幕末女装パルクール

牧村燈

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平均台とシーザーサラダ

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「よし、じゃあ次のレッスンを始めます」

 リカ先生の声で、僕ときらりちゃん(地味目の新体操JKの名前)は平均台に向かう。前回はここでリカ先生に平均台の上で高々と舞うようなハイジャンプをして目標の線上にピタリと着地する技を魅せてもらった。高い空からターゲットの獲物を狙うその足は、まるで猛禽類、鷹の嘴の様だと思った。パルクールすごい、と感じたシーンだった。

 僕はと言えば、平均台に立ったのは良かったが、その高さに驚いて、とてもそこで跳ぶ気にはなれずにそのまま歩いて平均台を渡りきってしまった。リカ先生は「すごいよ、カヲル君、平均台に乗るの初めてでしょう?」と言ってくれたが、その直後にきらりちゃんが平均台の上でバック転を決めてしまったので、僕もその演技に感激して、一体僕の何が凄かったのか分からないままになってしまった。

 だから今日は、その真意を聞きたいと思っていた。僕の何がすごかったのかを。生まれてこの方、人からすごいねと言われることなどなかった。言われるとしたら「ある意味、それってすごいね」と「ある意味」という言葉が前につく。そう言えば先日もバイト先の店長の奥さんから言われたばかりだ。

☆★☆★☆★☆★☆★☆

 その日、レジに入っていた僕は、客からシーザーサラダを注文されたのだが、はて?どう作ればいいのか分からない。レジで作るメニューに入っていることは知っていたが、滅多に注文されるものではなく、自分で作ったことはこれまで一度もなかったのだ。隣がアレンなら「ねえどうやって作るの」と聞けただろうし、きっと替わって作ってもくれたと思うが、今日の隣は店長の奥さんだ。普段から何かをものを尋ねようものなら、あからさまな舌打ちの洗礼を受けた上に、きっと後で聞くに堪えない暴言を交えた説教を受けることを覚悟しなければならない。この緊急スクランブル。それでなくても人見知りで満足なコミュニケーション力のない僕に出来ることと言えば、その場を何とかやり過ごすことだ。僕は奥さんに気付かれないように、客に聞こえるギリギリレベルの限りなく小さな声でこう発した。

「すんません。それ売り切れっす」

 客は疑うこともなく「ああそうですか」とパック入りのサラダを替わりに持って来て何事もなくその場は済んだ。隣の様子にも変化はなかった。しかし。奥さんは耳敏くこのやり取りを察知していたのだった。客が引くと間髪を入れずに僕に向かって口を開く。

「あなた。さっきのシーザーサラダのことだけど」

 あああ、見つかってたか。それにしてもどうしてこんなにも癇に触る声なのだろう。奥さんの声は頭の芯に突き刺さるような絶妙の周波数だった。

「この仕事はじめてどれだけになるの」

「2年.でしょうか」

「それでシーザーサラダの作り方も知らないの?」

「は、はい。僕、今までその注文を受けたことがありませんでして……」

「分からないことがあったらすぐに聞くって教えてなかったかしら」

 正論だ。正論責めだ。いくら僕だってそんなことは分かっている。でも分かっていることと出来るとは別なのだ。言いたい言葉は沢山あるような気がするのに、どれもこの場に相応しい言葉ではないような気がして、ひとつも言葉にできなかった。

「まただんまりね。あなたって人は本当に困ったものだわ。人手がもっとあればあなたみたいな役立たずはとっくにクビにしているのに」

「あ、あの」

「何?何か言いたいことがあるの」

 僕はこういう時、どういうわけか無性におしっこがしたくなる。

「すいません、トイレに行ってきて良いでしょうか」

 おお、言えたあ。奥さんのただでさえひしゃげた顔が醜く歪んで赤くなる。

「あなたのその厚顔無恥なところ。ある意味すごいわ。普通この場面で絶対言わないわよ。ていうか、トイレに行きたくなんかならないわ。もういいわ。今度作り方をアレンに聞いときなさいよ」

