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サイドM②
少女時代①
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白い壁にオルゴールの音色、観葉植物、クリーンなカウンセリングルーム。ここは行き付けのメンタルクリニックだ。
「最近はよく眠れていますか?」
主治医は私の目をじぃと見つめながら、全てを肯定して受け入れるよ、とでもいうような優しい眼差しで、私の話を聞いている。そして時に頷く。というか、よく頷く。気にしはじめるとどうにも燗に触るので、見ないようにしたいがそれも出来ない。仕方なく頷く数を数えてみる。ひとつ、ふたつ……。
私は、私の頭の中にあるありったけのリアルを虚ろげな口調で主治医に伝えた。私の中のリアル。それは私だけが知り得る私の世界におけるリアルだ。話していることと現実にどの位の乖離があるのかもよく分からない。私にとっては間違いなく同一の現実なのだが、本当はどこかが違うような気もしていた。それでも分からないことは話しようが無いのだ。
主治医の隣でひたすらパソコンに私の病状の経過をカタカタと打つ看護師とたまに目が合う。マスク越しだが可愛らしい目をした若い娘だ。折角ニコリとしてくれているのに、私は思わず目を逸らしてしまう。悪い癖だ。人の好意的な感情を素直に受け入れられない。普通に会釈をすれば、笑顔を返せば、否、アイコンタクトだけでも十分だというのに。
主治医のつらつらとしたアドバイスもまるで頭に入って来ない。兎に角、処方箋が手に入れば良いんだ。
「……最近は大分安定しているようですね。ではお薬を継続してお出ししますので、また2週間後にいらしてください」
私は会釈をして、診察室を出た。ふう、と小さな溜息が出る。右手が無意識に腹を撫でていた。
新宿で町田と会ってからもう1ケ月半が過ぎた。あれから生理がない。私は出会い系サイトの会員ページを開き、町田とのやりとりの履歴を丹念にチェックした。町田の「はじめまして!」から交互に並んだメッセージ。スワイプしていくと、あの日を境に私のメッセージだけが一方的に続いている。
ナマで出されたことを詰るようなことはひとつも書かなかった。そんなことを書けば逃げられるだけだと分かっている。あの日、口に出さなかった「もう一度会いませんか?」というメッセージも送ってみた。それでも一向に既読がつかない虚しさにまた溜息が出る。溜息をつくと幸せが逃げるよと、誰かに言われたことがある。逃げる幸せがまだ私に残っているならね、と空に笑って、スマホをポケットにしまった。ツキを呼ぶには笑顔を見せろと、昔運動会で踊らされた歌の歌詞。今の笑顔でツキを呼べただろうか。
薬をもらうついでにウサギのマークの「妊娠検査キット」を購入した。夫にでさえナマでなんかでさせたことが無いのに。何はともあれ急いで調べなければならない。
私は会計を済ますと、すぐに近くの手洗い場に向かった。マニュアルを見ると単純に尿をかければ妊娠か否かの判断ができると書かれている。こんな検査キットを使うことになるなんて、考えたこともなかった。個室の中でズボンのジッパーを下ろす。下半身を露出させて便座に座りキットを小水が掛かる位置に準備する。抱かれた男の中には尿を飲みたがる男もいたが、そんな願いも今となれば可愛いものだったと思う。
チロチロと尿道口から小水が噴き出しキットを濡らした。こんな風に自分の尿が出るところをマジマジと見ることなんてないな、と思うそばから跳ねた尿で手が濡れた。嫌な予感が胸を過ぎる。案の定、キットはピンク色に変色した。陽性反応のしるしだ。やっぱりそうか。覚悟はしていた。しかしその覚悟は甘かった。どこかで人ごとのような気持ちだった。どぎついピンク色が矢鱈と目に焼き付いて離れない。どこかで見たことがある色だ。それがどこだったのかは思い出せなかった。
最悪。どうして、どうして私ばかりがこんなに苦しめられるんだ。何だってこんな酷い目にあわなくちゃいけなんだ?そんなに私は悪い人間なのか?いや、ちがう。ちがう、ちがう。私が悪いんじゃない。悪いのはあいつだ。悪いのはあいつらだ。無垢な私を、こんなに貞淑な私を、汚した奴らの、汚したあいつらのせいだ。私はいつまでも貞淑でなければならないのに。私は......。
夜中。眠れない。夫が寝たのを見計らってスマホを弄る。
「明日、お会い出来る方いませんか?」
