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さすがは御見の方の子である。寝ていたところを起こされて、突然外に連れ出されても幼子はぐずったりはしなかった。抱きかかえた乳母の腕の中で、きょとんと目を見開いている。
「――るい、るい、どこにいくのじゃ?」
「千代丸君様のおじじ様のお屋敷ですよ。お殿様もすでに向かわれたとか。おじじ様のお屋敷で母上様をお待ちしましょうね」
千代丸君につけられたのは女子衆の中でも若く、武芸の心得がある者ばかりだった。
頬に触れる風が冷たい。既に日陰でも雪は消え、季節は確実に春に近づいているが、今、夜陰を貫く風の感触は刃のようだ。星のない夜空にぽつんと浮いた歪んだ月も寒々と凍てついている。
小太刀を構えた侍女二名が先頭に、次いで千代丸君を抱いた乳母、そして最後尾にるいが陣取った。御見の方の侍女の中でも新入りのるいは、他の武家の娘のような小太刀の腕は磨いていない。それでも御見の方がるいを千代丸君につけた訳は明確だった。他の女子にはなくて、るいにだけが身に着けているもの。
奥座敷を出てさほどたたぬうちから、追手の気配が迫ってきている。足音すらさせず姿は見せず――だが着実に距離を詰めている。
るいと侍女だけならばもう少し早く歩めるが、三歳の千代丸君を抱いた乳母の歩みは遅々として進まない。これ以上は無理だと判断したるいは、懐に隠していたものを取り出した。
里を出る時に父が持たせてくれたもの。幼い頃から遊び道具にしてきたし、里の中でもるいの命中率は高い方だったが、実のところ、対人相手に利用するのはこれが初めてのことだ。るいの手を離れた飛び道具――手裏剣は、あやまたず、追っ手の腿に突き刺さった。致命傷ではないが、筋を断ったのでしばしの足止めにはなるだろう。
「――おるい殿!」
「大丈夫です、後ろは任せて、早く千代丸君様を川口様のお屋敷に!」
振り返ってるいの名を呼んだ侍女の唇から、前触れもなく赤いものが滴った。小袖の上からでも盛り上がりのわかる二つの膨らみの間から突き出た白刃が、月明かりに照らされぎらりと光った。
千代丸君を抱いた乳母の口から悲鳴が迸る。彼女が取り落してしまった幼子の身体を、るいは地面に飛び込むようにして受け止めた。倒れ込みながら相手方の足の数と位置とを把握する。
今、地面を踏みしめている足の数は八本、うち四本は味方ものだから、敵の数は三人、進行方向に二人、背後に一人。――完全に囲まれている。
るいが起き上がるより早く、背中を男の足で蹴り上げられた。痛みで歪んだ視界に白刃が見える。間違いなく、この襲撃者の目的は千代丸君の命だ。るいごと千代丸君を斬るつもりらしい。
飛び道具である手裏剣は、接近戦では使えない。小太刀は持っているが抜く暇はない。なすすべなく幼子の身体を抱いて、せめて刃がこの身で止まってくれるよう、精一杯身を固くする。
血で血を洗う戦乱の世は、るいが生まれる前に既に終わったのではなかったのか。生まれ育った里を出て、領主の陣屋に行儀見習いの奉公に上がって。その場所でまさかこんな風に命が終わるなどとは考えてみたこともなかった。
人は死の間際に己の人生の走馬燈を見るという風説は、本当のことだったらしい。この時るいは確かに、幼い頃に死んだ母や里から送り出してくれた父、貧しくものどかな山里で暖かな人々に囲まれて暮らしたこれまでの人生を振り返った。
永遠にも感じられた一瞬、しかし実際には瞬きする程の時間だった。るいが顔を伏せた地面に生臭いものが滴り落ちる。しかし身体に衝撃はない。そろそろと顔を上げで、るいはそこに思いがけないものを見た。千代丸君と抱いたるいと襲撃者の間に割って入ったもの。その男の左腕にはるいが受けるはずだった刃が食い込んでいて、右腕が掴んだ刀は、正確に襲撃者の急所を刺し貫いていた。
「……樋口様?」
こないだ、往来のど真ん中でるいの着物を引き剥がしたあの若者が、己の身体を盾にして、るいと千代丸君を守っている。
刃を刃で弾く余裕すらなかったのか。命を絶たんと振り下ろされた刃を己の身体で受け止めるなど、尋常のことではない。男の左肘から手首にかけての皮膚が真一文字に避けて、滴るものが手の甲を伝って指先からぱたぱたと散っている。筋や骨などの急所は逸れているようだが、あれでは左腕はほとんど使い物になるまい。
