君に捧ぐ花

ancco

文字の大きさ
上 下
70 / 110
第九章 真実の端緒

第七十話 懇願

しおりを挟む
もとより、あらゆる状況証拠が宮部がナツキであると示していたが、更に今、もう一つの補強証拠が加わって、もはやナツキが宮部ではないという合理的疑いはない。強いて言えば、ナツキと現実の宮部との間には、漠然とした性格の相違のようなものを感じたが、チャットという匿名の疑似世界に置いて、本来の自分とは少し異なる人格を演じることは、そう珍しいことではないだろう。誰しも、程度の差こそあれ、本来の自分より優れた人間であるように誇張や脚色をし、或いは、必要以上に自分を卑下して憐れに見せたり、はたまた実年齢より大人ぶってみたり、逆に子供っぽく振る舞ったりするものである。
杏子はそう思案して、いよいよ宮部がナツキであると確信を持ったが、それを今宮部に告げることは、得策ではないと考えた。今、大事なことは、ナツキと杏の関係ではなく、現実世界に生きる宮部と杏子の関係なのである。それは今、杏子の失態によって、風前の灯となっている。悪くすれば、宮部の心の中の、杏子に対する恋の炎は既に消え失せ、消し炭のように黒く燻っているのかもしれない。
もう一度、胸の奥を熱く焦がすような情熱の炎を灯せたなら、どんなにか良いだろう。そう考えて、杏子は、あの自分を見下ろす冷たい侮蔑の視線を思い出し、やはりそんな考えは都合が良すぎるのだと、すぐに思い直した。
宮部は、妹のことを勝手に誤解し、直ぐに他の男に乗り換えようとした杏子のことを、軽蔑しているのだ。杏子に言わせれば、健とは何でもなかったのだが、失恋の痛手を忘れるために健の想いを利用したことは事実であり、それは十分に軽蔑に値するのだと、杏子は自分でも思うのだった。

どのように詫びれば宮部に赦してもらえるのか、具体的な方策など思い付く暇もなく、杏子は太陽の庭にたどり着いた。午後の良い時間だというのに、ハウスの扉は閉じて施錠され、宮部の姿も外には見られなかった。静子が言った通り、宮部は家で真奈美に付いているのだろう。
軽トラの脇に愛車を停め、杏子は石段を駆け上がり、呼び鈴を鳴らした。これから宮部に浴びせられるであろう数々の非情な言葉を予想して、呼び鈴を押したその手は微かに震えていた。
暫くして、扉の向こうで、階段から宮部が降りてくる気配が感じられた。曽我の家と同じく、ガラスに金属製の格子を嵌めた一昔前の玄関扉は、歪んだガラスの向こう側に、とびきり背の高い男の姿を透かして見せた。
がらがらと音をたてて扉が開き、目を丸く見張った宮部がそこに居た。
「あの、こんにちは。少し、お時間を頂けませんか。お話ししたいことがあるんです。」
杏子のしおらしい口調に、来訪の目的を察したであろうが、宮部は膠もなく、ただ否と杏子に告げた。
「お怒りは十分に承知です。本当にごめんなさい。どうか、少しだけで良いから、お話しする時間を下さい。」
杏子は、深々と頭を下げた。そして、下げ続けた。宮部が何かを言うまでは、決して頭をあげまいと、ただひたすらに全身で詫びた。
「申し訳ないけど、つまらない謝罪なんて聞いている暇はないんだ。無駄なことはやめて帰ってくれないか。」
とりつく島もないとは、正にこの事であった。杏子は、漸く頭を上げて宮部を見つめ、縋るように訴えた。
「それもわかってるの。さっきうちに伯母様が見えて、事情を聞いたわ。赦してもらえなくても、謝罪を聞いてもらえなくても、それでもいいの。とにかく、少し話を聞いて。お願い。」
杏子の想いが通じたわけではなかろうが、静子のことを引き合いに出したのが功を奏したのか、宮部は、余計なことを、と悪態を付きつつも、扉を開けたまま、どすどすと足を不機嫌に踏み鳴らして居間へと入っていった。どうやら、杏子に多少の時間を割く気にはなったようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

公爵閣下に嫁いだら、「お前を愛することはない。その代わり好きにしろ」と言われたので好き勝手にさせていただきます

柴野
恋愛
伯爵令嬢エメリィ・フォンストは、親に売られるようにして公爵閣下に嫁いだ。 社交界では悪女と名高かったものの、それは全て妹の仕業で実はいわゆるドアマットヒロインなエメリィ。これでようやく幸せになると思っていたのに、彼女は夫となる人に「お前を愛することはない。代わりに好きにしろ」と言われたので、言われた通り好き勝手にすることにした――。 ※本編&後日談ともに完結済み。ハッピーエンドです。 ※主人公がめちゃくちゃ腹黒になりますので要注意! ※小説家になろう、カクヨムにも重複投稿しています。

7歳の侯爵夫人

凛江
恋愛
ある日7歳の公爵令嬢コンスタンスが目覚めると、世界は全く変わっていたー。 自分は現在19歳の侯爵夫人で、23歳の夫がいるというのだ。 どうやら彼女は事故に遭って12年分の記憶を失っているらしい。 目覚める前日、たしかに自分は王太子と婚約したはずだった。 王太子妃になるはずだった自分が何故侯爵夫人になっているのかー? 見知らぬ夫に戸惑う妻(中身は幼女)と、突然幼女になってしまった妻に戸惑う夫。 23歳の夫と7歳の妻の奇妙な関係が始まるー。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

【完結】ドアマットに気付かない系夫の謝罪は死んだ妻には届かない 

堀 和三盆
恋愛
 一年にわたる長期出張から戻ると、愛する妻のシェルタが帰らぬ人になっていた。流行病に罹ったらしく、感染を避けるためにと火葬をされて骨になった妻は墓の下。  信じられなかった。  母を責め使用人を責めて暴れ回って、僕は自らの身に降りかかった突然の不幸を嘆いた。まだ、結婚して3年もたっていないというのに……。  そんな中。僕は遺品の整理中に隠すようにして仕舞われていた妻の日記帳を見つけてしまう。愛する妻が最後に何を考えていたのかを知る手段になるかもしれない。そんな軽い気持ちで日記を開いて戦慄した。  日記には妻がこの家に嫁いでから病に倒れるまでの――母や使用人からの壮絶な嫌がらせの数々が綴られていたのだ。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

睡蓮

樫野 珠代
恋愛
入社して3か月、いきなり異動を命じられたなぎさ。 そこにいたのは、出来れば会いたくなかった、会うなんて二度とないはずだった人。 どうしてこんな形の再会なの?

処理中です...