Dazai & JK

牧村燈

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第1章 太宰とJKが過ごしたある初夏の日々

第11話 月夜の別れ

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 先生、先生に会いたい。だからまだ行かないでいてください。ごめんなさい。こんな大切な日のことを忘れてるなんて、私、先生に甘えすぎだよね。でも、最後の、本当に最後のわがままだから、聞いてください。お願い、待っていて。絶対、絶対、行っちゃやだからね。

 もう、限界だった。足も心臓も、お腹も腕も。涙と汗と鼻水とよだれで顔ももう瀕死の状態に違いない。だけど諦めるなんて出来なかった。

 春から夏へ。武蔵野の自然は萌える若葉の季節から、成熟した深い緑がその森の中で命を育む季節へと移っていく。闇雲に自分のことばかりで拗ねたり傷ついたりしていた17歳の私は、誰かのことを思えるような18歳の私に変われるだろうか。

 太宰先生に出会って変わり始めた私がいる。だけどこんな短い時間じゃ。無理だよ先生。まだ、いや。先生、まだ側にいて。私が言うべき言葉は、言うべき言葉は。そう、違う。そんな言葉じゃないことを、私はもう分かっていた。

 もう少し。すでに夕陽は沈んでいたが、世界はまだ明るさを少し残していた。その反対側で、月は木立の上にあって、丸々とした光でその周囲を照らしている。まだよ、あなたは。そこでじっとしていてね。祈るような気持ちで最後の坂を登り切った私は、ガチャガチャバタンと家に駆け込んだ。

「先生、先生」

 玄関から姉の部屋に向かって大声を出しながら駆け上がる。玄関の鍵も開いていたし、母がいることは分かっていたけど、そんなこともう関係ない。

 姉の部屋は静かだった。

 祈るような気持ちでドアを開ける。しかし、いつものところに先生はいなかった。

 間に合わなかった。私はそのまま座り込んでしまった。なんで、なんで。こんなに走って来たのに。こんなボロボロになって走って来たのに。先生はメロスだって間に合わせてあげたのに、私はどうしてダメなのよお。

 ぜいぜいと、私の呼吸音だけが薄暗い部屋にある音だった。

『おやおや。そんな淫らな格好でどうしたのかね。ほらそんな短いスカートで座り込むから、おみ足ばかりか下履きまで見えてるじゃないか』

 目の前に黒い影があった。いや黒い影じゃない。それは紛れもなく私の大好きな太宰治そのものが、少しはにかんだような優しい笑顔で胡座をかいて座っていた。

『そんなに走って。セリヌンティウスと何か約束でもしたのかい』

 そう言って私の頭を撫でてくれた。先生に触られるのはこれで二度目だ。前回は風に撫でられているような感触だったが今回は違う。先生の柔らかい手の平の触感も温もりさえ感じられるような気がした。

 私は先生に抱きついた。強く、強く、少しの隙間もないくらい、身体全体を先生に押し付けるように、強く、強く。男の人にこんな風に抱きついたのは、多分、父親以外では初めてだと思う。

『ほら、胸が。ドキドキする鼓動が伝わってくる。だがその前に。心地よい柔らかな膨らみが二つあるようだね』

 先生が照れたように言う。ばかね、先生は。ホントにばか。私は目頭がじんと熱くなって、涙が溢れ出すのを抑え切れなかった。あああ、もう絶対顔見せられない。

「先生、今日は動けるようになったんですね」

『ああ、満月が昇ったからね』

「うん。待っていてくれて、ありがとうございます」

『ハハハ、それは待っているよ。君にはとても世話になったからね』

「世話なんて、とんでもないです。私、先生に何てお礼を言えばいいのか、分からないくらい……」

『そんなものは何も要らないよ。ただ君が、こうして、こんなになりながら走って帰って来てくれたことが、私には嬉しいことだから』

 先生は私の足についた砂を払う、ように見せかけて太ももを触っているみたい。あああ。これが男ってやつなのかな。バカみたいだなあ、と思う。フフフ。でも、何だかあったかい。

 私はそのまま先生に太ももを触らせながら、

「先生。あのね、私さっき走っている時にひとつ大事なことを思い出したんです」

『大事なことというのは、得てして分からなくなったり、見えなくなるものだからね。思い出せたのは君にとって千載一遇の幸運かも知れない』

「はい。きっとそうだと思います。その大事な忘れもの、私はどうすればいいでしょうか?」

 先生は、ハハハと笑って太ももから手を離し、私の顔を見詰めてこう言った。

『君はもう答えを知っているよね』

 私はうなずく。先生はゆっくりと立ち上がると窓の方に歩いていった。開いた窓から屋根の上まで昇った月が見える。

『もし君が何かに躓いたり悩んだりした時には、君と初めて会ったあの場所に来るがいい。出来れば満月の夜。そうしたらほら、こんな風に、私は君に触れることが出来るから』

 先生の右手が私のお尻に伸びてくるのを察した私は、身体をすっと避けて先生の背中に抱きついた。

「はい。きっと満月の夜以外に伺いますね」

 ハハハ、と笑った先生が、私の腕の中から消えた。まるで最初から何もなかったかのように。後には何にも残っていなかった。ただ、私の手の中に残った先生の温もりと、沢山の教えを除いては。

(続く)
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