一人を切り捨て、振り向きざまにまた一人。襲い掛かってきたもう一人の刃は身をかがめてやり過ごし、相手が振り返る前にその背中に鋭い斬撃を浴びせる。るいの危惧をよそに、三人の敵を若者は右腕一本で斬り捨てた。戦国の世にだって、ここまでの使い手はいなかったのではないか。そう感じさせるほど、男の動きは素早く、無駄なく、美しくさえ見えた。
血だまりの真ん中で、己も血を流しながら男――樋口雅勝が白刃を振るう。こびりついた血脂が飛び散って、男の頬や首筋を赤く濡らした。
「千代丸君に、お怪我はないか?」
あまりの恐怖に泣くことも忘れたのか、千代丸君は小刻みに震えながらるいの胸にしがみついている。白い頬が擦り剥けて血がにじんでいるが、大きな怪我はないようだ。少し離れた場所からこちらを覗き込んでいる雅勝にむかい、るいは小さく頷いて見せた。
「――ご無事です」
ようやく家臣達が今この場所の惨劇に気づいたらしい。遠くの方角が急に騒がしくなって、松明の灯りが近づいてくる。槍や弓矢で武装した家臣団を押しのけるようにして駆けてくるのは御見の方だ。母親の姿を見てようやく安心したらしい。千代丸君の小さな唇から、すすり泣く声が響いた。
襲撃の翌朝は快晴だった。昨夜の陰惨さが嘘のようにさわやかな風が、芽吹き始めた若葉を揺らしている。
奥座敷の火災は小火で消し止められ、怪我人は医者の診察受け、死者たちは筵に包まれて弔いの時を待っている。御見の方が決して千代丸を離そうとせず、二人で寝所にこもってしまったので、当面のるいの仕事はなくなった。空いた時間で怪我人の救護や炊き出しを手伝いながら、るいはずっと一人の男の姿を探していた。
あの時、雅勝が受けた左腕の傷はかなり深かった。きちんと手当を受けて、多分、縫ったほうがいい。ならば医者のところにやってくるだろうと考えて、ずっと待っているのだが、樋口雅勝はいっこうに現れない。午の刻過ぎまでねばったが、さすがに昨夜から一睡もしてないので体が辛い。汗や泥で汚れた着物も気持ち悪いので、一回休んで着替えてこようと中庭を離れた時、るいはそこに探し人の姿を見つけた。
侍女たちが暮らす奥座敷の一角にむかう途中の井戸端で、諸肌脱ぎとなった男が、身体をぬぐっている。
自分で縛り上げて止血したのだろう。二の腕を縛った手拭いを緩めると少なくない量の血があふれ出る。しかし傷はそれだけではなかった。腕にも背にも腹にも胸にも――古いものから新しいものまで、無事なところの方が少ないくらい、様々な傷が体中に刻まれている。恐らく、ろくな手当ても受けずに放置して塞がったのだろう、肩から背にかけての一番大きな刃傷は、引き攣れ赤黒く変色してもり上がっている。
思わず立ち止って息を呑んだるいの気配が伝わったらしい。振り返った男は妙にのどかな顔でるいを見た。
「――よお」
「……樋口様」
「雅勝でいいぞ。俺達は様付けで呼ばれるような身分ではないからな」
雅勝が水で洗っただけの傷に晒しを巻いて立ち上がったので、とっさにるいは駆け寄って男が着直した着物の袖にしがみついた。傷を負った左手は熱を帯びて熱い。刃傷が熱を持つ場合――下手をすると腕を切り落とさなければならなくなる。
「あちらにお医者がいますから、雅勝殿も腕を診てもらって下さい」
「……お前は知らないのか。明野領に影を診る医者なんかいないよ」
何でもないことのように告げられて、るいは頭一つ高いところにある若者の顔を見た。ろくな手当ても受けずに放置したわけではないのか。この明野領では、影衆は傷を負っても誰かに診てもらうことすらできないのか。
「でしたら、わたしが診ます」
「はあ?」
「診せて下さい、これでも、傷の手当てくらいはできますから」
どうやらよほど呆気に取られたらしい。思いの他素直に、雅勝はるいの前に傷口をさらした。消毒用に持っていた酒を惜しみなく振りかけると、頭の上の方で呻く声がする。やはり傷は深い。縫った方がいいと思うのだが、あいにく、るいには傷口を針で縫い合わせるまでの技術はなかった。
