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サイドM⑤

妄言探偵①

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「おにいちゃん」

 私は自らの口から零れ出た言葉に畏怖した。何を口走ったのだろう。康介を刺した女が逃げていく。私には分かっている。あれはお姉ちゃん。きっと私の為にやった、なんて思っているに違いない。いつもそう。高校の時も、Bホテルの時も、そして今日も。

 それより私は、自分の口から出た「おにいちゃん」という言葉の指す相手が、目の前で力なく崩れ落ちた夫、康介のことに違いないことに打ちのめされていた。目の前で倒れる康介の顔は、あの日川に落ちた兄の顔そのものだった。濁流の川に飲まれた兄。その時と同じ顔だった。

 周囲に人が集まって来た。

「大丈夫ですか」「救急車、救急車」「早く、早くしろ」

 康介の周りに集まった人たちがゴチョゴチョと康介を弄っている。やめて。私のおにいちゃんをいじめないで。私は兄に縋りつこうとしたところで、後ろから羽交い絞めにされた。誰だ?コノヤロー。

「充枝ちゃん、大丈夫だから。神戸は大丈夫だから、落ち着いて」

 私を掴まえているのは中田さんだった。またこの人か。高校のあの事件以来、まるで私にストーカーのように付きまとってくる。就職も、康介と仲良くなったのも、康介と結婚しろと言ったも、みんな中田さんの指示だった。それが君が幸せになる道なんだと言われていたけど、何よこれ。ひとつも幸せになんかなってない。

 康介が救急車で運ばれていく。同乗しようとしたが、やはり中田さんに阻まれた。中田さんは救急隊に名刺を渡して「搬送先が決まったら連絡をください」と言った。直後に警察がやって来て、現場検分が始まった。

 断片的ながら目撃者はそれなりの人数がいた。充枝と康介が抱き合っていて、突然、康介が倒れた。私が主張した逃げていく女の姿を目撃したという者は、中田ともう一人だけだったが、中田が私立探偵として警察にも顔が利く立場であったことと、現場に凶器が見当たらず、誰かが持ち去ったと考えらたので、私の証言は信憑性ありとして受け入れられた。

 信憑性とか言われて結構むかつく。お姉ちゃんだとは教えてあげなかったけど、公園であんなに大胆に刺したら誰だって分かるじゃない。まあ、でもきっとお姉ちゃんはまた逃げ失せるんだろうな。隠れるの天才的に上手だからな。小さい頃から、ホントどこにいるか全然分からなかったもの。高校の時も私がうるさく言わなかったら、ばっちゃんは捜索願だって出さなかったと思う。

「充枝ちゃん、ケガはない」

 中田さんが私を気遣う。これもいつものことだ。もういい加減にして欲しいなと思う。私は自由に生きたいのに。

 そうだ。さっきのサイトのメールの返事来てるかな。私は中田さんの質問を無視して、スマホを操作する。ダラダラとしたメールが数件連なっていた。誰でもいいや。出来ればあの薄汚くてヤニ臭い山田くらい最低な奴がいい。面倒な駆け引きはいらないから、お化け屋敷みたいなホテルでいきなり抱いて欲しい。

「充枝ちゃん。君は何も悪くないんだ。だから、だから」

 決まってるじゃない。私は何にも悪いことなんかしていない。いつも悪いのは男。男。男……。いや。いや違う。一人だけいた。私を助けてくれた人が......。

 その時、私は抜け落ちていた記憶のピースがひとつはまったのを感じた。5歳の時のあの濁流の川。川で溺れそうになっていたのは兄じゃない。

 私だ。

 兄は私を助けてくれたんだ。私は嬉しくて抱きつこうとした。抱きつこうとしただけだった。

「いやあああああああ、おにいちゃんを返して」

 私の悲鳴が公園中に響いた。

 全力を尽くして妹を救った兄には、私を抱きとめる力は残っていなかった。それでも最後の力を振り絞って私を岸に押し返し、自分は濁流に飲まれていったのだ。

 それが私のお兄ちゃん。いや、私の夫、神戸康介、その人だ。

(続く)
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