君に捧ぐ花

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第七章 猜疑心

第四十七話 暗闇を照らすもの

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宮部がスペインへと発ってからも、杏子は教えられたとおりに日々の仕事をこなした。丁寧な指導のお陰で、一人でも何の不安も疑問も無く作業が出来た。植物たちも、日に日に温かくなる春の気候の中で、元気に青葉を繁らせている。
宮部から教えられたメールアドレスに、杏子は毎晩メールを送った。その日の作業報告と、文末にほんの少しだけ想いを綴った、ごく短いメールだった。宮部からも、毎日とまではいかないが、これまでに二通の返事が杏子の元に届いた。元気にやっている旨と、ご苦労様と杏子を労う、こちらも簡単なメールであった。
離れるのが寂しいと感じた杏子だったが、昼間は宮部の植物たちと過ごし、夜はメールのやりとりをして、思いの外穏やかな数日を送っている。時折ブログを覗いてみたが、こちらは何の更新も無かった。現地にパソコンを持ち込んで居ないのかもしれない、と杏子は考えた。

思えば、四日間も宮部の傍で過ごしていたにもかかわらず、杏子は、ブログの空白期間について尋ねるのを忘れてしまっていた。研修期間中は、慣れない作業と宮部のスキンシップのせいで、肉体的にも精神的にも疲労困憊していたためであろう。しかし、今の杏子の心を占めるのは、ナツキが姿を消した理由などで無ければ、宮部のブログが一時期途絶えていた理由でも無く、杏子と宮部の今後の行く末に他ならなかった。
宮部は、以前、杏子のことを、女性として好きと言える段階で無いと杏子に打ち明けた。それでも、宮部の優しい微笑みは杏子に向けられていたし、手を握ったり頬に口づけたりと、宮部からの好意を、杏子は事ある毎に感じてきた。太陽の庭で働くようになり、共に過ごす時間が増えてからは、宮部は益々杏子に対し親しげになり、杏子が思わず顔を赤らめてしまうような明け透けな言葉や、際どい接触、末は熱い口付けに抱擁までして見せた。男性経験の少ない杏子にしてみれば、恋人では無い男性からされる行為にしては、もはや行き過ぎの域である。
話をしよう、と宮部は言った。それは当然、お互いに想いを告げ合って、正式に男女としての関係を始めようという確認であるはずだと、杏子は確信を持っていた。

いよいよ、明日には宮部が帰国するという日になって、いつもの通り仕事を終えて帰宅した杏子は、土や埃を落とすべく風呂に入った。出てきた頃には、既に日が傾き始めていた。オレンジの陽が差し込む台所で、冷蔵庫を開けて晩の献立を考え始めた杏子は、お気に入りのレシピサイトを参考にするべくスマホを取り出そうとして、それが見当たらないことに気づいた。

(最後に使ったのは…宮部さんのところだわ。)

昼間、作業中にジーンズの後ろポケットにスマホを突っ込んでいた杏子は、鉢の中に肥料を一つかみずつ入れるために屈まねばならず、もともと大きな尻でピチピチに張っていたパンツが、スマホに圧迫されて窮屈だったために、ポケットからそれを取り出して、作業台の上に無造作に置いていたのだ。帰宅する際には、台上のスマホの存在などすっかり忘れて、そのまま帰ってきてしまった。
もう陽が暮れかけて来ていたが、ハウスには電灯が備え付けられていることを知っている杏子は、空腹を満たすことを優先し、ひとまず食事だと調理を始めた。
レシピサイトは諦めて、簡単に豚肉とキムチで丼をこしらえ、昨日の味噌汁に火を入れ直せば、豚キムチ丼定食のできあがりである。居間で、いつものように夕方の地域の情報番組を楽しみながら、ゆっくりと食事にありついた杏子は、すっかり暮れて夜の帳が下りた空の下、初めて愛車の前照灯を点して太陽の庭へと向かった。

自宅前の旧道も、バス通りの県道も、さして遠くない間隔で街灯が設置されており、畑ばかりで人家が少ない町並みでも、不安無く走ることができた。もっとも、神社の参道に入ってからは、街灯はなくなり、あるのは農家や果樹園の家屋に点る僅かな灯りのみであった。太陽の庭へ続く砂利道に入れば、辺りにはもはや何の灯りも無く、ハウスの中の電灯を点けるまでは、自身の前照灯だけが唯一の光源となるはずだ。
暗闇に少し不安を覚えながら、杏子は砂利道を愛車を押しながら進み、奥の開けたスペースまで来たところで、腰が抜けるほど仰天した。ハウス前の辺りから、軽トラが停めてある石垣前の辺りを、ぼんやりと薄明るく照らす光が、宮部の自宅の二階の窓から漏れていたのだ。

(誰かいる…!?)

濃色のカーテン越しに届く薄い明かりを見つめたまま、杏子は呆然とそこに立ち尽くした。
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