さらしで傷口を縛り、左腕が動かぬように肩から吊るして固定する。傷は深いが、筋や神経は逸れている。しばらく腕を動かさなければ、何とか塞がるだろう。
治療を終え、立ち上がった雅勝がるいに問う。
「るい、お前、忍びの出か?」
「……はい」
るいが生まれたのは、本領と犬脇峠の間にある忍びの山里だ。その昔は上杉に仕えて暗躍したらしいが、戦国の世が終わった今はもう面影もない。山で獣を狩り、炭を焼き、それだけでは暮らしていけないので、若者達は里を下りて街場に出稼ぎに行ったまま帰ってこない。このようにゆっくりと確実に滅びゆく忍びの里は、恐らくるいの故郷だけではないだろう。
「なるほど、道理で身が軽いわけだな。しかし、どうやって陣屋に勤たんだ?」
「亡くなった母が昔、川口様のお屋敷で下働きをしていたことがあるんです。――あの、雅勝殿、傷が塞がっても、しばらく腕を動かさない方がいいですよ」
「そういうわけにはいかんだろうなぁ。何しろ、命じられればどこへでも行き、誰であっても斬るのが俺達の務めだ」
吊るした左手の指を部品でも確認するように一つ一つ折り曲げながら、雅勝は微笑う。
そうして傷を負い、誰にも診てもらえず、痛みも訴えられず、たった一人この世の片隅でうずくまって耐えるのか。突き動かされた感情のまま、るいは声を張り上げていた。
「でしたら!」
「は?」
「もしまたこんなことがあったら、わたしの部屋に来てください。酒もさらしもまだいっぱいありますから!」
「……」
間が抜けた沈黙が駆け抜けた。雅勝がぽかんと口を開けたまま黙っているので、るいもしばらく黙ったままでいた。
「――悪かった」
「はい?」
「あの時、よく確かめもせず、お前を掏り扱いしたことも、……まあ、それだ、その、お前の着物を引き剥がしたことも」
「はあ……」
忘れもしない。るいと雅勝がはじめて出会った往来での話だ。謝罪を求めたのはるいの側だが、何故、今ここでそこに話が飛ぶのだろう。
「だから」
「……」
「仮にも嫁入り前の若いおなごが、男をやすやすと部屋に連れ込むようなことを言うな」
雅勝の無事な右手がるいの肩に触れる。そのまま立ち去って行く広い背中を見送った時、どこかで鶯が鳴く声がした。
「――るい、るい、どこにいくのじゃ?」
「千代丸君様のおじじ様のお屋敷ですよ。お殿様もすでに向かわれたとか。おじじ様のお屋敷で母上様をお待ちしましょうね」
千代丸君につけられたのは女子衆の中でも若く、武芸の心得がある者ばかりだった。
頬に触れる風が冷たい。既に日陰でも雪は消え、季節は確実に春に近づいているが、今、夜陰を貫く風の感触は刃のようだ。星のない夜空にぽつんと浮いた歪んだ月も寒々と凍てついている。
小太刀を構えた侍女二名が先頭に、次いで千代丸君を抱いた乳母、そして最後尾にるいが陣取った。御見の方の侍女の中でも新入りのるいは、他の武家の娘のような小太刀の腕は磨いていない。それでも御見の方がるいを千代丸君につけた訳は明確だった。他の女子にはなくて、るいにだけが身に着けているもの。
奥座敷を出てさほどたたぬうちから、追手の気配が迫ってきている。足音すらさせず姿は見せず――だが着実に距離を詰めている。
るいと侍女だけならばもう少し早く歩めるが、三歳の千代丸君を抱いた乳母の歩みは遅々として進まない。これ以上は無理だと判断したるいは、懐に隠していたものを取り出した。
里を出る時に父が持たせてくれたもの。幼い頃から遊び道具にしてきたし、里の中でもるいの命中率は高い方だったが、実のところ、対人相手に利用するのはこれが初めてのことだ。るいの手を離れた飛び道具――手裏剣は、あやまたず、追っ手の腿に突き刺さった。致命傷ではないが、筋を断ったのでしばしの足止めにはなるだろう。
「――おるい殿!」
「大丈夫です、後ろは任せて、早く千代丸君様を川口様のお屋敷に!」
振り返ってるいの名を呼んだ侍女の唇から、前触れもなく赤いものが滴った。小袖の上からでも盛り上がりのわかる二つの膨らみの間から突き出た白刃が、月明かりに照らされぎらりと光った。
千代丸君を抱いた乳母の口から悲鳴が迸る。彼女が取り落してしまった幼子の身体を、るいは地面に飛び込むようにして受け止めた。倒れ込みながら相手方の足の数と位置とを把握する。
