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第九章 真実の端緒
第六十六話 老婆心
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静子を居間に通して、愛用のくたびれた座布団を勧めると、杏子は、先ほど淹れたばかりのコーヒーをカップに注いで、揃いのソーサーを添えて供した。ステンレスポットのお陰で、それはまだ湯気が立つほどに温かかった。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。岡田杏子と申します。本来でしたら私の方から伺うべきところ、わざわざお越し頂いてありがとうございます。」
来客を想定していなかった杏子には、予備のカップも無ければ座布団も無く、自身は畳に正座してコーヒーも無かったが、静子が遠慮する前にと、杏子はすぐに話を切り出した。
単に挨拶だけではあるまいと、杏子は予感していた。おそらく、家の退去について宮部から連絡を受けたのだろう。いつまでに出て行けと、決定的なことを言われるかも知れないと、杏子は内心覚悟を決めた。
「いいえ、大丈夫ですよ。ちゃんと夏樹から聞いています。若いお嬢さんなのに、きちんと身上書もご用意くださって、お家賃も前納いただいて、良くできた方だと夏樹と感心しておりました。」
思いの外、好意的な態度を見せる静子に、杏子は肩すかしを食らった気分だった。柔らかく微笑む際に、目尻が垂れて皺が寄るところなど、年齢によるものを勘案したとしても、宮部によく似ているように思えて、杏子の胸がじんわりと温まった。
今日お伺いしたのは、と、相変わらずふわりとした口調で静子が本題を切り出し、杏子は少し身構えた。
「杏子さんがこの家を退去なさりたいとおっしゃっていると、そう夏樹から聞きまして、一体どうなさったのか事情をお伺いしたくて参ったんです。」
やはり用件は退去のことに関してであった。もっとも、話の方向は、杏子が予想していたものとは違うようだった。
「はい。あの、とても良い条件で住まわせて頂いて有り難いんですけど、この町で大きな仕事も頂いて、順調に軌道に乗ってきましたので、いつまでもご厚意に甘えるわけにはいかないと思ったんです。」
「そうですか。でもね、私としては、杏子さんにこちらに住んで頂けて、本当に助かっているんですの。娘について加古川に行きましたけど、この家は、結婚して、娘を育てて、夫を看取った思い出の家ですから、簡単には手放すことができないんです。ですけど、誰も住み手が居なければ、家も傷むし、維持費もかかるしで、年に二度だけこちらに戻って手入れをして参りましたけど、三年経っても借り手が居なかったものですから、いよいよ処分しなければいけないと、心を痛めておりましたの。」
静子は、俯き加減に、切々と語っている。杏子は、ただ黙って、話に耳を傾けていた。
「そこに折良く、夏樹から杏子さんを紹介してもらって、こうして住んで頂けることになったでしょう。それも話を聞けば、とても良いお嬢さんだと言うから、もうこの家のことは安心だとほっとしておりましたのに。杏子さん、遠慮なさらずに、どうか私を助けると思って、これからもこの家に住んで頂けないでしょうか。」
切なげに眉根を寄せて懇願する静子に、杏子は恐縮して俯いた。
「そんな…。こちらの方こそ有り難いお話なんですが…。でも、そんなわけには…。」
「夏樹と、何かありましたか。」
杏子は、弾かれたように顔を上げた。その目は驚きに見開かれている。静子の言葉は、質問のようでいて質問では無く、どこか確信を持った響きがあり、杏子は驚きを隠せなかった。
「夏樹から、貴方の話を聞いていました。あの子は、はっきりとは私には言いませんでしたけど、杏子さんに好意を持っていることはすぐに判りました。あの子の浮かれた様子から、杏子さんの方も、あの子を好ましく思ってくれているに違いないと、親代わりとしてとても嬉しく思っていたんですよ。杏子さん、春の買い付けの時に、夏樹の仕事を手伝ってくださったんでしょう。あの子ね、本当に喜んで居ましたよ。」
そう語る静子の表情は、宮部の幸せを我が子のことのように喜んでいる、そんな温かさが滲み出ていたが、でもね、と、続いた言葉に、一瞬にして翳りが差し顔が曇った。
「スペインから戻って以降、一向に音沙汰が無くて、私も気にはなっていたんですけど、便りが無いのは元気の証拠かと放って置いたんです。それが今回、久々に夏樹から連絡をもらって来てみれば、あの子は覇気が無いし、杏子さんは家を出ると言うし。二人の間で何か拗れてしまったに違いないと思いまして、居ても立っても居られずに、こうして参りましたの。」
静子は、卓に両手を着いて、ずいと体を前に乗り出した。
「杏子さん、何があったか教えて頂けませんか。身内の贔屓と思われるかも知れませんが、夏樹は良い子なんです。それに杏子さんもとても良いお嬢さんだわ。絶対に、何かの誤解か行き違いがあるんだと思うの。事情を教えて頂ければ、微力ながらお力添えできるかも知れませんから。」
