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サイドK⑤

暗闇の先に①

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 真っ暗で無音、無風、無臭の世界。熱さも寒さも、喜びも悲しみも、不安も苦痛も、空腹も尿意も感じないまま、ぼくはただ彷徨っていた。生きているのか、死んでいるのかさえも分からない。ぼくには随分と酷い難題が山積みだったような気もするのだが、それを思い出すこともないし気にもならない。前にも後ろにも上にも下にも、勿論右にも左にも動くことも出来ないが、身体に不快感はな。ずっとこのままいられそうだ。どうなんだろう、この境地。

 人はいつも安定を求める。嫌な仕事にも無理して行くのは、食っていく為、家族の為、老後の為。そんな心配もなければ仕事なんてしないで、好きなことをやって生きていくと公言する人もいる。変化は嫌だ。誰とも争わずに、ずっと変わらず同じように平和に穏やかに生きていたいと言う。

 言うなれば、ぼくはその安定極まりないポジションを得ることが出来たのかも知れない。何も出来ない代わりに何もしなくてもいい状態を得たのだ。

 一陣の風が吹いた。ザワザワと心が蠢く。遥か遠くに仄かな光が煌めいた。網膜が反応してエネルギーを消費する。優しい音色が響いた。鼓膜が震え、その響きを身体中の器官が貪るように食らい始める。そして香ばしい香りや、滑らかな感触、そして青空の下に美しい花々が咲き乱れる世界が解き放たれると、ぼくはもうじっとなんてしていられなくなる。

 その世界に飛び出すことが、永遠の安定を捨て去ることだと知りながら、それでもぼくは行きたいと切望し、安定のまま死を待つのではなく、苦しみながら生きることを選択した。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 警察病院で目覚めたぼくが最初に会ったのは、中田竜二と名乗る男だった。ぼくの親友だと言うのだが全く記憶になかった。ぼくが色々と世話になってしまい申し訳ないと謝ると「いいんだ。何も心配することはない」とぼくを抱きしめて涙をこぼした。この男は信用していいんだろう。

 ぼくの名前は神戸康介というらしいが、はっきりと違和感があった。ぼくは誰だ。遠い昔に同じようなことがあった。いつだ。何故だ。ぼくは何故こんなことを繰り返すのだろう。

 中田が、明日ぼくの妻を呼んでいると言うのだが、妻と言われても無論何も憶えていない。その妻と一緒に公園にいるところで、ぼくは見ず知らずの女に首を刺されたらしい。

「色々話しておきたいことはあるんだが、急に話しても混乱するだけだろう。明日充枝さんに会ってから徐々に話をするよ」

 中田はそういうと席を立ち看護師や医師にソツなく挨拶をして帰っていった。自分の家族でもないのに、こんな風にケガ人の世話が出来ると言うのはすごいなと感心した。暗闇から這い出てきたと思ったのに、出てきた場所がまた暗闇だったというぼくにとって、中田は無くてはならないナビゲーターだと思った。明日会う妻という人がいい人で会って欲しいなと考えていると、猛烈な眠気に襲われたちまち眠りに落ちた。

(続く)
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