4 / 10
パラグライダー事件 前編
しおりを挟む
僕の通っていた高校では、高2の夏に林間学校なる行事があった。受験までにはまだ多少間のあるお年頃の男女が、大自然に放たれるのである。当然、様々なトラブルやアクシデントやランデブーが繰り広げられた。人見知りで友達のほぼいないに等しい僕も、人並みな青春に憧れ、密かに思いを寄せる女の子との奇跡のランデブーを夢見ないではなかったが、これまた当然の如く夢は夢。何ひとつ特別なことは起きないまま最終日を迎えていた。
最終日は山岳スポーツを体験する林間学校の目玉企画がある。登山やアスレチック、グラススキーなども人気があったが、何と言っても一番人気はパラグライダーだった。やはり例年通り抽選になったので、くじ運のない僕は半ば諦めていたのだが、見事約3倍の競争率のあたりを引き当てパラグライダー教室に入ることが出来た。
学校教育の一環なので30分ほどの講義がありパラグライダーの歴史や機体の構造、飛行理論などの解説もあった。背中に背負ったリュックのようなもの(ハーネスという)が、飛行中には椅子のようになるのが何とも優雅で、映像の中の女性の笑顔もキュンとくるほど愛らしかった。そもそも人とあまり関わりたくない僕が、人気のパラグライダーを志願したのも、空を飛ぶということに対する憧れが、そのネガティブ思考を上回っていたからであり、今またその思いは夏空高く浮遊していた。
「いいかぁ。インストラクターの先生の言うことをちゃんと守ってやれよ」
パラグライダー担当の教師アソウ先生が間の抜けた声で注意を促す。今日はどのアトラクションもインストラクター任せなので、教師たちは開店休業中、というかアソウ先生の場合は自身も飛ぶ気満々である。手足を縛られたような今時の高校教師に、何を間違ってなろうと思ったのか分からないが、天真爛漫なアソウ先生の場合はあまりそのような苦悩には関係ないようだ。今を力いっぱい生きろと唱える姿勢を貫くアソウ先生は、生徒に先んじて真っ先にフライトしようとしていた。インストラクターに諸注意を受けながらも、顔面の笑みが隠しきれない。いかにも楽しそうだ。アソウ先生が斜面を駆け出した。鮮やかな青と赤に彩られた翼が垂直に頭上に広がる。そこだ、離せ。僕は声になりそうなくらい強く、先生が持つコードが手を離れる瞬間に注目していた。
フワリ
音が聞こえているわけではないのに、明らかに僕の五感にはその通りの音が響いていた。舞い上がった先生の背中がハーネスに沈む。すごい、すごい。僕は鼻血が出そうなほどの興奮に顔を赤くしていた。周りのみんなも「わああ」とか「おおお」とか感嘆詞で先生の勇姿を見ている。僕は歴史の授業の教壇に立っているアソウ先生のことをこんなに一生懸命に見たことないなと思った。宙空で最高の笑顔を振りまく大卒3年目。どちらかと言えば体裁の上がらない先生だと思っていたが、意外にいい男に見えた。
その日は、勿論真夏の陽射しが暑くはあったが、天候も風のコンディションにも比較的恵まれていた。風向きの影響で多少の待ち時間を挟みながら、次々に生徒たちを乗せた蛍光色の翼が飛び立っていく。中にはあまり浮かない翼もあったが、殆どのフライトが数メートルの高さまで浮き上がり、歓声と笑顔に包まれた和やかな体験教室が続いていた。最後から二番目の僕の順番が徐々に近づいてくる。僕の心臓は、冗談抜きに大太鼓を叩かれているかのようにドンドンという響きを立てていた。
ひとつ前の生徒が飛ぼうと準備をしている時に、急に強い風が一陣吹いた。インストラクターのお兄さんは少し心配そうな顔をして様子を見ていたが、暫くしてもそれきり強風が吹くことはなかったので、Goサインを出してパラを飛ばした。フライトは高々と舞い上がるとても優雅なもので、とても気持ち様さそうだった。
ここでインストラクターのトランシーバーに連絡が入る。
「ちょっと山頂の方、風が強くなってるらしいよ」
「こちら、あと二人です。早めに飛ばしましょう」
「了解」
そんなやり取り。ここで飛べないなんてそんな殺生なと思いながら、口に出しては言わないまでも、ねえそうでしょう、なんて思いで後ろを振り向く。
「わっ」
僕は思わず声を出して手に持っていたコードを投げ出してしまった。
「こらこら、ダメじゃない。ブレイクコードはしっかり持ってなくちゃ」
インストラクターのお兄さんは、僕が投げてしまった為に絡まったラインをほぐしながら、
「時間がないから、お姉さんの方から飛ぼうか」
と、最終フライトの予定だった女生徒の方に声を掛けた。
「は、はい」
可愛らしい声。そうだ彼女こそ、この林間学校で奇跡のランデブーが出来ないものかと思っていた、その彼女だった。パラグライダーで空を飛ぶ夢に浮かされていて今の今まで気づかないでいたのだ。何てこった、こんなに近くにいたのに。幸せの時間を気づかない内に無にしていたことに悔みながら、幸運と不幸というやつは、まさに隣り合わせにあるものなのだと実感する。