静子の剣幕に、杏子は黙してばかりも居られず、怖ず怖ずと口を開いた。
「あの…、宮部さんは、何とおっしゃってるんですか。」
乗り出していた体を引っ込め、静子の表情がさっと翳った。それが全てを物語っている気がして、杏子は気が重くなったのだった。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。岡田杏子と申します。本来でしたら私の方から伺うべきところ、わざわざお越し頂いてありがとうございます。」
来客を想定していなかった杏子には、予備のカップも無ければ座布団も無く、自身は畳に正座してコーヒーも無かったが、静子が遠慮する前にと、杏子はすぐに話を切り出した。
単に挨拶だけではあるまいと、杏子は予感していた。おそらく、家の退去について宮部から連絡を受けたのだろう。いつまでに出て行けと、決定的なことを言われるかも知れないと、杏子は内心覚悟を決めた。
「いいえ、大丈夫ですよ。ちゃんと夏樹から聞いています。若いお嬢さんなのに、きちんと身上書もご用意くださって、お家賃も前納いただいて、良くできた方だと夏樹と感心しておりました。」
思いの外、好意的な態度を見せる静子に、杏子は肩すかしを食らった気分だった。柔らかく微笑む際に、目尻が垂れて皺が寄るところなど、年齢によるものを勘案したとしても、宮部によく似ているように思えて、杏子の胸がじんわりと温まった。
今日お伺いしたのは、と、相変わらずふわりとした口調で静子が本題を切り出し、杏子は少し身構えた。
「杏子さんがこの家を退去なさりたいとおっしゃっていると、そう夏樹から聞きまして、一体どうなさったのか事情をお伺いしたくて参ったんです。」
やはり用件は退去のことに関してであった。もっとも、話の方向は、杏子が予想していたものとは違うようだった。
「はい。あの、とても良い条件で住まわせて頂いて有り難いんですけど、この町で大きな仕事も頂いて、順調に軌道に乗ってきましたので、いつまでもご厚意に甘えるわけにはいかないと思ったんです。」
「そうですか。でもね、私としては、杏子さんにこちらに住んで頂けて、本当に助かっているんですの。娘について加古川に行きましたけど、この家は、結婚して、娘を育てて、夫を看取った思い出の家ですから、簡単には手放すことができないんです。ですけど、誰も住み手が居なければ、家も傷むし、維持費もかかるしで、年に二度だけこちらに戻って手入れをして参りましたけど、三年経っても借り手が居なかったものですから、いよいよ処分しなければいけないと、心を痛めておりましたの。」
静子は、俯き加減に、切々と語っている。杏子は、ただ黙って、話に耳を傾けていた。
「そこに折良く、夏樹から杏子さんを紹介してもらって、こうして住んで頂けることになったでしょう。それも話を聞けば、とても良いお嬢さんだと言うから、もうこの家のことは安心だとほっとしておりましたのに。杏子さん、遠慮なさらずに、どうか私を助けると思って、これからもこの家に住んで頂けないでしょうか。」
切なげに眉根を寄せて懇願する静子に、杏子は恐縮して俯いた。
「そんな…。こちらの方こそ有り難いお話なんですが…。でも、そんなわけには…。」
「夏樹と、何かありましたか。」
杏子は、弾かれたように顔を上げた。その目は驚きに見開かれている。静子の言葉は、質問のようでいて質問では無く、どこか確信を持った響きがあり、杏子は驚きを隠せなかった。
「夏樹から、貴方の話を聞いていました。あの子は、はっきりとは私には言いませんでしたけど、杏子さんに好意を持っていることはすぐに判りました。あの子の浮かれた様子から、杏子さんの方も、あの子を好ましく思ってくれているに違いないと、親代わりとしてとても嬉しく思っていたんですよ。杏子さん、春の買い付けの時に、夏樹の仕事を手伝ってくださったんでしょう。あの子ね、本当に喜んで居ましたよ。」
そう語る静子の表情は、宮部の幸せを我が子のことのように喜んでいる、そんな温かさが滲み出ていたが、でもね、と、続いた言葉に、一瞬にして翳りが差し顔が曇った。
「スペインから戻って以降、一向に音沙汰が無くて、私も気にはなっていたんですけど、便りが無いのは元気の証拠かと放って置いたんです。それが今回、久々に夏樹から連絡をもらって来てみれば、あの子は覇気が無いし、杏子さんは家を出ると言うし。二人の間で何か拗れてしまったに違いないと思いまして、居ても立っても居られずに、こうして参りましたの。」
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静子の剣幕に、杏子は黙してばかりも居られず、怖ず怖ずと口を開いた。
「あの…、宮部さんは、何とおっしゃってるんですか。」
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