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第十章 瓦解
第七十六話 独白
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「最初は、大勢でおしゃべりしてたんだけど、その中で仲良くなった男の人がいて、すぐにその人と二人だけでチャットするようになったの。話してたのは、些細な日常のこととか、仕事のこととか、恋愛のこととか。その人、すごく聞き上手で、人の気持ちをくみ取ることが上手でね、だから、主に私が愚痴っては、慰めてもらうことが多かったんだ。前の仕事で、辛いことがあって、今思えば大したことないって言うか、私が単に未熟だっただけなんだけど、そのときの私にとってはすごく深刻で辛くて、それを毎日励まして支えてくれたのがその人だったの。単に優しいだけじゃ無くて、その人の仕事の内容とか、仕事に対する姿勢とか、そういうのもすごく格好良くて、最初は単なる仲の良いチャット友達だったのが、だんだん好きになっていって。もちろん、私が宮部さんを好きになったような、そういう好きとはちょっと違うんだけど、でも、私にとっては間違いなく、すごく大事な存在だった。」
もう宮部は気づいた頃だろうかと、杏子はそう推測したが、話の腰を折られないよう、宮部と目を合わさず俯いたまま話を続けた。
「だけど、その人、どうしてだか突然チャットを辞めちゃったの。今では、その理由は分かってて、仕方ないことだったって思ってるんだけど、当時は判りようも無くて、私、寂しくて辛くて、ちょうど同じ頃に仕事で大きな失敗をして、精神的に追い詰められてしまって、その時たまたま知った翻訳者のテストに合格したこともあって、仕事を辞めてフリーになるって決めたの。でも、当然だけど、現実にはフリーの仕事って厳しくて、毎日無我夢中で仕事して、チャットに来なくなったその人のことはすっかり忘れてた。それがね、たまたま、本当にびっくりするくらい偶然なんだけど、その時受注した翻訳案件が、どうもその人が私と知らずに発注したものだったみたいで、名前も、仕事内容も、住んでる地域も、いろんな状況が全てその人と一致してた。それで、その人がどこの誰だか判ってしまったら、私もう、会って確かめずには居られなくなって、何でチャットを辞めたのか、会って尋ねたかった。ちょうどその頃ね、フリーの収入じゃ前の家が住み難くて引っ越し先を探してたから、思い切って家を引き払って、それでこの町に来たの。私は、その人に会うために、この町に来たの。」
杏子は、漸く顔を上げ、目の前に座する宮部に視線を据えた。宮部は、表情の無い顔で、ただ杏子を見返している。
「私は、ナツキに会うためにこの町に来たの。そして、太陽の庭で本当の夏樹に出会って、貴方に恋をした。もとからナツキのことは好きだったけど、貴方に会って初めて恋をして、私の馬鹿な思い込みのせいでこんなことになってしまったけど、でも、今でも…、私は宮部さんのことが好きです。今まで、正体を隠していて、本当にごめんなさい。」
宮部は、ここに来て表情を崩し、驚愕に目を見開いた。杏子は、宮部が何を言うのか、ただじっと座して待った。杏子が言うべきことは、全て言い尽くした。あとは宮部の沙汰を待つのみである。
「それ…、俺の話だったのか?」
「…え?」
杏子には、宮部の問いの意味が分からず、思わず聞き返した。それを最後に、二人のどちらも口を開かない。お互いに、話の流れを反芻し、状況を把握しようと思考を巡らせている、そんな様相であった。
沈黙を最初に破ったのは、宮部だった。
「そいつ、ナツキっていうのか?この町の人間?」
「え?う…、うん。いや、この町っていうか、この県の南部あたりと聞いてたんだけど。」
怪訝に問う宮部に、杏子は辿々しく答えた。自分はナツキではないとでも言いたげな宮部の態度に、杏子は思いもしなかった方向へ話が向いていくのを感じ、困惑を隠せなかった。
「違うの…?だって、このあたりで、トゲトゲの植物を輸入して育てて販売してるナツキっていう人、他にも居る!?植物に対して情熱があって、いい人に買ってもらえたら嫁に出したみたいに感動して。4月と9月に海外に買い付けに行ったり、30才で親戚に無理矢理お見合いさせられるような、ナツキっていう名前の男、他にも居ると思う!?」
「…居ないだろうな。あいつ、そんなことまで…。」