 ……という具合にだ。

 あ、あとこの時奥さんが教えてくれなかったのは、きっと自分も知らないからだろうと僕は睨んでいる。これはきっと正解だ。

☆★☆★☆★☆★☆★☆

「カヲル君、平均台に乗ってみて」

 リカ先生の合図に僕は「はい」と答えると、ちょっと格好をつけて、ジャンプで平均台に飛び乗った。ちょっと冒険ではあったが、左足がうまいこと10センチ幅の台の真ん中に着地出来た。きらりちゃんの「わお」という声。おお、これは練習の甲斐があったな。そのまま両手を広げてバランスを取り、右足を少し前に着いて体を整える。

「おお、いいわよ、カヲル君。そのまま、そのままそこで静止して」

 リカ先生の指示が入る。前回は台に乗った瞬間にその高さに驚いてしまったのだが、今回はそんなことはない。セミで公園の壁にしがみつき、そこからよじ登った壁の高さに比べれば平均台はずっと低い。壁の高さに慣れた脳が、ここは安全という判断を下しているのだろう。

「OKよ。そこから3歩前進して真ん中まで歩いてみて」

 リカ先生の声の通りに3歩前進する。

「そこで片足になってバランスしてみて。危ないと思ったらすぐ両足をついていいから」

 ちょっと怖い気もしたが、ジャンプで昇った時には左足1本でバランスを取れたのだと思い、すっと右足を前に投げ出すように台から離した。少しふらつく感じはあったが、両手のバランスで安定は簡単に戻った。おお、結構いけるぞ。

「いいわよ、カヲル君。そのまま右足を後ろに伸ばして、身体を前掲させてみて。こんな感じよ」

 リカ先生は自分の身体で見本を示しながら次の指示を出す。先生の身体をなぞるように僕は自分の身体を前掲させていく。意外なほどバランスが崩れることもなく、身体がぶれることもなかった。まるで自分の身体ではないかのように軽くバランスが取れている。

「OK。戻して。台から降りるわよ。ランディングは分かってるよね」

 初回のレッスンで教わって、この一週間も壁から降りる時に必ず使ってきた、パルクールの着地の衝撃を緩和する基本的な技術である。

「はい」

 と答えて自信を持って1.25メートルの高さからマットに飛び、ブレルこと無く着地した。

「すごおい」

 ひかるちゃんが驚嘆の声を上げてぱちパチパチと手を叩いた。同じようにパチパチと拍手をしながらリカ先生が、

「こんなの序の口よね」

 と笑い掛けてくる。何だこれは。こういう局面の経験のない僕は、まるで夢うつつにいるように足元が怪しくなる。いや待て。ホントにこれってすごいことなのだろうか。また担がれて落とされるっていうのはやめて欲しいんだけど。聞くなら今しかない。

「あ、あの先生。この前のレッスンの時にすごいって言ってくれたじゃないですか。聞きたかったのですが、あれって何がすごいって言ったんですか」

 僕は一週間引きずっていた質問をリカ先生に投げた。

「ああ、先週のね。その答えなら今カヲル君が演技してくれた通りよ」

「今の演技?」

「そう。今の演技。カヲル君、今、平均台の上にいるのにとってもリラックスしてたでしょう?」

「は、はい。そう言われれば」

「全然怖くなかった」

「全然、とまでは言えませんが、確かに」

「それがカヲル君の能力よ」

「は?」

 リカ先生は笑いながらきらりちゃんを振り向く。

「平均台って、立つだけでも大変なのに、カヲルさんてば、前回初めて平均台に乗ったっていうのに、スタスタ歩いて渡り切っちゃったじゃないですか。今日なんて片足バランスですよ。しかも全然ぶれてないし。メチャすっごいバランス感覚ですよ」

 リカ先生も頷いている。バランス感覚か。きらりちゃんの評を聞いて、僕は高校時代のある事件を思い出した。
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