今、地面を踏みしめている足の数は八本、うち四本は味方ものだから、敵の数は三人、進行方向に二人、背後に一人。――完全に囲まれている。
るいが起き上がるより早く、背中を男の足で蹴り上げられた。痛みで歪んだ視界に白刃が見える。間違いなく、この襲撃者の目的は千代丸君の命だ。るいごと千代丸君を斬るつもりらしい。
飛び道具である手裏剣は、接近戦では使えない。小太刀は持っているが抜く暇はない。なすすべなく幼子の身体を抱いて、せめて刃がこの身で止まってくれるよう、精一杯身を固くする。
血で血を洗う戦乱の世は、るいが生まれる前に既に終わったのではなかったのか。生まれ育った里を出て、領主の陣屋に行儀見習いの奉公に上がって。その場所でまさかこんな風に命が終わるなどとは考えてみたこともなかった。
人は死の間際に己の人生の走馬燈を見るという風説は、本当のことだったらしい。この時るいは確かに、幼い頃に死んだ母や里から送り出してくれた父、貧しくものどかな山里で暖かな人々に囲まれて暮らしたこれまでの人生を振り返った。
永遠にも感じられた一瞬、しかし実際には瞬きする程の時間だった。るいが顔を伏せた地面に生臭いものが滴り落ちる。しかし身体に衝撃はない。そろそろと顔を上げで、るいはそこに思いがけないものを見た。千代丸君と抱いたるいと襲撃者の間に割って入ったもの。その男の左腕にはるいが受けるはずだった刃が食い込んでいて、右腕が掴んだ刀は、正確に襲撃者の急所を刺し貫いていた。
「……樋口様?」
こないだ、往来のど真ん中でるいの着物を引き剥がしたあの若者が、己の身体を盾にして、るいと千代丸君を守っている。
刃を刃で弾く余裕すらなかったのか。命を絶たんと振り下ろされた刃を己の身体で受け止めるなど、尋常のことではない。男の左肘から手首にかけての皮膚が真一文字に避けて、滴るものが手の甲を伝って指先からぱたぱたと散っている。筋や骨などの急所は逸れているようだが、あれでは左腕はほとんど使い物になるまい。
一人を切り捨て、振り向きざまにまた一人。襲い掛かってきたもう一人の刃は身をかがめてやり過ごし、相手が振り返る前にその背中に鋭い斬撃を浴びせる。るいの危惧をよそに、三人の敵を若者は右腕一本で斬り捨てた。戦国の世にだって、ここまでの使い手はいなかったのではないか。そう感じさせるほど、男の動きは素早く、無駄なく、美しくさえ見えた。
血だまりの真ん中で、己も血を流しながら男――樋口雅勝が白刃を振るう。こびりついた血脂が飛び散って、男の頬や首筋を赤く濡らした。
「千代丸君に、お怪我はないか?」
あまりの恐怖に泣くことも忘れたのか、千代丸君は小刻みに震えながらるいの胸にしがみついている。白い頬が擦り剥けて血がにじんでいるが、大きな怪我はないようだ。少し離れた場所からこちらを覗き込んでいる雅勝にむかい、るいは小さく頷いて見せた。
「――ご無事です」
ようやく家臣達が今この場所の惨劇に気づいたらしい。遠くの方角が急に騒がしくなって、松明の灯りが近づいてくる。槍や弓矢で武装した家臣団を押しのけるようにして駆けてくるのは御見の方だ。母親の姿を見てようやく安心したらしい。千代丸君の小さな唇から、すすり泣く声が響いた。
襲撃の翌朝は快晴だった。昨夜の陰惨さが嘘のようにさわやかな風が、芽吹き始めた若葉を揺らしている。
奥座敷の火災は小火で消し止められ、怪我人は医者の診察受け、死者たちは筵に包まれて弔いの時を待っている。御見の方が決して千代丸を離そうとせず、二人で寝所にこもってしまったので、当面のるいの仕事はなくなった。空いた時間で怪我人の救護や炊き出しを手伝いながら、るいはずっと一人の男の姿を探していた。
あの時、雅勝が受けた左腕の傷はかなり深かった。きちんと手当を受けて、多分、縫ったほうがいい。ならば医者のところにやってくるだろうと考えて、ずっと待っているのだが、樋口雅勝はいっこうに現れない。午の刻過ぎまでねばったが、さすがに昨夜から一睡もしてないので体が辛い。汗や泥で汚れた着物も気持ち悪いので、一回休んで着替えてこようと中庭を離れた時、るいはそこに探し人の姿を見つけた。