ああ、目が覚めたらみんな夢になってしまえばいいのに、と思いながら、どうでもいい男たちからのメッセージを眺めていた。
(続く)
「最近はよく眠れていますか?」
主治医は私の目をじぃと見つめながら、全てを肯定して受け入れるよ、とでもいうような優しい眼差しで、私の話を聞いている。そして時に頷く。というか、よく頷く。気にしはじめるとどうにも燗に触るので、見ないようにしたいがそれも出来ない。仕方なく頷く数を数えてみる。ひとつ、ふたつ……。
私は、私の頭の中にあるありったけのリアルを虚ろげな口調で主治医に伝えた。私の中のリアル。それは私だけが知り得る私の世界におけるリアルだ。話していることと現実にどの位の乖離があるのかもよく分からない。私にとっては間違いなく同一の現実なのだが、本当はどこかが違うような気もしていた。それでも分からないことは話しようが無いのだ。
主治医の隣でひたすらパソコンに私の病状の経過をカタカタと打つ看護師とたまに目が合う。マスク越しだが可愛らしい目をした若い娘だ。折角ニコリとしてくれているのに、私は思わず目を逸らしてしまう。悪い癖だ。人の好意的な感情を素直に受け入れられない。普通に会釈をすれば、笑顔を返せば、否、アイコンタクトだけでも十分だというのに。
主治医のつらつらとしたアドバイスもまるで頭に入って来ない。兎に角、処方箋が手に入れば良いんだ。
「……最近は大分安定しているようですね。ではお薬を継続してお出ししますので、また2週間後にいらしてください」
私は会釈をして、診察室を出た。ふう、と小さな溜息が出る。右手が無意識に腹を撫でていた。
新宿で町田と会ってからもう1ケ月半が過ぎた。あれから生理がない。私は出会い系サイトの会員ページを開き、町田とのやりとりの履歴を丹念にチェックした。町田の「はじめまして!」から交互に並んだメッセージ。スワイプしていくと、あの日を境に私のメッセージだけが一方的に続いている。
ナマで出されたことを詰るようなことはひとつも書かなかった。そんなことを書けば逃げられるだけだと分かっている。あの日、口に出さなかった「もう一度会いませんか?」というメッセージも送ってみた。それでも一向に既読がつかない虚しさにまた溜息が出る。溜息をつくと幸せが逃げるよと、誰かに言われたことがある。逃げる幸せがまだ私に残っているならね、と空に笑って、スマホをポケットにしまった。ツキを呼ぶには笑顔を見せろと、昔運動会で踊らされた歌の歌詞。今の笑顔でツキを呼べただろうか。
薬をもらうついでにウサギのマークの「妊娠検査キット」を購入した。夫にでさえナマでなんかでさせたことが無いのに。何はともあれ急いで調べなければならない。
私は会計を済ますと、すぐに近くの手洗い場に向かった。マニュアルを見ると単純に尿をかければ妊娠か否かの判断ができると書かれている。こんな検査キットを使うことになるなんて、考えたこともなかった。個室の中でズボンのジッパーを下ろす。下半身を露出させて便座に座りキットを小水が掛かる位置に準備する。抱かれた男の中には尿を飲みたがる男もいたが、そんな願いも今となれば可愛いものだったと思う。
チロチロと尿道口から小水が噴き出しキットを濡らした。こんな風に自分の尿が出るところをマジマジと見ることなんてないな、と思うそばから跳ねた尿で手が濡れた。嫌な予感が胸を過ぎる。案の定、キットはピンク色に変色した。陽性反応のしるしだ。やっぱりそうか。覚悟はしていた。しかしその覚悟は甘かった。どこかで人ごとのような気持ちだった。どぎついピンク色が矢鱈と目に焼き付いて離れない。どこかで見たことがある色だ。それがどこだったのかは思い出せなかった。
最悪。どうして、どうして私ばかりがこんなに苦しめられるんだ。何だってこんな酷い目にあわなくちゃいけなんだ?そんなに私は悪い人間なのか?いや、ちがう。ちがう、ちがう。私が悪いんじゃない。悪いのはあいつだ。悪いのはあいつらだ。無垢な私を、こんなに貞淑な私を、汚した奴らの、汚したあいつらのせいだ。私はいつまでも貞淑でなければならないのに。私は......。
夜中。眠れない。夫が寝たのを見計らってスマホを弄る。
「明日、お会い出来る方いませんか?」
ああ、目が覚めたらみんな夢になってしまえばいいのに、と思いながら、どうでもいい男たちからのメッセージを眺めていた。
(続く)
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