「順番変更します」
そして彼女が飛んだ。美しい。勿論、彼女が飛んでいると思って見るからなのだとは思うが、今までで飛んだ誰よりも可憐で、そして高く飛んでいた。いや、高く飛んだのは間違いないだろう。
「よし、最後だね。もう手順は大丈夫だよね。よし行こう」
インストラクターのお兄さんがやや急かすように僕の身体を押した。心配無用。もう何回もシミュレーションは出来ている。僕は斜面を駆け出した。すぐに後方から緑とオレンジの蛍光色の翼が立ち上がり、身体が後方に引っ張られた。見上げると頭上の視界に翼が入ってくる。よし。僕は両手に掛けたラインを離すとブレイクコードを握り直した。ダッシュだ。頭から突っ込むつもりで。その最初の加速で僕は忽ち宙にさらわれた。
ぐん
無論そんな音がしたわけではないが、間違いなく僕の身体はぐんという響きを感じながら宙高くに舞い上がっていた。おおお、高い。僕は万歳をしたままハーネスに身を預け眼下を見下ろした。
「はい、ハンドル下げて」
トランシーバーの声に応えて、僕はハンドルを肩まで降ろす。その瞬間正面から強い風がぶつかって来た。
ぎゅううん
強い力に引っ張られて、僕の腕は再び万歳の形に持っていかれた。翼が空に向かって上昇している。わ。この高さ、普通じゃない、ということにさすがの僕も気づいていた。トランシーバーの向こうの慌てた様子が耳に入る。あれ?これってやばい?僕は眼下に小さくなって行くゲレンデを見下ろしながら、足元が急に寒くなるのを感じていた。
「ハンドル離すなよ。大丈夫、パラグライダーは2000mの空だって飛べるんだ」
その時、トランシーバーから急に別の人の声が聞こえて来た。
最終日は山岳スポーツを体験する林間学校の目玉企画がある。登山やアスレチック、グラススキーなども人気があったが、何と言っても一番人気はパラグライダーだった。やはり例年通り抽選になったので、くじ運のない僕は半ば諦めていたのだが、見事約3倍の競争率のあたりを引き当てパラグライダー教室に入ることが出来た。
学校教育の一環なので30分ほどの講義がありパラグライダーの歴史や機体の構造、飛行理論などの解説もあった。背中に背負ったリュックのようなもの(ハーネスという)が、飛行中には椅子のようになるのが何とも優雅で、映像の中の女性の笑顔もキュンとくるほど愛らしかった。そもそも人とあまり関わりたくない僕が、人気のパラグライダーを志願したのも、空を飛ぶということに対する憧れが、そのネガティブ思考を上回っていたからであり、今またその思いは夏空高く浮遊していた。
「いいかぁ。インストラクターの先生の言うことをちゃんと守ってやれよ」
パラグライダー担当の教師アソウ先生が間の抜けた声で注意を促す。今日はどのアトラクションもインストラクター任せなので、教師たちは開店休業中、というかアソウ先生の場合は自身も飛ぶ気満々である。手足を縛られたような今時の高校教師に、何を間違ってなろうと思ったのか分からないが、天真爛漫なアソウ先生の場合はあまりそのような苦悩には関係ないようだ。今を力いっぱい生きろと唱える姿勢を貫くアソウ先生は、生徒に先んじて真っ先にフライトしようとしていた。インストラクターに諸注意を受けながらも、顔面の笑みが隠しきれない。いかにも楽しそうだ。アソウ先生が斜面を駆け出した。鮮やかな青と赤に彩られた翼が垂直に頭上に広がる。そこだ、離せ。僕は声になりそうなくらい強く、先生が持つコードが手を離れる瞬間に注目していた。
フワリ
音が聞こえているわけではないのに、明らかに僕の五感にはその通りの音が響いていた。舞い上がった先生の背中がハーネスに沈む。すごい、すごい。僕は鼻血が出そうなほどの興奮に顔を赤くしていた。周りのみんなも「わああ」とか「おおお」とか感嘆詞で先生の勇姿を見ている。僕は歴史の授業の教壇に立っているアソウ先生のことをこんなに一生懸命に見たことないなと思った。宙空で最高の笑顔を振りまく大卒3年目。どちらかと言えば体裁の上がらない先生だと思っていたが、意外にいい男に見えた。
その日は、勿論真夏の陽射しが暑くはあったが、天候も風のコンディションにも比較的恵まれていた。風向きの影響で多少の待ち時間を挟みながら、次々に生徒たちを乗せた蛍光色の翼が飛び立っていく。中にはあまり浮かない翼もあったが、殆どのフライトが数メートルの高さまで浮き上がり、歓声と笑顔に包まれた和やかな体験教室が続いていた。最後から二番目の僕の順番が徐々に近づいてくる。僕の心臓は、冗談抜きに大太鼓を叩かれているかのようにドンドンという響きを立てていた。
ひとつ前の生徒が飛ぼうと準備をしている時に、急に強い風が一陣吹いた。インストラクターのお兄さんは少し心配そうな顔をして様子を見ていたが、暫くしてもそれきり強風が吹くことはなかったので、Goサインを出してパラを飛ばした。フライトは高々と舞い上がるとても優雅なもので、とても気持ち様さそうだった。
