幕末女装パルクール

牧村燈

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パラグライダー事件 前編

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 僕の通っていた高校では、高2の夏に林間学校なる行事があった。受験までにはまだ多少間のあるお年頃の男女が、大自然に放たれるのである。当然、様々なトラブルやアクシデントやランデブーが繰り広げられた。人見知りで友達のほぼいないに等しい僕も、人並みな青春に憧れ、密かに思いを寄せる女の子との奇跡のランデブーを夢見ないではなかったが、これまた当然の如く夢は夢。何ひとつ特別なことは起きないまま最終日を迎えていた。

 最終日は山岳スポーツを体験する林間学校の目玉企画がある。登山やアスレチック、グラススキーなども人気があったが、何と言っても一番人気はパラグライダーだった。やはり例年通り抽選になったので、くじ運のない僕は半ば諦めていたのだが、見事約3倍の競争率のあたりを引き当てパラグライダー教室に入ることが出来た。

 学校教育の一環なので30分ほどの講義がありパラグライダーの歴史や機体の構造、飛行理論などの解説もあった。背中に背負ったリュックのようなもの(ハーネスという)が、飛行中には椅子のようになるのが何とも優雅で、映像の中の女性の笑顔もキュンとくるほど愛らしかった。そもそも人とあまり関わりたくない僕が、人気のパラグライダーを志願したのも、空を飛ぶということに対する憧れが、そのネガティブ思考を上回っていたからであり、今またその思いは夏空高く浮遊していた。

「いいかぁ。インストラクターの先生の言うことをちゃんと守ってやれよ」

 パラグライダー担当の教師アソウ先生が間の抜けた声で注意を促す。今日はどのアトラクションもインストラクター任せなので、教師たちは開店休業中、というかアソウ先生の場合は自身も飛ぶ気満々である。手足を縛られたような今時の高校教師に、何を間違ってなろうと思ったのか分からないが、天真爛漫なアソウ先生の場合はあまりそのような苦悩には関係ないようだ。今を力いっぱい生きろと唱える姿勢を貫くアソウ先生は、生徒に先んじて真っ先にフライトしようとしていた。インストラクターに諸注意を受けながらも、顔面の笑みが隠しきれない。いかにも楽しそうだ。アソウ先生が斜面を駆け出した。鮮やかな青と赤に彩られた翼が垂直に頭上に広がる。そこだ、離せ。僕は声になりそうなくらい強く、先生が持つコードが手を離れる瞬間に注目していた。

 フワリ

 音が聞こえているわけではないのに、明らかに僕の五感にはその通りの音が響いていた。舞い上がった先生の背中がハーネスに沈む。すごい、すごい。僕は鼻血が出そうなほどの興奮に顔を赤くしていた。周りのみんなも「わああ」とか「おおお」とか感嘆詞で先生の勇姿を見ている。僕は歴史の授業の教壇に立っているアソウ先生のことをこんなに一生懸命に見たことないなと思った。宙空で最高の笑顔を振りまく大卒3年目。どちらかと言えば体裁の上がらない先生だと思っていたが、意外にいい男に見えた。

 その日は、勿論真夏の陽射しが暑くはあったが、天候も風のコンディションにも比較的恵まれていた。風向きの影響で多少の待ち時間を挟みながら、次々に生徒たちを乗せた蛍光色の翼が飛び立っていく。中にはあまり浮かない翼もあったが、殆どのフライトが数メートルの高さまで浮き上がり、歓声と笑顔に包まれた和やかな体験教室が続いていた。最後から二番目の僕の順番が徐々に近づいてくる。僕の心臓は、冗談抜きに大太鼓を叩かれているかのようにドンドンという響きを立てていた。

 ひとつ前の生徒が飛ぼうと準備をしている時に、急に強い風が一陣吹いた。インストラクターのお兄さんは少し心配そうな顔をして様子を見ていたが、暫くしてもそれきり強風が吹くことはなかったので、Goサインを出してパラを飛ばした。フライトは高々と舞い上がるとても優雅なもので、とても気持ち様さそうだった。

 ここでインストラクターのトランシーバーに連絡が入る。

「ちょっと山頂の方、風が強くなってるらしいよ」

「こちら、あと二人です。早めに飛ばしましょう」

「了解」

 そんなやり取り。ここで飛べないなんてそんな殺生なと思いながら、口に出しては言わないまでも、ねえそうでしょう、なんて思いで後ろを振り向く。

「わっ」

 僕は思わず声を出して手に持っていたコードを投げ出してしまった。

「こらこら、ダメじゃない。ブレイクコードはしっかり持ってなくちゃ」

 インストラクターのお兄さんは、僕が投げてしまった為に絡まったラインをほぐしながら、

「時間がないから、お姉さんの方から飛ぼうか」

 と、最終フライトの予定だった女生徒の方に声を掛けた。

「は、はい」

 可愛らしい声。そうだ彼女こそ、この林間学校で奇跡のランデブーが出来ないものかと思っていた、その彼女だった。パラグライダーで空を飛ぶ夢に浮かされていて今の今まで気づかないでいたのだ。何てこった、こんなに近くにいたのに。幸せの時間を気づかない内に無にしていたことに悔みながら、幸運と不幸というやつは、まさに隣り合わせにあるものなのだと実感する。

「順番変更します」

 そして彼女が飛んだ。美しい。勿論、彼女が飛んでいると思って見るからなのだとは思うが、今までで飛んだ誰よりも可憐で、そして高く飛んでいた。いや、高く飛んだのは間違いないだろう。

「よし、最後だね。もう手順は大丈夫だよね。よし行こう」

 インストラクターのお兄さんがやや急かすように僕の身体を押した。心配無用。もう何回もシミュレーションは出来ている。僕は斜面を駆け出した。すぐに後方から緑とオレンジの蛍光色の翼が立ち上がり、身体が後方に引っ張られた。見上げると頭上の視界に翼が入ってくる。よし。僕は両手に掛けたラインを離すとブレイクコードを握り直した。ダッシュだ。頭から突っ込むつもりで。その最初の加速で僕は忽ち宙にさらわれた。

 ぐん

 無論そんな音がしたわけではないが、間違いなく僕の身体はぐんという響きを感じながら宙高くに舞い上がっていた。おおお、高い。僕は万歳をしたままハーネスに身を預け眼下を見下ろした。

「はい、ハンドル下げて」

 トランシーバーの声に応えて、僕はハンドルを肩まで降ろす。その瞬間正面から強い風がぶつかって来た。

 ぎゅううん

 強い力に引っ張られて、僕の腕は再び万歳の形に持っていかれた。翼が空に向かって上昇している。わ。この高さ、普通じゃない、ということにさすがの僕も気づいていた。トランシーバーの向こうの慌てた様子が耳に入る。あれ?これってやばい?僕は眼下に小さくなって行くゲレンデを見下ろしながら、足元が急に寒くなるのを感じていた。

「ハンドル離すなよ。大丈夫、パラグライダーは2000mの空だって飛べるんだ」

 その時、トランシーバーから急に別の人の声が聞こえて来た。
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