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法勝寺の近くまで来た時、塀の向こうから子ども達の声がした。どうやら手習いをしているらしい。声を揃えていろはを読む微笑ましい声がして、しばらくすると元気な子ども達が次々と小砂利を駆けて行く。恐らく近在の農家や町屋の子だろう。武家の子は見当たらない。
その日、御見の方の使いで寺を訪れたるいは、本堂とは少し離れたところにあるお堂の縁側で懐手しながら、子どもたちを見送っている若い男の姿に歩みを止めた。
「雅勝……殿?」
恵まれない野良猫でもぬくぬくと昼寝をしそうな春の陽だまりで、子どもたちに先生と呼ばれている若者が、あの時の隠密の姿と重ならず、一瞬、別人かと思う。しかし、着流し姿ですっかりくつろいだ様子の雅勝は、確かに彼の声でるいの名を呼んだ。
「――るい。ああ、そういえば和尚がお方様の遣いが来るとか言っていたが、お前か」
「雅勝殿はお師匠様なのですか?」
「師匠なんて大そうなものじゃないよ。この寺に居候させてもらう代わりに、暇ができた時だけ子ども達の手習いをみているんだ」
和尚が御見の方の知り合いだという法勝寺は、明野領の中で、格段、名刹でもければ古刹でもない普通の寺だ。地域の刻を告げる大きな鐘があって、殺風景にならない程度に、桜や楓等の庭木が植わっている。薄紅色の蕾は現在七分咲――満開まではもう少しかかりそうだ。
先生、手習い帳を見て。先生、この字なんて読むの。言っている傍から子どもたちがまとわりついてきて、喧しいことこの上ない。雅勝が子どもたちの相手をし終わるのを待って、るいは男の横顔にささやきかけた。
「傷の具合はいかがですか?」
「ああ、もうほとんど何ともない。……忠雅の奴が、しばらく俺を御役目からはずしたからな。しかしお前――その背中に背負っているのは何だ」
言われて背に負ったもの――まだ数え一歳の女の赤子を見る。るい同様、御見の方に仕える侍女の子だ。昨年家中に縁づいて子を産んで、赤子と共に御見の方を訪れたのを預かったのだ。陣屋から法勝寺はさほどの距離ではない。戻る頃には赤子の母親と御見の方の話も終わっているだろう。
「子守奉公でもあるまいし。この前も思ったんだが、るい、お前、同輩にいいように使われてないか?」
「いいじゃないですか、それで役に立にたつのなら」
正直に言うならるい自身もそんな気がするのだが、子守ならば里にいる時から散々してきた。それに人懐こく大人しい子で、見ず知らずのるいに背負われても、泣きもせずすやすやと眠っている。るいがおんぶ紐を解くと、雅勝は背中の赤子を抱き取ってくれた。振り返って赤子を受け取ろうとして、るいはそこに珍しいもの見た。赤ん坊を抱いた男の目と鼻と口といわず――顔全体が蕩けている。
「……子どもがお好きなんですね」
「七つ離れた妹がいたんだ。それはそれは可愛くてな。これくらいの時など、一日中見ていても飽きなかった」
実際、若い男にしては珍しいほど、赤子の扱いがうまい。あぐらをかいた雅勝の膝の上で目を覚ました赤子はきゃっきゃと機嫌よく笑っている。
「雅勝殿は、よい父上になりそうですね」
「影に所帯なんか持てるわけないだろう。野合ならありえなくもないが――明野領に影と番う女なんていないよ」
楽しそうに赤ん坊をあやしながら、あっさりとそんなことをのたまう。
水際立ったとまでは言わないまでも、目鼻立ちはそれなりに整っているし、背が高くて様子もいい。多少、無神経だったり融通の利かないところがありそうだが、性根がそれほどねじくれているようも見えない。若い男が少ないるいの故郷に雅勝がいたならば、付文をする娘の数は一人や二人ではきかないだろう。それが明野領では影衆であるというだけで見向きもされないのだとしたら。
――もったいない。
腹立たしいような悔しいような、何とも言えない心持ちで隠密と赤ん坊の組み合わせを眺めていると、視線を感じたらしい男と目があった。
「どうした?」
「え、あ、いえ、何でもありません」