侍女たちが暮らす奥座敷の一角にむかう途中の井戸端で、諸肌脱ぎとなった男が、身体をぬぐっている。
自分で縛り上げて止血したのだろう。二の腕を縛った手拭いを緩めると少なくない量の血があふれ出る。しかし傷はそれだけではなかった。腕にも背にも腹にも胸にも――古いものから新しいものまで、無事なところの方が少ないくらい、様々な傷が体中に刻まれている。恐らく、ろくな手当ても受けずに放置して塞がったのだろう、肩から背にかけての一番大きな刃傷は、引き攣れ赤黒く変色してもり上がっている。
思わず立ち止って息を呑んだるいの気配が伝わったらしい。振り返った男は妙にのどかな顔でるいを見た。
「――よお」
「……樋口様」
「雅勝でいいぞ。俺達は様付けで呼ばれるような身分ではないからな」
雅勝が水で洗っただけの傷に晒しを巻いて立ち上がったので、とっさにるいは駆け寄って男が着直した着物の袖にしがみついた。傷を負った左手は熱を帯びて熱い。刃傷が熱を持つ場合――下手をすると腕を切り落とさなければならなくなる。
「あちらにお医者がいますから、雅勝殿も腕を診てもらって下さい」
「……お前は知らないのか。明野領に影を診る医者なんかいないよ」
何でもないことのように告げられて、るいは頭一つ高いところにある若者の顔を見た。ろくな手当ても受けずに放置したわけではないのか。この明野領では、影衆は傷を負っても誰かに診てもらうことすらできないのか。
「でしたら、わたしが診ます」
「はあ?」
「診せて下さい、これでも、傷の手当てくらいはできますから」
どうやらよほど呆気に取られたらしい。思いの他素直に、雅勝はるいの前に傷口をさらした。消毒用に持っていた酒を惜しみなく振りかけると、頭の上の方で呻く声がする。やはり傷は深い。縫った方がいいと思うのだが、あいにく、るいには傷口を針で縫い合わせるまでの技術はなかった。
さらしで傷口を縛り、左腕が動かぬように肩から吊るして固定する。傷は深いが、筋や神経は逸れている。しばらく腕を動かさなければ、何とか塞がるだろう。
治療を終え、立ち上がった雅勝がるいに問う。
「るい、お前、忍びの出か?」
「……はい」
るいが生まれたのは、本領と犬脇峠の間にある忍びの山里だ。その昔は上杉に仕えて暗躍したらしいが、戦国の世が終わった今はもう面影もない。山で獣を狩り、炭を焼き、それだけでは暮らしていけないので、若者達は里を下りて街場に出稼ぎに行ったまま帰ってこない。このようにゆっくりと確実に滅びゆく忍びの里は、恐らくるいの故郷だけではないだろう。
「なるほど、道理で身が軽いわけだな。しかし、どうやって陣屋に勤たんだ?」
「亡くなった母が昔、川口様のお屋敷で下働きをしていたことがあるんです。――あの、雅勝殿、傷が塞がっても、しばらく腕を動かさない方がいいですよ」
「そういうわけにはいかんだろうなぁ。何しろ、命じられればどこへでも行き、誰であっても斬るのが俺達の務めだ」
吊るした左手の指を部品でも確認するように一つ一つ折り曲げながら、雅勝は微笑う。
そうして傷を負い、誰にも診てもらえず、痛みも訴えられず、たった一人この世の片隅でうずくまって耐えるのか。突き動かされた感情のまま、るいは声を張り上げていた。
「でしたら!」
「は?」
「もしまたこんなことがあったら、わたしの部屋に来てください。酒もさらしもまだいっぱいありますから!」
「……」
間が抜けた沈黙が駆け抜けた。雅勝がぽかんと口を開けたまま黙っているので、るいもしばらく黙ったままでいた。
「――悪かった」
「はい?」
「あの時、よく確かめもせず、お前を掏り扱いしたことも、……まあ、それだ、その、お前の着物を引き剥がしたことも」
「はあ……」
忘れもしない。るいと雅勝がはじめて出会った往来での話だ。謝罪を求めたのはるいの側だが、何故、今ここでそこに話が飛ぶのだろう。
「だから」
「……」
「仮にも嫁入り前の若いおなごが、男をやすやすと部屋に連れ込むようなことを言うな」
雅勝の無事な右手がるいの肩に触れる。そのまま立ち去って行く広い背中を見送った時、どこかで鶯が鳴く声がした。
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