【遺稿】ティッシュの花

牧村燈

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第1章 ティッシュの花

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 2007年。43歳になった翌月に、私は21年勤めた会社を辞めて転職した。

 新卒で入社した会社だった。学生時代にアルバイトは随分とやってきたつもりだったが、社会の仕組みも働くということも、実はまるっきり理解していなかった。週休1日がまだ当時の主流だったとは言え、週6日間、朝7時半から早くても22時までの長時間勤務に気力も体力も消耗していった。残業代は営業手当に込みだと言われた。実績主義とか体育会系と言えば聞こえは良いが、売れれば天国、売れなければ地獄。今思えば理不尽なことが平然と横行していた。完全無欠のブラック企業。それでも当時の私はそれが普通だと思っていた。成果が上がらないのは全て自分の力不足。頑張っている人、成果を上げている人が目の前にいるのだ。みんなに迷惑がかかるからという理由で幾度も辞めようと思ったが、あと1週間だけ、あと1日だけと、息を止め目をツムって毎日を乗り越えた。

 その内に少しずつ風が変わった。同期が辞めていくのを見送った分だけ、行き場を無くした仕事が回って来たのだ。それを深夜と休日出勤でやっつけた。若さと体力、そしてふん切れない優柔不断な性格が結果的に奏功した。我慢を重ねて大量の時間を掛けた修練の結果は、徐々に会社からもそれなりに認められ、役職も与えられた。

 やがて時代の流れの中で会社も仕事も落ち着いた。沢山の犠牲者とハードワークで築かれた城は、意外にも外部から評価される会社に変わり、私はその中で一端イッパシの管理者になっていた。社長が公言する「社員を大切する会社」などという言葉に、一体どの口が言うのかと思いながら、いつの間にかその片棒を担いでいた。

 その後も順調に業績を上げた会社には特段の不満もなかったし、居心地も決して悪くなかったが、40歳を過ぎたあたりから気持ちがざわついた。独立して手広くやっている先輩の話や、転職して成功している同期の話。このままでいいのか。仕事に余裕が出て考える時間が出来たことも後を押した。自分にも出来ることがあるんじゃないか。新たな道を模索するなら、今が最後のチャンスかも知れない。

 はじめから絶対に転職すると決めていたわけではなかったのだが、試しに登録した人材紹介会社から、誰もが知っている有名企業からの引き合いをもらい、最初の面接に行ったことで火がついた。下にも置かないもてなし。面談での会話もとてもいい感触だった。その会社では最終面接までいきながら生憎縁がなかったが、その後も応募すればすぐに反応のある転職活動は楽しかった。最終的に昔からよく遊んだゲームのメーカーから、それまで以上の待遇で内定をもらう。これこそ「運命」、自らの新境地を開く「縁」に違いないと感じ、バタバタと転職を決めた。折も春。「卒業」という聞こえの良い言葉に送られ、桜の花の祝福を受けたとても理想的な華やかな転職だった。

 当時はそれなりに自信もあった。しかし、程なくそれがいかに慎重さを欠く甘い選択だったのかを思い知る。業界が変われば、今まで常識だと思っていたことが、とんでもない非常識になるのだ。一日がいつ始まっていつ終わるのか分からないゲームのプログラミングという職場においては、日々のメリハリと新鮮な気持ちこそが原動力だった営業の職場での経験は、毒にこそなれ何の効用ももたらさなかった。

 気持ちを切り替え、過去にコダらずに新しい環境に馴染ナジもうと試みたが、既存勢力の反発がそれを阻んだ。中途半端に高い役職で入社したことがここでアダになった。彼らに悪意はない。ただ居場所を奪われまいとする自己防衛本能が働いただけだ。自分だって今まで、何人もの天下りにそうやって対応して来たじゃないか。同じことだ。やれるところさえ見せれば人はついてくる。大丈夫。今まで何百回も徹夜仕事をしてきたし、連日のように一日に2回のお昼を食べてきたじゃないか。努力と根性は誰にも負けない、と。

 とにかく時間と身体を使った。実際にはそれしか持ち合わせがなかったということかも知れない。頭では若いつもりだったが、年齢や体力のことを忘れていた。いや一番ダメだったのは、いいところを見せようと焦るばかりで、人から学ぼうという気持ちに欠けていたことだろう。それではいくらやっても結果は出ない。当然の帰着だった。空回りが決定的なミスを呼んだ。直接的には部下の失敗だったが、明らかに自分のチェック漏れだった。

 面接で気に入ってもらえてこの会社に呼んでくれたトップにガツンとやられて、呆然と帰宅した夜のことだ。心労と寝不足で身体が弱っていたところにクーラーをつけたまま眠りこんでしまい、重い夏風邪を引いた。二日で熱は下がったが、咳がいつまでもマトわりついた。ここ数年風邪を引いた記憶もなかった頑丈な身体にも裏切られた思いが、ことのほか辛かった。体重は落ちていたのに、その身体を何故かいつもより重く感じていたある朝、目覚めているのに身体が動かない体験をする。そんな経験は初めてのことだった。恐ろしくなって声を出すと少し楽になったが、自分自身が尋常ジンジョウでない状態にある、そう感じて病院に行った。

 いくつかの病院で診察を受け、最終的に「うつ」と診断された。「うつ」なんて、今まで言葉では「仕方ないよ」と言いながら、本心では「怠け病」だと思っていた自分が、よりによってだ。自らを叱咤シッタし、何とか仕事に出ようと足掻アガいてみたが、出勤の度に症状は悪化の一途を辿った。そんなある日、生まれて初めて遅刻をした。家を出たものの、どうしても足が前に動かなかったのだ。

 職場で誰かと話をすることも厳しくなった。決断を要する仕事が一切前に進まない。困り顔の部下に対しても、もはや取り繕う気力さえなかった。もう勤務の継続は難しいだろうと周りの誰もが思うようになった頃に、会社側から提示された退職条件を飲んで職を失った。

 一度休んでみるとか、もっとしっかり話をすれば、そんな簡単に結論を出さなくても良かったのだと思うが、誰かと込み入った話をすることが苦痛になっていた。何でもいいから人と関わりたくないというのが一番の本音だった。

 その春、桜の花の咲く並木道を意気揚揚と高層ビルの扉を開けた日からわずか半年。まだ残暑の残る9月に私の人生を賭けた転職というチャレンジは、最悪の結果に終わった。

 それでも自主退職の条件としてもらった半年分の給料に相当する退職金があれば、その間に何とかなるだろうと高を括っていた。しかし、気持ちを奮い立たせて再度就職活動を始めた直後にリーマンショックに見舞われる。突然吹き始めた不景気の嵐は、思うようにならない心と身体にあまりにも厳しかった。長男がまだ中学に上がったばかり。これから金のかかる3人の子供と住宅ローンを抱えた我が家に、こうして絶体絶命の危機が訪れた。

 ひとつの内定ももらえないまま4ケ月が過ぎ、年を越した。長い長い冬だった。体調は薬のおかげでまずまず安定していたので、正月明けから少しでも不安を紛らわそうと日雇い派遣の仕事を始める。色々と不安はあったが、意外なことに、やってみるとこれが張り詰めていた気持ちにほんの少しだが余裕を芽生えさせた。その余裕を、日記を書く力に変えることにする。昔の日記を読み返すと、その当時真剣に悩んでいたことが、実につまらないことに見えた経験を、今このどん底に活かしたいと思ったのだ。いつかこの深刻な状況も、何と些細ササイなことだったかと思えることを祈りながら言葉を記し始めた。

(続く)
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