【遺稿】ティッシュの花

牧村燈

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第2章 雨中の花火

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7月27日

 昨日の仕事がハードだったので、ワクチン接種の仕事の穴を埋めた今日の倉庫勤務はあまり気が進まなかったが、気持ちのタガを緩めてしまうと、経験上体調に影響が出ることが多いので、ここは気合いを入れて頑張ろうと思って勤務して来た。

 指定された商品を倉庫から集めて来るピッキングの仕事は、特に難しいことはないのだが、似たような商品を間違って取って来ないように、紛らわしい番号合わせに神経を使う。コード付けには勿論意味があるのだろうが、人の目で確認するのには不向きだ。バーコードを使うのが主流だと思うのだが、IT化の波に遅れたこの倉庫はいまだに人の目に頼っていた。そんな前時代的な空気が社員にも根付いているのか、やたら大きな声で罵声を飛ばす社員がいて、その社員の太鼓持ちみたいなベテランぽいパートの聞えよがしの嫌味が見苦しい。

「はあああ。毎日毎日、ほんと面倒くさいわ。この位のことすぐに分かってもらわなきゃ、仕事になんないわ。一人前の給料もらってるんでしょうに。」

 私のような今日だけのパートには、何を言っても構わないとでも思っているのだろうか。くだらない。別に貴方に雇われてるわけじゃない。IT化の遅れもそうだが、いずれにしてもこんな輩を中間に置いているようではこの倉庫も先はないなと思う。

 きっと沙夜子だったら、こんな職場すぐに抜け出しているに違いない。あの子は、身体は大きいけど心はとても繊細だから。沙夜子の今度の仕事、続くといいな。

 何にせよ今日は最後まで文句も言わずによく頑張ったわ。自分で自分を褒めてあげよう。明日はいつものワクチンの現場。安定の職場だからとても気持ちが落ち着く。ああ、でもこれが今週いっぱいだなんて、ホント来週からどうしよう。


7月28日

 朗報、朗報!!職場の派遣の先輩の情報で、今の会場は今月で閉まってしまうのだけど、別の会場がオープンすることになっていて、そのスタッフを追加募集するらしいという話だ。元請けの会社の社員優先らしいが、この会場で長く勤務していたメンバーは優先してもらえるかも知れないという。とりあえず派遣会社に希望を出してみた。そこも8月いっぱいまでしか見通しのない、1ケ月だけの仕事なのだそうだが、それでも決まってくれるとありがたい。

 仕事があるのはありがたいことだ。父の小説の言葉がふと頭をよぎる。福沢諭吉か。ありがたい言葉より、福沢諭吉を沢山遺して欲しかったものだ。私は父と違って、別に定職に就けないってわけじゃないんだからね。その気になればすぐにだって……。

 なんてね。言葉にしてみると、これはかなりの強がりだったなと思う。その気になれないから、こうして1年近くも短期の派遣の仕事ばかりしているのだ。

 あああ、どこかに短期で、そう3ケ月位で、実入りの良い楽な仕事転がってないかな。贅沢は言わないから、家から近くて、職場環境が良くて、先輩も優しいような。そんな所なんてないということは分かっている。もしあったとしても、そういう職場は競争率が高くて、一度潜り込んだらなかなか空きが出ないということも知っている。でも。例え潜り込めたとしても、私がその職場に馴染めるかどうかは分からない。きっと3ケ月位迄は何とか大丈夫でも、それ以上になるとどうだろう。自信が持てなかった。

 1年前に辞めた職場で受けた心の傷は未だに癒えていない。だけど、その職場がそんなに耐え難い職場だったのかと今問われると、具体的にそれを数え上げることも出来なかった。昨日の職場の方が断然酷いということは確かだ。通院しているメンタルクリニックでもらう薬が、その傷を和らげてくれているのどうかもはっきりとは分からないけれど、定職を探せないのと同じように、薬を止める自信も今の私にはない。

 さっき、母から父の新盆の話で電話があった。せめてそれぐらいはしてやったらと言う。勿論母にとっては他人事なのだが、私に言われても、と思う。兄貴に言ってよと、言ってみたが、まあ兄が父の為に何かするとは思えないし、妹はまだ学生だ。私だったそんな義理ないよ、と思いながら、お金は援助するからという言葉に「わかった、調べとく」と返事をした。

 明日は通院だ。来月はまたひとつ新たな重荷を背負ってしまったし、仕事も色々と不安だから、薬は多めにもらっておこう。


7月29日

 今日は通院日。去年、仕事を辞める前から通い始めた神谷町のメンタルクリニックは、予約の入れ方がとても緩いので、他の患者さんと顔を合わせることが殆どない。10人は座れる広い待合室で、大抵1人で5~6分待ち、10分足らずの診察を終えて会計を済ませても、次の患者さんが来ているなんてことは稀だった。

 昨日目論んだ通り、父の新盆の準備を押しつけられて気が重いだとか、8月の仕事が入っていないのが不安なのだとかをかなり正直に先生に話して、薬の量をいつもより多めにしてもらった。抗鬱剤と睡眠導入剤。いつも全部飲んでいるわけではないので、結構なストックはあるのだが、お守り代わりだ。最悪、まとめて飲んだら死ねるのかな、と考えたこともあったが、実行したことはない。痛かったり気持ち悪かったりするのは勘弁だ。治療にもならないのに血を抜かれたり、変な態勢で寝かされて動けなくなるような検査もいや。胃カメラ飲むなんてもっとダメ。死ぬ時は一瞬がいい。

 時間が出来たので久しぶりに映画でも観ようと思って日比谷に出る。外出やこうしたレジャーには色々な制約が出されているが、平日の午後にも関わらず意外なほどの人出だった。実際のところ営業をしている方からすれば、せめて容認されている最大限の客に来てもらわないことには収支が合わないだろうから、この位の人出は必要最低限なのだろうと思う。まあ、オリンピックもやっているのだから、推して量るべし、皆まで言わせるなということなのだろう。

 評判の良い映画だったので、ちょっと泣いて浄化されようと思っていたのだが、全然泣けなくてガッカリだった。作品のせいなのか、私の感性がおかしいのか。ま、父親が死んでもまともに悲しめないのだから、そりゃあ私の方に問題があるに違いない。何だかダブルでガッカリだ。

 沙夜子の仕事が終わるのを待って、夕飯でも一緒に食べようかと思ったが、お金がないのを思い出してやめた。代わりにアルコール度数が高めのレモンサワーを買って帰ってきた。サワーを飲みながら新盆の情報を検索したが、辛気臭い色のページを見るだけで気持ちがくさるので、早々に分かったことにして、動画サイトを眺めていた。テレビも付けたままだったのに気付いたが、面倒なのでそのまましゃべらせておいた。どっちも少しも面白くないのだけど、誰もいない部屋は、その音や光を消してしまうと宇宙空間になってしまう。一人が好きな沙夜子なら、きっとそれでいいのだろうけど、我儘な私は、今、その音と光を消すことが出来ない。早く寝なきゃと、と思ってもらって来た薬を倍付けで飲んでみた。これで眠れるといいのだけど。


7月30日

 ちょっと寝坊。薬のせいかな。用法容量は守らないとダメですね。それでもいつも早目に出ているので遅刻することはなく、メイクもいつも通りで出勤出来た。一昨日申し込んだ8月のシフトの結果が聞きたかったのだが、希望者が多くてまだ決まっていないとのこと。確かに5つあったの会場が2つになるのだから人余りなのだろう。

 欠勤も遅刻も早退もしないで真面目に勤務してきたのだからお願しますよと、柄にもなくマネージャーにおねだりしてみた。あああ。こんな時、もっと可愛く生まれていたら顔パスだったんだろうにな、なんて考えて、かつて美女と呼ばれて持て囃された友人たちが、必ずしもみんな幸せじゃないことを思い出して、詰まらない妄想はやめた。友人なんて書いてしまったが、相手は私のことを友人だとは思っていないだろう。卑屈だなと思う。だけどこういうのはそんなに嫌いじゃない。

 沙夜子からLINEが届いた。来週飲もうよ、という話。いいよ、と返すが、どこで飲もうか?世の中は、こんな末端労働者がストレスを発散する場所さえ奪っておいて、その上仕事まで与えないというのだからひどい話だ。思い切り歌でも歌いたいのだけど、そんなささやかな趣味でさえ、カラオケ機材は使わせないなどという、わけのわからない規制が敷かれ、駅前は8時になると真っ暗になる。

 大丈夫、飲める店知ってるからという、頼もしい沙夜子のメッセージに力をもらって、さあ、週末もお仕事、お仕事。稼げるうちに稼いでおかなきゃ。

(続く)
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