【遺稿】ティッシュの花

牧村燈

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第2章 雨中の花火

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 父の書いた小説を、私は結局、一息で読んでしまった。2008年と言えば私は11歳。まだ小学生だ。話の中身には、今の私も正直ピンと来てはいない。でも、誕生日はもろに父の誕生日だし、私の誕生日もそのままリアルに使われている。勝手に猫のぬいぐるみの話までして。きっと当時の父の限りなく本当の日記を基に書いたのだろう。でも、私にはお気楽で勝手な父が、こんな風に苦悩の日々を送っていたなんて到底思えなかった。少なくともその頃の私の記憶に、父の暗い影はまるでない。

 元々父は仕事の虫で、お酒が好きで、平日はほぼ家にいない人だった。幼稚園や小学校の運動会に、仕事の泊まり明けに、始発に乗って駆け付けてきたことがあるのだそうだ。それも毎年よ、という母の話が、どこまで本当なのか分からない。仕事なんだか、飲んだくれてたのか知らないけどさ、それでも何度もそう聞かされる内に、父というのはそういう人なんだと思うようになった。つまり仕事とお酒が生活の全てで、家庭を顧みない人、という看板。ただ、それは私の子供のころの記憶とは、少し違和感があった。本当はどうだったのだろう。父が亡くなった今となっては、確認のしようもない。それに正直にいうとあまり興味もなかった。

 もしこの小説の話が現実の父をトレースしたものだとすれば、父は精神を病んでいた時期があったわけだが、それを子供たちに全く感じさせなかったのは、家にいない父がどうこうよりも、母が偉大だったのだと思う。その母は、3年ほど前に父と離婚して、今は新しい旦那さんと幸せに暮らしている。それで良かったのだと思う。私と妹は父母の離婚を機に母の姓である「牧村」に改姓した。既に就職していた兄だけはそのまま「花咲」を名乗っている。この先私と妹が結婚して姓が変わったら、家族全員が違う姓になるんだなと思い、さすがバラバラな家族だわと改めて感心してしまった。妹は母のところから大学に通わせてもらっているが、私は丁度社会人になりたてのタイミングだったので、通勤の便のいい父の家を根城にさせてもらうっていた。父が逝き、間もなくこの家も引き払うことになるのだろう。私が3歳の頃から育った家だ。

 父の小説に感化されたわけではないが、日記を付けるのを復活させた。以前は結構マメにつけていたのだが、去年仕事を辞めてからはすっかり書くのが億劫になっていた。少し考えをまとめたいという気持ちもあったのかも知れない。

「何か迷ったり、混乱するようなことがあったら、文字にしてみるといいよ。そうだな、箇条書きにまとめるのが一番いいんだけど、あんまり構えていると何も書けないから、日記を付けるのもいいよ。何でもいいからその日あったことを書いて筆に勢いをつけて、脈絡なんていらないから自分の考えを文字にするんだ」

 細かいところはうろ覚えだが、中学生に上がったばかりの頃に、父に確かこんなことを言われた。その時はいい加減に聞き流したのだが、言葉だけは覚えていた。この歳になって思い出させられることになるなんて。

 そう。今、私は人生という迷路の中で、多分道に迷っている。


2021年7月23日

 ずっと楽しみにしていた沙夜子サヨコとの旅行だった。この日の為に随分頑張って仕事も入れて来たんだけどな。東京は晴れていたのに、山間ヤマアイに入ると昼間から雨が降ったりやんだり。乗りたかったアトラクションも中止になり、目玉だった花火大会も大雨の中で見ることになった。

 ドドドドンという大地を震わせる花火の轟音と、ザザザザザと大地に打ちつける土砂降りの雨の音に、多分引きずるように無理矢理連れてこられたのであろう子供の泣き叫ぶ声がかき消された。

 もう、やけくそ。と思わず笑みが零れた。

 この天候の中で強行された花火には、きっと主催者の気迫のようなものが乗り移っていたのだろう。ちょっと簡単に言い表せないような迫力があった。客の多くは今日しかここにいない観光客だ。下手に中止にして観覧料の返金なんてことを考える位なら、無理にでも開催すべきというのは、経営者の取るべき道として実に正しい。「雨天決行」の文字が赤字だった意味が良く伝わった。

 フィナーレの後にアンコールもあった。相変わらず情け知らずに降る豪雨の中、殆ど誰もアンコールなんてしていなかったが、きっちりとシナリオはこなされ、時間通りにお開きになった。私には、アンコールより折角買ってきたアルコールが飲めなかったのが残念だった。

 宿に戻って、飲めなかったアルコールとスナック菓子を肴に東京オリンピックの開会式を見た。テレビ画面に延々と映るクソ面白くもない入場行進を、見るともなく眺めていた。そう言えばチケットを販売している頃に、父にオリンピックを見に行かないかと言われたのを思い出す。確かあの時もちゃんと返事しなかったかな、多分。まあ見たいと思っても、父と一緒なんてあり得ないと思っていたから。

 誰にも言っていないが、あの小説を読んでから父のことを思い出すことが多くなった。東京オリンピックの年に生まれて57歳になる直前にこの世を去った父は、このオリンピックを見たかったのだろうか。今更どうでもいいことだけど、どうせ無観客だったから悔いないよね。

 沙夜子の寝息が聞こえてきた。今日は色んなことが何かうまくいかなかった。気にしいの沙夜子のことだから、自分の立てたプランがこうなってしまってきっと気にしてるだろうな。

 運転お疲れ様と、沙夜子の頬にキスをした。明日はいい日になるといいね。


7月24日

 前日とはうって変わり、青くそしてモクモクと湧き上がった白雲が浮かぶ夏空が広がった。沙夜子と私は、朝食後にしばし惰眠を貪り、すっぴんのみっともない寝起きの顔を見せ合って、これが旅の醍醐味だね、なんてひとしきり笑うと、かねてから絶対食べようと言って楽しみにしていた鮎の塩焼きを食べに出掛けた。

 『やな』を仕掛けて獲った川魚をその場で料理してくれる店で、ハイボールを飲みながら食べた鮎ややまめは最高に美味しかった。ノンアルコールビールで乾杯してくれた運転手の沙夜子には悪かったけれど、ここは御免してもらおう。

 川べりを散歩したりしてほろ酔いの私たちは、もう一杯ずつの追加注文をして待つ間、テーブルの上を歩き回る蟻や小さな虫たちを相手に遊んでいた。小さな身体に長めの脚がユニークな5ミリほどの虫に、割箸の袋を登らせたりして写真を撮った。特に理由もなく「田中」と名付けたその虫への興味は、追加注文が届いた途端に消え失せて、暫くは涼風に靡いて揺れるミノムシや、唐揚げの欠片を運ぶ蟻の動きを追い掛けていた。優しい木漏れ日が明るいとても長閑な時間だった。多分私はその時、明日からの仕事のことも、来週から先の仕事が決まっていないこともすっかり忘れて、目の前の小さな世界に夢中になっていた。ずっとその時間に止まっていられたら、どんなに幸せだろう。

 ふと、蕎麦のつけ汁の入った容器の縁にあの「田中」が登って歩いているのが目に入った。いつのまにそんなところにと、思った次の瞬間、「田中」は脚を滑らせてつけ汁に中に墜落してしまった。

「あ、田中が」

 私は思わず声を出した。

「それ、醤油は毒だから早く救出しないと」

 沙夜子に言われて、私はすぐに箸袋で「田中」を救い上げた。その時間は多分10秒も掛かっていないと思う。けれども救い上げられた「田中」はピクリとも動かなかった。

「水をかけてみたらどうかな」

 沙夜子のアドバイスに水を垂らして身体についたつけ汁を薄めてみたり、暫く乾かしてみたりしたのだが、「田中」が動き出すことは二度となかった。

 あっけなかった。ついさっきまで、本当についさっきまであんなにあたり前に元気に歩いていたのに。

「あああ、死んじゃったね」

 沙夜子の言葉に、私は「うん」と答えたつもりだったが声が出なかった。

「さっきは箸袋にもなかなか登らなかったのに、何だってこんな器に登ったりしたんだろうね」

 小さく頷いた私の肩先にすーっと風が吹いたのを感じた。命なんてこんなもんだよ。いつだって突然、何の前触れもなく静かに終わっていくものだ。その止めようもない現実は、こんなにも清々しくて幸せだった夏の川べりにも、忽然と現れて私の心を揺らすのだ。

 だからという理由ではないが、その後の予定を端折って家路についた。帰りの車の中で、私たちはあまり話をしなかった。沙夜子とはそれで気まずくなるような関係じゃないけれど、何となく沙夜子も疲れているような気がした。いつの間にか眠っていた私を、沙夜子は決して起こしたりしない。

 楽しい時間はあっという間だ。随分前から楽しみにしていて、間違いなくとても楽しかったのだけれど。いつもなら旅行から帰って来てからも、打ち上げ気分で飲みに行ってカラオケまで流れるのだが、今回はそのままお開きにした。沙夜子の後姿が少し小さく見えた。私は明日仕事だけど、沙夜子は久しぶりに日曜休みを取ったらしい。少しほっとする。いつも本当にありがとう。明日はゆっくり休んでね。

(続く)
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