ここでインストラクターのトランシーバーに連絡が入る。
「ちょっと山頂の方、風が強くなってるらしいよ」
「こちら、あと二人です。早めに飛ばしましょう」
「了解」
そんなやり取り。ここで飛べないなんてそんな殺生なと思いながら、口に出しては言わないまでも、ねえそうでしょう、なんて思いで後ろを振り向く。
「わっ」
僕は思わず声を出して手に持っていたコードを投げ出してしまった。
「こらこら、ダメじゃない。ブレイクコードはしっかり持ってなくちゃ」
インストラクターのお兄さんは、僕が投げてしまった為に絡まったラインをほぐしながら、
「時間がないから、お姉さんの方から飛ぼうか」
と、最終フライトの予定だった女生徒の方に声を掛けた。
「は、はい」
可愛らしい声。そうだ彼女こそ、この林間学校で奇跡のランデブーが出来ないものかと思っていた、その彼女だった。パラグライダーで空を飛ぶ夢に浮かされていて今の今まで気づかないでいたのだ。何てこった、こんなに近くにいたのに。幸せの時間を気づかない内に無にしていたことに悔みながら、幸運と不幸というやつは、まさに隣り合わせにあるものなのだと実感する。
「順番変更します」
そして彼女が飛んだ。美しい。勿論、彼女が飛んでいると思って見るからなのだとは思うが、今までで飛んだ誰よりも可憐で、そして高く飛んでいた。いや、高く飛んだのは間違いないだろう。
「よし、最後だね。もう手順は大丈夫だよね。よし行こう」
インストラクターのお兄さんがやや急かすように僕の身体を押した。心配無用。もう何回もシミュレーションは出来ている。僕は斜面を駆け出した。すぐに後方から緑とオレンジの蛍光色の翼が立ち上がり、身体が後方に引っ張られた。見上げると頭上の視界に翼が入ってくる。よし。僕は両手に掛けたラインを離すとブレイクコードを握り直した。ダッシュだ。頭から突っ込むつもりで。その最初の加速で僕は忽ち宙にさらわれた。
ぐん
無論そんな音がしたわけではないが、間違いなく僕の身体はぐんという響きを感じながら宙高くに舞い上がっていた。おおお、高い。僕は万歳をしたままハーネスに身を預け眼下を見下ろした。
「はい、ハンドル下げて」
トランシーバーの声に応えて、僕はハンドルを肩まで降ろす。その瞬間正面から強い風がぶつかって来た。
ぎゅううん
強い力に引っ張られて、僕の腕は再び万歳の形に持っていかれた。翼が空に向かって上昇している。わ。この高さ、普通じゃない、ということにさすがの僕も気づいていた。トランシーバーの向こうの慌てた様子が耳に入る。あれ?これってやばい?僕は眼下に小さくなって行くゲレンデを見下ろしながら、足元が急に寒くなるのを感じていた。
「ハンドル離すなよ。大丈夫、パラグライダーは2000mの空だって飛べるんだ」
その時、トランシーバーから急に別の人の声が聞こえて来た。
0
お気に入りに追加
16
あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語
六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
如月さんは なびかない。~片想い中のクラスで一番の美少女から、急に何故か告白された件~
八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」
ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。
蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。
これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。
一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ヤクザと私と。~養子じゃなく嫁でした
瀬名。
恋愛
大学1年生の冬。母子家庭の私は、母に逃げられました。
家も取り押さえられ、帰る場所もない。
まず、借金返済をしてないから、私も逃げないとやばい。
…そんな時、借金取りにきた私を買ってくれたのは。
ヤクザの若頭でした。
*この話はフィクションです
現実ではあり得ませんが、物語の過程としてむちゃくちゃしてます
ツッコミたくてイラつく人はお帰りください
またこの話を鵜呑みにする読者がいたとしても私は一切の責任を負いませんのでご了承ください*

好きな人がいるならちゃんと言ってよ
しがと
恋愛
高校1年生から好きだった彼に毎日のようにアピールして、2年の夏にようやく交際を始めることができた。それなのに、彼は私ではない女性が好きみたいで……。 彼目線と彼女目線の両方で話が進みます。*全4話
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる