた木仏が壁にぶつかって壁と窓の間の一角がぽっかりと空いた。
「隠し戸……?」
一応、元忍びの里の出なので、多少のからくりや隠し戸ならば見慣れているけれど、実際に開くところを目にしてなお、どういった仕組みかわからなかった。それも当然か。既に忍びの技も廃れたるいの故郷とは違い、この部屋の住人は現役の隠密だ。だが、隠し戸の中にあったのは武具ではなかった。明らかに先ほどの母子像と同じ手による無数の木仏が棚の上に何体も並んでいて、静かな対の目でじっとるいを見つめている。
一体や二体という数ではない。いったい何年かけてこれだけの数を彫って――どれだけの人間の命を奪ってきたのだろう。
あの男のしたことを責めることは簡単だ。だけどるいにはできそうもない。この取り残されたような部屋で、自分が殺した人間の木仏に囲まれて生きる人生など、これまで想像してみたことさえない。
――もうそれ以上、この部屋にいることはできなかった。
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