妙にどきまぎして、そういえば何の為にここに来たんだっけと今更ながらに考えた時――
「――雅勝、お前、どこの娘さんに子ども産ませたんだ?」
雅勝とるいの背後で、今回の訪問の本来の目的であった寺の和尚があんぐりと口を開けて立っていた。
その日、御見の方の使いで寺を訪れたるいは、本堂とは少し離れたところにあるお堂の縁側で懐手しながら、子どもたちを見送っている若い男の姿に歩みを止めた。
「雅勝……殿?」
恵まれない野良猫でもぬくぬくと昼寝をしそうな春の陽だまりで、子どもたちに先生と呼ばれている若者が、あの時の隠密の姿と重ならず、一瞬、別人かと思う。しかし、着流し姿ですっかりくつろいだ様子の雅勝は、確かに彼の声でるいの名を呼んだ。
「――るい。ああ、そういえば和尚がお方様の遣いが来るとか言っていたが、お前か」
「雅勝殿はお師匠様なのですか?」
「師匠なんて大そうなものじゃないよ。この寺に居候させてもらう代わりに、暇ができた時だけ子ども達の手習いをみているんだ」
和尚が御見の方の知り合いだという法勝寺は、明野領の中で、格段、名刹でもければ古刹でもない普通の寺だ。地域の刻を告げる大きな鐘があって、殺風景にならない程度に、桜や楓等の庭木が植わっている。薄紅色の蕾は現在七分咲――満開まではもう少しかかりそうだ。
先生、手習い帳を見て。先生、この字なんて読むの。言っている傍から子どもたちがまとわりついてきて、喧しいことこの上ない。雅勝が子どもたちの相手をし終わるのを待って、るいは男の横顔にささやきかけた。
「傷の具合はいかがですか?」
「ああ、もうほとんど何ともない。……忠雅の奴が、しばらく俺を御役目からはずしたからな。しかしお前――その背中に背負っているのは何だ」
言われて背に負ったもの――まだ数え一歳の女の赤子を見る。るい同様、御見の方に仕える侍女の子だ。昨年家中に縁づいて子を産んで、赤子と共に御見の方を訪れたのを預かったのだ。陣屋から法勝寺はさほどの距離ではない。戻る頃には赤子の母親と御見の方の話も終わっているだろう。
「子守奉公でもあるまいし。この前も思ったんだが、るい、お前、同輩にいいように使われてないか?」
「いいじゃないですか、それで役に立にたつのなら」
正直に言うならるい自身もそんな気がするのだが、子守ならば里にいる時から散々してきた。それに人懐こく大人しい子で、見ず知らずのるいに背負われても、泣きもせずすやすやと眠っている。るいがおんぶ紐を解くと、雅勝は背中の赤子を抱き取ってくれた。振り返って赤子を受け取ろうとして、るいはそこに珍しいもの見た。赤ん坊を抱いた男の目と鼻と口といわず――顔全体が蕩けている。
「……子どもがお好きなんですね」
「七つ離れた妹がいたんだ。それはそれは可愛くてな。これくらいの時など、一日中見ていても飽きなかった」
実際、若い男にしては珍しいほど、赤子の扱いがうまい。あぐらをかいた雅勝の膝の上で目を覚ました赤子はきゃっきゃと機嫌よく笑っている。
「雅勝殿は、よい父上になりそうですね」
「影に所帯なんか持てるわけないだろう。野合ならありえなくもないが――明野領に影と番う女なんていないよ」
楽しそうに赤ん坊をあやしながら、あっさりとそんなことをのたまう。
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――もったいない。
腹立たしいような悔しいような、何とも言えない心持ちで隠密と赤ん坊の組み合わせを眺めていると、視線を感じたらしい男と目があった。
「どうした?」
「え、あ、いえ、何でもありません」
妙にどきまぎして、そういえば何の為にここに来たんだっけと今更ながらに考えた時――
「――雅勝、お前、どこの娘さんに子ども産ませたんだ?」
雅勝とるいの背後で、今回の訪問の本来の目的であった寺の和尚があんぐりと口を開けて立っていた。
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