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サイドK②
疑惑の萌芽②
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充枝の情緒不安定が疑われる出来事はこれまでにも何度かあった。
そう、あれは付き合い始めたばかりの頃に二人で行った初めての京都旅行の時だ。新幹線の中でチューハイを飲みながら楽しく駄弁っていたのだが、長いトンネルをくぐった途端に充枝が急に苛立ち始めた。暫くの間、いくら話しかけてもぼくの方を一切振り返ることもなく、充枝は窓外の景色をただ見詰めていた。時間にすれば10分くらいだったと思う。眉間の皺、親の仇のように一点を睨む瞳。まるで別の人がそこにいた。あまりにも突然の変化に途方に暮れている僕に、
「どうしたの?」
充枝が尋ねた顔が10分前と何も変わらない笑顔だったことに、その時はぼくの方がおかしかったのかも知れないと思ったほどだった。
「どうしたの?」
おうむ返しに問い返したぼくに、すっともたれかかる充枝の髪の毛の匂い。その場は結局それで有耶無耶になってしまった。
またある時は、出張から戻って家に入ると真っ暗な部屋の真ん中で充枝が正座していたということがあった。
「誰もいないのかと思ったよ」
声を掛けると、ブツブツと意味の分からない言葉をまるでお経のようなものを唱えていた。覗き込むとその顔は無表情で、しかも目が吊り上がっている。いつもの優しい垂れ目の充枝とは全く別人に見えて驚いて、慌てて照明をつけるとそこにはいつもの充枝の顔に戻っていた。
「あら、おかえりなさい」
何事もなかったような振る舞いで、笑顔を見せる。
「どうしたの?」
と尋ねても「何が?」と聞き返されてしまい、ぼくはそれ以上何も突っ込むことが出来なかった。ただ、その時の声がいつもより少し甲高く違和感があった。別人の声、と言うわけではないのだが、そう、まるで頭から声が出ているように聴こえて妙に気になっていた。
充枝が私に初めて中出しを許してくれた日のあのおかしな時間の後も、何事もなかったようにすぐにいつもの充枝が戻ってきたが、その時の声もやはり同じような違和感があった。充枝ではない誰かが、充枝のフリをして喋っている。名探偵◯ナンの眠りの何とかという探偵が推理するシーンのような……。
「ねえ、今晩ちょっと話があるの。早く帰って来られる?」
今朝、出掛けに突然充枝にこう言われた。こんなことは滅多にない。
「ああ、大丈夫だよ。ご飯はどうしようか?」
「家で用意するから、真っ直ぐ帰ってきて」
最後にあんなことはあったものの、あの日から少しずつ充枝との心の距離が縮まっているのは間違いない。それは彼女の家の中でのぼくとの距離の取り方が変わったからだと分かっていた。洗面所で、食卓で、廊下ですれ違う時ですら、あからさまに遠かった距離が、このところは良く触れる位置に充枝はいた。今日だって、平日に夕飯を家で食べることなどもう当分なかったことなのだ。
「分かった。早く帰ってくるよ」
そう言ったぼくの目を見つめて、
「いってらっしゃい」
と充枝が呟くように言う。
「いってくるよ」
ぼくは充枝にキスをした。
新婚当時からずっと共働きでお互いに朝が忙しく、バタバタといつの間にか家を出るのが当然だった。もしもこんな朝を積み重ねていたとしたら、ぼくたちの今日は変わっていたのかも知れない。いや、これからだって出来るはずだ。愛しい妻を蝕んでいる何か得体の知れないものの存在を感じながら、いや、ぼくはそれとだって戦う覚悟があるのだと、足取り軽く職場に向かった。
(続く)
そう、あれは付き合い始めたばかりの頃に二人で行った初めての京都旅行の時だ。新幹線の中でチューハイを飲みながら楽しく駄弁っていたのだが、長いトンネルをくぐった途端に充枝が急に苛立ち始めた。暫くの間、いくら話しかけてもぼくの方を一切振り返ることもなく、充枝は窓外の景色をただ見詰めていた。時間にすれば10分くらいだったと思う。眉間の皺、親の仇のように一点を睨む瞳。まるで別の人がそこにいた。あまりにも突然の変化に途方に暮れている僕に、
「どうしたの?」
充枝が尋ねた顔が10分前と何も変わらない笑顔だったことに、その時はぼくの方がおかしかったのかも知れないと思ったほどだった。
「どうしたの?」
おうむ返しに問い返したぼくに、すっともたれかかる充枝の髪の毛の匂い。その場は結局それで有耶無耶になってしまった。
またある時は、出張から戻って家に入ると真っ暗な部屋の真ん中で充枝が正座していたということがあった。
「誰もいないのかと思ったよ」
声を掛けると、ブツブツと意味の分からない言葉をまるでお経のようなものを唱えていた。覗き込むとその顔は無表情で、しかも目が吊り上がっている。いつもの優しい垂れ目の充枝とは全く別人に見えて驚いて、慌てて照明をつけるとそこにはいつもの充枝の顔に戻っていた。
「あら、おかえりなさい」
何事もなかったような振る舞いで、笑顔を見せる。
「どうしたの?」
と尋ねても「何が?」と聞き返されてしまい、ぼくはそれ以上何も突っ込むことが出来なかった。ただ、その時の声がいつもより少し甲高く違和感があった。別人の声、と言うわけではないのだが、そう、まるで頭から声が出ているように聴こえて妙に気になっていた。
充枝が私に初めて中出しを許してくれた日のあのおかしな時間の後も、何事もなかったようにすぐにいつもの充枝が戻ってきたが、その時の声もやはり同じような違和感があった。充枝ではない誰かが、充枝のフリをして喋っている。名探偵◯ナンの眠りの何とかという探偵が推理するシーンのような……。
「ねえ、今晩ちょっと話があるの。早く帰って来られる?」
今朝、出掛けに突然充枝にこう言われた。こんなことは滅多にない。
「ああ、大丈夫だよ。ご飯はどうしようか?」
「家で用意するから、真っ直ぐ帰ってきて」
最後にあんなことはあったものの、あの日から少しずつ充枝との心の距離が縮まっているのは間違いない。それは彼女の家の中でのぼくとの距離の取り方が変わったからだと分かっていた。洗面所で、食卓で、廊下ですれ違う時ですら、あからさまに遠かった距離が、このところは良く触れる位置に充枝はいた。今日だって、平日に夕飯を家で食べることなどもう当分なかったことなのだ。
「分かった。早く帰ってくるよ」
そう言ったぼくの目を見つめて、
「いってらっしゃい」
と充枝が呟くように言う。
「いってくるよ」
ぼくは充枝にキスをした。
新婚当時からずっと共働きでお互いに朝が忙しく、バタバタといつの間にか家を出るのが当然だった。もしもこんな朝を積み重ねていたとしたら、ぼくたちの今日は変わっていたのかも知れない。いや、これからだって出来るはずだ。愛しい妻を蝕んでいる何か得体の知れないものの存在を感じながら、いや、ぼくはそれとだって戦う覚悟があるのだと、足取り軽く職場に向かった。
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