「あいつって…。宮部さんがナツキじゃないって、そう言いたいの?」
杏子は核心に迫った。この半年ほど、杏子が知りたくても知り得なかった秘密、ナツキの正体に、杏子は今、限りなく近づいていた。
「俺は、お前の言うナツキじゃない。」
宮部は、きっぱりと、そう言い切った。そして、杏子が何かを言う暇も無く、またすぐに言葉を続けた。
「でも、ナツキが誰だかは判る。…真奈美だ。」
苦々しくそう言った宮部は、確かに杏子の視界に入っているのに、それを正しく脳が認識できていないような、そんなちぐはぐな感覚に杏子は見舞われたのだった。
もう宮部は気づいた頃だろうかと、杏子はそう推測したが、話の腰を折られないよう、宮部と目を合わさず俯いたまま話を続けた。
「だけど、その人、どうしてだか突然チャットを辞めちゃったの。今では、その理由は分かってて、仕方ないことだったって思ってるんだけど、当時は判りようも無くて、私、寂しくて辛くて、ちょうど同じ頃に仕事で大きな失敗をして、精神的に追い詰められてしまって、その時たまたま知った翻訳者のテストに合格したこともあって、仕事を辞めてフリーになるって決めたの。でも、当然だけど、現実にはフリーの仕事って厳しくて、毎日無我夢中で仕事して、チャットに来なくなったその人のことはすっかり忘れてた。それがね、たまたま、本当にびっくりするくらい偶然なんだけど、その時受注した翻訳案件が、どうもその人が私と知らずに発注したものだったみたいで、名前も、仕事内容も、住んでる地域も、いろんな状況が全てその人と一致してた。それで、その人がどこの誰だか判ってしまったら、私もう、会って確かめずには居られなくなって、何でチャットを辞めたのか、会って尋ねたかった。ちょうどその頃ね、フリーの収入じゃ前の家が住み難くて引っ越し先を探してたから、思い切って家を引き払って、それでこの町に来たの。私は、その人に会うために、この町に来たの。」
杏子は、漸く顔を上げ、目の前に座する宮部に視線を据えた。宮部は、表情の無い顔で、ただ杏子を見返している。
「私は、ナツキに会うためにこの町に来たの。そして、太陽の庭で本当の夏樹に出会って、貴方に恋をした。もとからナツキのことは好きだったけど、貴方に会って初めて恋をして、私の馬鹿な思い込みのせいでこんなことになってしまったけど、でも、今でも…、私は宮部さんのことが好きです。今まで、正体を隠していて、本当にごめんなさい。」
宮部は、ここに来て表情を崩し、驚愕に目を見開いた。杏子は、宮部が何を言うのか、ただじっと座して待った。杏子が言うべきことは、全て言い尽くした。あとは宮部の沙汰を待つのみである。
「それ…、俺の話だったのか?」
「…え?」
杏子には、宮部の問いの意味が分からず、思わず聞き返した。それを最後に、二人のどちらも口を開かない。お互いに、話の流れを反芻し、状況を把握しようと思考を巡らせている、そんな様相であった。
沈黙を最初に破ったのは、宮部だった。
「そいつ、ナツキっていうのか?この町の人間?」
「え?う…、うん。いや、この町っていうか、この県の南部あたりと聞いてたんだけど。」
怪訝に問う宮部に、杏子は辿々しく答えた。自分はナツキではないとでも言いたげな宮部の態度に、杏子は思いもしなかった方向へ話が向いていくのを感じ、困惑を隠せなかった。
「違うの…?だって、このあたりで、トゲトゲの植物を輸入して育てて販売してるナツキっていう人、他にも居る!?植物に対して情熱があって、いい人に買ってもらえたら嫁に出したみたいに感動して。4月と9月に海外に買い付けに行ったり、30才で親戚に無理矢理お見合いさせられるような、ナツキっていう名前の男、他にも居ると思う!?」
「…居ないだろうな。あいつ、そんなことまで…。」
「あいつって…。宮部さんがナツキじゃないって、そう言いたいの?」
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宮部は、きっぱりと、そう言い切った。そして、杏子が何かを言う暇も無く、またすぐに言葉を続けた。
「でも、ナツキが誰だかは判る。…真奈美だ。」
苦々しくそう言った宮部は、確かに杏子の視界に入っているのに、それを正しく脳が認識できていないような、そんなちぐはぐな感覚に杏子は見舞われたのだった。
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